2024年4月2日火曜日

出てきてくれて、ありがとう。


 

ある時、心にいっぱい怒りが溢れてきて、

もうどうしようもなくなった。



今までは、そういう怒りがあるということは

私の中にこれこれの信念があるためだ。

その信念のせいで私は怒り苦しむ。

だからその信念を聖霊に渡して訂正をお願いしてきた。


だけど、もう無理だと思った。

そして思いを相手にぶつけた。


当然相手は反論しようとする。

だけど「黙って聞いて!」とそれを制した。

そして自分がどれだけ傷ついてきたかを話した。

香港さんがある時、コンババ上司に正直に自分の思いをぶつけたように。


話しながら、心が落ち着いてくるのがわかった。



正直に話すことは、当然相手を怒らせることになるし、空気が悪くなる。

これから先どんな対応をされるかわからない。

その点、自分の心を見つめ、何に反応しているのかに気づき、

それを赦していく訓練は、相手に知られないまま行うことができ、自分も穏やかになっていく。


しかしあの時は、それも限界だった。

言わずにはいられない私がいた。


でも実は言うことで状況を悪化させることを恐れていたのだ。


起こることは計画されている。

どんな悪い状況に見えることであっても、それは私を解放へと導く出来事なのだった。




そしてAKIさんが言うように、私たちのあらゆる苦悩は、
神様の光に照らされて、消えていくために現れている。


私の怒りは消えるために現れてくれたのだ。


通常私たちは、自分の中に怒りや恐れが出てくると、

「ああ、怒るなんて私は心の訓練が足りてない、まだまだだ。。。」

と、自分を責める方に向かう。


そうではなかった。

消えるために出てくる。

怒りも、恐れも、悲しみも、嫉妬も、

心に現れてきたとき、

それは消えていくために出てきてくれたんだ。


自我はこれを

「修行が足りていないからまだお前の中にあるんだ!

お前はもっと頑張らなければいけないのだ!」

と責めることで、私たちを焦らせ、意気消沈させ、

自分を欠陥のある存在というレッテルを張らせ、さらにこの世界に没入させる。


しかし真実は、闇を光のもとにさらし、消えていくためだけなのだった。


だから怒りが出てきたり、恐れが出てくると、


「出てきてくれて、ありがとう」なのだ。



怒りが出ることは悪いことじゃない。

恐れが出ることも悪いことじゃない。

出てきた闇に感謝しよう。


小さな泡がぷくぷくと上に向かって浮上し、

やがて光になって消えていく。

そんなイメージで私はそれを見る。




絵:「夜の山」




2024年4月1日月曜日

高尾で展覧会を開きます



2年ぶりに展覧会を開きます。

場所はおととしと同じ、高尾駒木野庭園です。


ここは景色も建物も心地が良く、ふらっとくるには最適なところです。

お茶を飲むスペースもあります。

私もおととしの展覧会期中は、自分の家にいるかのように、

行き届いた庭と高尾山の借景を眺めながら過ごしました。


ゴールデンウィーク中、いい季節の中でやります。

土佐和紙を使って思う存分私の中にあるものを引き出して制作します。


今回は5月5日午後2時から、

一時間ほど庭園の館長さん進行のもと、

絵について語ってみたいと思っています。

とか何とか言いながら、話がずれていくかもしれませんが、

そこはご了承ください(笑)。

入場無料です。


みなさんと良い時間を過ごせることを祈って。


どうぞお越しください。




『つくし作品展』


時:2024年4月29日(月))~5月8日(水)

  9時~17時30分


場所:高尾駒木野庭園(たかおこまぎのていえん)

   東京都八王子市裏高尾町268-1

   電話:042-663-3611

   無休 入場無料



2024年3月29日金曜日

美意識

 

母と私

コロナ直前に施設に入った母に、初めてじかに会うことができた。


それまでは施設の屋外から窓越しに会えるだけ。夏の暑い盛り行った時はきつかった。

中の声は聞こえないため電話みたいな機械でやり取りするが、母の言葉は聞き取れなく、頑張って会話を続けても10分もいられない状況だった。


それが今回は面会室に通されて、30分以上一緒にいられた。

機械を通した声ではないので、話している言葉もだいたいわかる。ずいぶん痩せて、化粧っ気もなく老いてきた風には見えるが、相変わらず気品のある風情。


週に二回来てくれるリハビリのお兄さんの話も出た。彼とは長い付き合いになる。彼は多分男性としては、彼女にとって人生初めての心を開いた存在のようだ(父には開かなかったけど笑)。

その彼との会話を楽しげに語ってくれた。




彼女の美意識と確信は、一言で語れるものではない。

立ち居振る舞い、存在の華やかさ、見る目と感覚の鋭さは群を抜いている。

また見えないものへの話にも唖然とする。例えば海の向こうにある森に住む小鳥の声を聞いていたりする(ほんまかいな)。

私は彼女のそういった話に小さい時から触れ、彼女のすごさと私の凡人加減を思い知る年月だった。


しかしその美意識が反面苦痛を生むことも見てきた。

もともと身分の高いらしい家柄のため、彼女は一般的な人々を「下々の者たち」のように見ているようだ。(本人にその意識はない)

だから施設でも部屋から一歩も出ない。食事の時だけ出るが、その際いっさい目を閉じている。さすがに食事の時だけは「目を開けて食べる」らしい(笑)。

その徹底ぶりは娘を笑かしてくれる。


この二元の世界では、優れているもの、美しいもの、良きとされているもの、身分の高いものに意識を向けるともう一方も現れる。

優れていないもの、美しくないもの、良くないもの、身分の低いものが、もう片方に現れ、彼女はそれに悩まされることになる。


不思議なことに、私の父はその身分の低い系(笑)だった。どういった経緯で結婚にまでいたったのかしらないが、結婚してすぐに自分とは全く違う家柄の人間と結婚したことに気づいたという(遅っ)。


そして私が生まれた。私はその両方のハイブリッドだ。

母にとっては毛嫌いする感覚も私は持っている。

ご機嫌取りの、人の顔色を常にうかがう貧しい心の私がいる。

だが反面、何が美しいのかも見える私もいる。




彼女の美意識の高さと自分とのレベルの低さを常に比べてしまい、

彼女への劣等感で60年近く悩まされてきた。

しかしその劣等感を埋めるための解決法は、この物理的分離の世界にはないことを知る。

これが美しい、これが美しくないという形の世界に執着している限り、対立があり、分離はますます分離を生む。


つまり美意識は持てば持つほど苦しく、分離は埋まらず、むしろどんどん離れていく。


私は美に携わる仕事に就き、これを知った時は苦しかった。

しかしその答えはこの世界にはなかった。

その答えを得たことは私の救いだった。





美意識とは「こうであらねばならない」という縛りだった。

それは前提として、「自分は欠けている」というものから来ている。

それが私を苦しめてきた。


美しいものに基準などない。


ただそれを見た時、心が広がる。これが真実なのだ。


それを再生可能なものにする必要はない。

このパターンが美しいから、そのパターンで作らなければいけないとなった時、心に縛りを作る。

形が生まれ始める。分離が始まる。


伝統の美は、その苦しさを含んでいる。

でもその伝統の始まりの一瞬は、喜びだったのではなかったか。



美しいものに出会う。

喜びがある。

心が広がる。


それは形に出会ったからじゃない。

神に出会ったのだ。

光に出会ったのだ。

愛に出会ったのだ。





優越感は劣等感の表れ。実は彼女の中には強烈な劣等感がある。

彼女の持っているものと、私の持っているものは同じだった。


一つの心だから当然だった。

彼女は私だった。

あの美意識もあの感性も、そして父の感覚も、私のものだった。


一つの心が、三人を演じて、そのうちの一人の中に入り、リアリティを体験していたのだ。


身分の違い、優劣、みんな形。

形は分離。

分離をしたいという思いが、あらゆる形を生み出す。

元は神から離れたいと思った罪悪感が分離を作り出した。


しかしそれはもう終わっている。

一瞬思い浮かばされて、一瞬のうちに消えた。


私はその再生フィルムを見ているのだ。



母を施設に送ってしまったという罪悪感はもう消えつつある。

そこには、「こうでなければいけない」という美意識がないからだ。


車椅子を回しながら部屋に戻っていく母を愛しく眺めていた。






2024年3月24日日曜日

自家製花粉症対策


 

私の花粉症歴は40年。

東京に来てからなった。花粉症がなかったのはニューヨークにいた時だけ。

帰ってきたら(3月3日)、いきなり戻った。何でやねん!

まあ、家の前10メートル先に杉林が踏ん反り返っているからな。


で、ここにきてだんだん花粉症の症状がなくなってきた。薬も飲んでいないのに。

どうしてそーなってきたのか、私なりに検証をしてみた。

あくまでも個人の感想ですのでよろしく。


まず、真っ先にやってくるのはくしゃみ。そのあと目が痒くなる。これがたまらない。

以前はかいてかいてかきまくって、

白目の部分が膨らんで目が閉じられないという怪奇現象もあった。


で、かきむしるのをやめてみた。これがツライ。

対処法は、目を水道水で洗う。それでもきついなら、アレを使う。

そう。ハッカ油!


ハッカ油はキョーーーーーーれつなので、直接目に点滴などもってのほか!!!!

それどころか、ハッカ油を触った指で、一瞬でも目に触れたりしたら、地獄を見る。

目から火炎照射器のように、火が出る。(火は出ないが、火がでるがごとくの意)

その一瞬の過ちでのたうち回ったこと数回。死ぬかと思った。


ということで、ハッカ油をどう使うかというと、スプレー式のを使って、四つに折りたたんだティッシュに、「しゅっ!」と、一瞬だけ吹きかける。そしてそれをマスクの方に向けて、マスクの中に仕込むのだ。吹きかけた方を顔の方に向けてもいいが強烈かも。反対方向に向けるが無難。

マスクに仕込んだハッカ油ティッシュとともに息をすると、強烈な清涼感で、鼻の中も喉の奥もじゅ~~~~ってな感じで何かに襲われる(笑)。これが涙を誘って、かゆみなんかどっかに吹き飛んでしまうのだ。


これを発見した時は、びっくりした。以前畑で虫よけ用に使っていただけだったが、こんな使い道があろうとは!花粉症族にとってはノーベル賞もんだ!と、それ以来欠かせない。


そして鼻水。鼻水は、流れるままにさせる。マスクしてたら、マスクの中が鼻水洪水になってても平気。その鼻水でかえってスギ花粉からの保護になり、潤いも保たれ案外快適。

でも外からどう見えるかは知らない(笑)。


そして問題は夜。ネバネバの鼻水が喉に詰まって息ができなくなって死にそうになったこと2回。あれはシャレにならんかった。


昔はネティポットというインドの鼻を洗う道具で、塩水で鼻を洗っていたが、一向に治る様子もない。だったら、そのままにしてやれと、洗うのをやめた。


横になると鼻が詰まって口呼吸。喉がカラっからになる。それで喉の痒みがすごいことになる。

これは蜂蜜で解消した。できれば純正のがいいと思うが、寝る前に蜂蜜をスプーン3分の1ぐらいを舐めて、喉のあたりに塗る(塗るような感覚)。そうすると、なぜか痒さがなくなった。

夜中無意識にかきむしって、ひどいことになっていたのが消えた。



こういう経験から学んだことは、まず出てくる症状に対して抵抗しないという態度なんじゃないだろうか。

鼻水は理由があって出てくる。粘膜を保護するためかもしれない。

あえてかまない。鼻水を消してしまおうとしない。


くしゃみは多分、冬の体から、春に向かって体が開いてくるその敏感なために、異物を排泄しようとくしゃみが出るのだ。かゆみはその異物を感じたせい。でもかくという行為によって症状が悪化し、さらなるかゆみを生む。だからできるだけかかない。これも症状に対して抵抗しないという態度だ。


鼻の奥から出てくるネバネバのヤーな奴も、口から出そうとしたり、鼻洗いで出そうとしたりしないで、出てきたらそのまま飲み込む(爆)。理屈で考えたら、そんなものを飲み込んだら、余計喉が痒くなるような気がしていたが、実際飲み込んだからといって痒さが増すわけではなかった。

だから夜中口呼吸で喉がカラっからになっても、そのまま放っておいたが、その後それによってひどいことにはならなかった。


人は嫌な症状が出ると、「これはいけないこと!」と思って、なんとか対処しようとする。

でもその「対処法」で、さらに混乱し、さらにきつくなってくる。

聞くところによると、花粉症の薬はすごい種類があるそうじゃないか。

風邪薬と一緒で、根本的に直す薬があるわけではないのだろう。



問題は出てきた症状をどう捉えるか?だ。

受け取る。受け入れるっていうのも手だと思うんだな。


これは起こってくる出来事をどう捉えるかってことと同じだと思う。

抵抗しないでそのまんまにしておく。流れていくままにしておく。


そんな感じですべてを生きていきたいなあと思う。




絵:「水仙ちゃん」ペットボトルのキャラクター