人は心地悪いものを見ると、心地よくしたいと思う。
気に入らない状況があると、それを気にいるように変化させようと思う。
私もそうやってきた。
親からも学校の先生からも、そうやるのが人としてあるべき姿だと教えられた。
なりたい自分になるため、努力して、勉強して、行動して、それなりにやってきたと思う。
だけどどこまでいっても満足しないんだ。
一山超えると、また向こうに一山が見える。
なりたい自分にちっともなれない。
そのうち老いがやってきて、今度は別の一山が見える。
今までは未来に向かって進んでたのに、今度は過去の自分を追い求めている。
もっと若かった自分、もっとスマートだった自分。。。(苦笑)
自分でいくら努力してもうまくいかないと、
今度は神社でお願いをする。
場合によってはお祓いをする。
それでも効かないと、
「知ってる神様じゃあ、らちがあかん。もっと地球の向こう側にいる存在に。。。」
と、スピリチュアルな世界に求める。
それでも効かないと、最先端の科学に求める。
量子力学、神様、宇宙人、天使。
ここまで揃ったら、千人力だ。
それでも、やっぱり効かない。
山はどこまでいっても「はてなし山脈」。
疲れ果てて、外にあるものに頼らなくなった。
内側を見始める。
そうすると気に入らないものの理由が明確に。。。
これはいいもの、これは悪いものという判断。
この判断が心地悪くさせていたんだ。
そしてそれは変えられることもあれば、変えられないこともある。
若いうちだと、そう思いたくはなかっただろう。しかし老いが近づくと、どうしよもなくそれを受け入れていくことになる。
一種の諦めが生まれてくると、その出来事に冷静になってくる。
そういう心持ちになってくると、それは実は変えようと変えまいと、同じことだとわかってくる。
そしてそれは変える必要もないことなのだとも。。。
変えようとするとは、欠けているものがあると認めることになる。
自分には欠けているものがあって、それを埋めなくてはいけないのだと言う静かな焦燥感があるのだ。
そう言うことに気がついていくと、その変えようとするものは実は自分の中にある恐れであって、その恐れから呼び起こされる衝動だった。
変えたいものを見続けることは、恐れを見続けることになる。そしてその恐れに力を与えることになる。消そう消そうとするたび、それは大きくなっていく。なぜかと言うと、その前提に「それは存在する」と自分でそれに力を与えているからだ。
ある、ある、ある、そこに問題がある。
と言い続ける限り、そこに問題はあり続ける。
そこに力を注ぎ続けるからだ。
自分で山を作り、それに必死で挑む。
自分が映った影が気に入らないと、必死でその壁を切り刻み続ける。
そんなことをし続けていたんだ私。
起こるに任せる。
それはどうしようもなく起こるのだから。
そしてそれを通り過ぎていくものであれ。
関わることによって持続させるな。
それはやがて消えていくものだから。
移ろいゆくものは、実在しない。
賢者の言葉は、そういう意味だったのか。
山を、
ただ山のままにしておくのだ。
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