好きなようにやればいい。
やりたいようにやればいい。
だけどなかなかそうはできない。
だってそんなことしたら、絶対どこかでしっぺ返しがくる。
好き勝手したら、そのうち嫌なことが起こる。。。
実はその嫌なことは自分で起こしているとしたら。。。?
私たちは自分で自分につまずき石を置いている。
私たちの奥深くにある罪の意識。。。
それが私たちを不幸に導いている。
罪があると信じているから、罰を欲する。
つまずき石は、罰なのだ。
一瞬一瞬、自分に罰を与えている私たち。
「こうなったらどうしよう」
「あの人、私のことこんなふうに考えているかもしれない」
「あ、、痛い、、これってひょっとしてすごい病気の症状じゃないか。。。?」
この思いさえも、自分に与えている罰だ。
苦あれば楽あり。
これも罰だ。
苦労を美徳とする。
これも私たちが罪深いと感じていることへの慰め。
好きにやっちゃいけない。
わがままはいけない。
それをしたら、何かが、、、起こる、、、、。
というビクビクした思いも、また罰の一つ。
そんな風に、ちょっとづつ、苦しい思い、辛い思いをしたら、
きっといつか私は幸せになって、、、、。
って、いつ幸せになった?
それは一瞬だけのものではなかったか?
その幸せを感じた次の瞬間、また次の不幸のために怯える。
これが延々と繰り返されているだけなのだ。
罰は受ければ受けるだけ、刑が軽くなる、、、
わけではない!
視点が間違っている。
罪があるという前提に立っているから、
苦あれば楽あり、
飴と鞭の人生、
いつかやってくる幸せのためにあくせくする人生なのだ。
そしてその「いつか」は、永遠に「いつか」でしかない。
やっては来ない幸せ。ここにはない幸せ。
視点が間違っている。
私たちには罪はない。
だから当然罰もない。
ということは苦労する必要はないのだ。
犠牲を払う必要もないのだ。
ただ、そう信じただけなのだ。
親がそういうことをしているから、そう信じただけなのだ。
社会がそう仕向けているように見えるから、そう信じただけなのだ。
ドラマがそういうもんだと教えてくるから、
自分もそういうもんだと信じさせられているだけなのだ。
ただ罪があると信じただけなのだ。
いつかやってくる幸せは、永遠にやってこない幸せ。
それって、今私は幸せじゃないと宣言している。
何かが欠けていて、それを埋めると幸せになれると信じている。
そしてそれはいつまでたっても埋められない。
私たちには罪はない。
罰を受ける必要もない。
幸せは、今ここで受け取れる。
受け取っていいのだ。
何かいいことをして受け取る必要などないのだ。
何かいいものを見て美味しいものを食べてからの~幸せ!ではないのだ。
何ひとつ、なにもしなくていい。
今、そのままで受け取っていい!
幸せを!
無条件に!
つまずき石を見つけたら、
それを見て、にっこり笑おう。
つまずき石くん、
出てきてくれてありがとう。
あなたは消えるために出てきてくれたんだね。
つまずき石くんは、光に包まれて消えて行きました。
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