バイトを辞めて、一ヶ月が経とうとしている。
辞めた理由は二つ。母への仕送りをしなくて良くなったこと、そして本業のイラストの仕事が忙しくなってきたから。
いつの間にか、バイトのシフトに合わせて、イラストの仕事を割り振っていた。バイトの合間に制作。これでは本末転倒。しかしそれだけバイトには体力を消耗していた。
朝3時半に起き、5時に入り、12時~13時ごろ上がる。午後はまるあきだが、へべれけになる。一眠りしたら泥のような体になってとても制作する意識になれなかった。
気がついたら、かれこれ4年7ヶ月。イラストの世界だけではわからなかったあらゆることを教わった。
辞める時も「月に一回でもいいからシフト入りなよ」と言ってくれるぐらい仲良くなれた。とてもありがたかった。
たとえ月一でもまだ社員であることはいろんな利点があったけれど、私の中でどこかけじめを欲していた。
インディアンの言葉に「輪っかを閉じる」という表現があったように思う。一つの時代の輪っかが閉じる。一つの輪っかが閉じて、また新たな旅が始まるのだ。
畑も辞めて、バイトも辞めて、今は仕事だけ。ずいぶんシンプルになった。
体力を保つために、午後近所を散歩する。家の周りの里山の道をぐるっと一周。それがいい気分転換にもなっている。ご近所さんともよく会うし、気に入った倒木に腰掛けて、西の空をぼーっと眺めることも好きだ。苔むしていた倒木は、今は私の座り跡でペッチャンコになっている。ここはいろんなインスピレーションをくれる場所でもある。
奇跡講座/コースのワークブック、二周目をやっている。
この本はとんでもなく厄介な本だ。それでも一回めより、ずっと意味が入ってくる。
今日の文言の中に「苦痛の因となるのはあなたの思いだけである」という言葉にドキッとした。
「あなたの心の外にあるものは何一つ、あなたをどのようにも害したり傷つけたりすることはできない。あなたを病気にさせたり悲しませたり、弱くてもろい物にする力のあるものは、世界中探しても何もない。ただ自分が何であるかを認めて、自分の目にするものをすべて支配する力を持っているのはあなただけである」
苦痛を受けると決めているのは私なのだ。この世界が残酷で無慈悲なものだと決めているのは、私なのだ。
自分の人生をよく振り返ってみると、何もかもがやさしく起こっていた。だがそれをどう解釈するかは私の胸三寸。起こった出来事にギャーギャー騒いで、ことを大げさにしていたのは、なんのことはない、私がやっていたのだ。
バイトをすることになった苦しみも、それを苦しみと捉えていたからだ。母が施設に入ったことを悲しみと捉えていたのは私だ。事実はただ起こる。それを解釈することで苦痛を生んでいた。
自我は解釈判断をさせることが仕事だ。私を恐れの中に維持させるには、判断させるのが一番。恐怖に陥れて、恐怖と同一化させ、それと戦わせる、奮闘させる、大騒ぎさせる。それが自我を喜ばせる。
私にずっと「この世は残酷だ」と思いさせ続けることができる。
だが自我は実在してはいないのだ。
コースは一旦、自我が私たちにどんな影響を与えているのかを徹底的に解く。そして苦の正体をくっきりとあばきだした上で、「それはない」と断言する。
ないものをわざわざ持ち出してくることはないだろうと、私たち/自我はいう。それは自我の狡猾な言い回し。自我はあの手この手を使って、自分を存在させ続けたいのだ。
だが表に出して、はっきりとそれを見ない限りは、自我を消滅させることはできない。いつまでも心の陰で隠れ潜み、ことあるごとに私たちを恐れの中に引き込むのだ。
だが表に出して、はっきりとそれを見ない限りは、自我を消滅させることはできない。いつまでも心の陰で隠れ潜み、ことあるごとに私たちを恐れの中に引き込むのだ。
恐れが蔓延している世の中。
いろんな情報を読みながら、苦痛を感じている自分に気づく。不安を解消するために、ありとあらゆる情報をまた欲する。そしてまた新たな不安を見つけ。。。という堂々巡りをする。
そっと情報を遮断し、静けさの中に入る。そこは自我が入り込めない領域。私たちの本質に触れる場所でもある。
私にある一つのイメージが湧いた。
空も地面の境界線もない真っ白な空間。
過去の全て、あらゆる信念を捨てた真っ白な心でそこに立つ。
忘れてきた何かに触れている。
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