2015年2月13日金曜日

善意の受け取り方



ある会があって、やまんばはそれに参加している。
最初のうちは会が終わると、お茶だけで終わっていたが、そのうちみんな好きにお菓子や漬け物や煮物などを持ち寄って、楽しいお茶の時間をもうけはじめた。

するとだれかがいった。
「わざわざ煮てきてもらうなんてわるいんじゃない?」
「そうねえ、わるいわよ。」
「会費制にしたら?」
「100円、どお?」
「いいわね。じゃ、100円できまり」
いつも煮物をもってきてくれる人は複雑な笑顔で、
「どうもありがとう」といった。

一見、正しい行為に見える。
だけどやまんばは少し複雑だ。


去年大雪が降ったあと、近所の人がユンボで雪かきをしてくれた。ものすごく助かった。みんなでありがとうってお礼を言いまくった。
そしたら、ある人が、
「わるいじゃないの。せめてガソリン代だけでも出さないと」と言った。

そうだよなあ。わるいよなあ。こんなの業者に頼んだら、すっごいお金とられるよ。そうだよ。わるいよ。せめてガソリン代だけでも。。。
でも何となく腑に落ちなかった。

「ようするに、チャラにしたいんだろ。借りを作りたくないだけじゃないか」
口の悪いヤツがいった。
なんていいぐさだ!。。。とおもったが、良ーく考えるとそういうことだ。

その善意をそのまんま受け取るとなんだか居心地がわるい。その居心地の悪さをなんとかしようと心がさわぐのだ。
居心地のわるさとは、罪の意識だ。やってもらっている自分はいけない。だからその罪をナントカチャラにするために、「せめてガソリン代だけでも」という発想になる。

もし善意をそのままチャラにするのであれば、業者が請求する通常の値段を払えばいいのだ。すると「そんなことしたら失礼じゃないの。人様の善意は受け取らないと」という。
つまり材料費は支払って、手間ひまの善意だけを受け取るということなのだろう。

はて、それをしてもらって、はたしてやった側は嬉しいのだろうか。
やまんばも自主的にあることをやっているが、その材料費だけを受け取るたびに、複雑なおもいにかられる。
手間ひまも材料もひっくるめて、業者の誇りなのだ。赤字が出るほどのことはしないものだ。その誇りを子分けにして支払われると、善意がにじんでくる。

日本には「お返し」の文化がある。なにかをもらうと、お返しをする。
だけどお金って「お返し」の姿じゃなくて、「支払う」ことにつながっている。だから材料費といえども、お金をもらうと、その人の行為全体に対する値段がつけられたような感じがするんだな。「あんたのギャラはこれだけ」って。



人の善意を100%受け取れきれないのは、どこかでうしろめたい意識があるんじゃないだろうか。人の善意を受け止めるなんてできない。私にはそんな資格はない、みたいな。
だからせめて材料費だけでもチャラに。。。と。

煮物だって、作れたり作れなかったり、お菓子だってあればあったで、なかったらなかったでいい、ぐらいの臨機応変さでいいんじゃないだろうか。決まり事など作ると色々面倒なことになる。全ては流動的な物なのだもの。

人の善意は、心からの感謝の言葉で受け取るだけでいいんじゃないかとおもう。

でもさ、善意をそのまんま受け取ることってさ、ほんとは強さではないだろうか。
まぶしいくらいの人様の善意を、そのまんま受け止めるって、自分にもそれくらいの価値がある!って認めることでもあるとおもうの。

「すごくたすかったです。ほんとうにありがとう!」
ただその言葉だけで、やった人は「やってよかったなあ~」って、心が温かくなる。またなんかあったらやりたいなあ~って、おもう。

彼女の複雑な笑顔は、ただよろこんでもらえたらいいだけなんだけど、っておもっているようにみえた。


2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

そういう時は倍返し!



じゃなくて、半返し・・・(笑)

つくし さんのコメント...

あはは。