目を覚ました時、静かだった。
寝る時いつもカーテンをわざと30センチぐらい開けているから、
そこから緑の風景がのぞいている。
起き上がってカーテンを全開し、また布団に戻る。
目の前に圧巻の緑。圧巻の静けさ。圧巻の安堵。
そこに世界の営みはなかった。
ただ美しい風景があった。
しばらくして心の中にこの世界の営みの感覚が戻ってきた。
私はこの世界の住人。あれをしてこれをして。。。
その感覚が戻ってきたとき、時間というものがこうしてあるんだと知った。
あの時、私は「今」にいた。
「今」というものは、時間の中になかった。
以前は今というものは、過去、現在、未来という、一本の線の中にあると思っていた。
そしてその現在を押し広げようとしてきた。
しかし押し広げることはなかったのだ。
その線上に「今」は存在しない。
今は時間の外にあった。
例えていうなら、十字架の横線が過去と未来という時間。
そして縦線が今だ。垂直の流れ。
あの時私は「今」に引き上げられていた。
「今」から時間と空間を眺め、「美しい」と感じていたのだろう。
時間はひゅんひゅんと流れている。
その時間の中に空間がある。それらは常に変化していく。
ひゅんひゅんと回っている時間と空間を後にする。
どんどんそこから離れていくと、地球という丸い球体が見える。
そこで私たちは日常のあれこれを営んでいる。
しかしそれを「今」から眺めていると、
やがて小さくなっていって、小さな点になり、すっと消える。
そんなイメージ。
時間はどうしてできたんだろう。
テキスト第5章Ⅵ「時間と永遠」2段落目
「罪悪感という感情こそが、時間を存続させているものである」
まさにあの時、私の中に罪悪感は全くなかった。
人間の営み、生活というものが消えていた。
そこには喜びと平安があった。
時間、空間、罪悪感、恐れ、闇、自我。。。
すべて同じものだったのだ。
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