2022年12月18日日曜日

山に住むことへの思い


 

所要で2度、隣の藤野に行ってきた。


藤野は周りを山で囲まれている。

相模湖を超えると、すぐに山の中に分け入っていく。


杉林の中を縫うようにクネクネと曲がる、暗くて細い山道、そして激しいアップダウンが続く。


いったいこんな山奥に誰が住んでいるというのかと思わせるほど奥深い。

山の中にあるわずかな平地に立っている家々もある。

斜面に集まる小さな集落や、ポツンとある一軒家。

山道わきのわずかな平地に佇む不思議な形のオブジェ。

それらがあちらこちらにあった。

藤野は芸術家が多く住む村でもある。


朽ちていくアートや、断崖の上に立つ家。。。

そんな風景を眺めながら、心は呟いていた。


「こんなとこ、どうして人は住むのだろう。。。?

土砂崩れが起きたら、完全にアウトだ。。。」


夜、昼間に見た光景が繰り返し思い起こされ、眠れなかった。


何度も起こされて、やっと気づく。

ああ、私はこれを赦さなければいけないんだ。




藤野で見た光景にいろんな思いがあった。

悲しみ、葛藤、不安、恐れ、、、。

どうしてこんなところに住まなければいけない?


それはあの場所への拒絶だった。

あんな暗くて寂しいところには私は絶対住みたくない!と。


その思いを赦すことだったのだ。


聖霊は私に次の解放をタイミングよく差し出してくれる。

本当にすぐそばで見ていると実感する。



私は勝手にあの場所に住むことが悲しく辛いことなのだと判断していた。

住んでいる人になんと失礼な考えを持っていたことか。

彼らがどんなに豊かで楽しい生活を送っているのか、

今の私にはわかるはずもない。

ただ私の思いだけが悲しいのだ。


過去のいろんな思い出とともに、そこにくっついている感情。

その感情を通してたくさんの信念があることに気づく。


山に住むことについての私の考え。

やるせなさ、憤り、そこから抜け出したいという思い。。

それらの思いが、藤野の風景を見て引っ張り出されてきたのだ。


今それを隠さず、自分で表に出してきて、その思いを赦し、訂正をお願いする。


私の解放は、すべての間違った考えを訂正してもらうことだ。

それは自らこの考えはもう必要ないと、差し出すところで終わる。


聖霊はそれを待っている。




絵:「夜の饗宴」



2022年12月12日月曜日

一瞬の奇跡


 

大きな奇跡じゃない、ほんの小さな、

気づかぬような奇跡が起こったことについて書いてみる。


それはある役員会での出来事。


新しい形を望む大多数の人々と、昔からあるパターンで行こうとする一人の重鎮。

案の定、やる、やらないで言い争いになった。


言葉の上に他の言葉が重なり、誰も相手の言葉を聞いていなかった。

ただ自分の主張だけが飛び交っていた。


それは互いに硬いブロックを投げつけあっているように見えた。


その光景を見ながら、心の中で言い続けた。

「私は聖霊さんとともに赦します。

聖霊さん、あなたの見方を教えてください。。。」

心はだんだん静かになっていった。




口から言葉が出てきた。

「私たちは全面的に拒絶しているわけではないのです。

時代とともにみなさんの考え方が変わってきました。

その時代に合わせて形を変えていこうという提案なんです。

従来通りの四角四面の形ではなく、どこまで協力し合えるかというお話なんです。」


一瞬空気が優しくなった。空気が微細になった。

彼が元々持っている優しさが表に現れてきた。


そして何事もなかったかのように、

重鎮は柔軟になって、私たちの提案を笑顔で受け入れてくれていた。




私たちは幸せを形で求めようとする。

でも幸せは形の中にはない。


私たちはただ、自分の存在を認めて欲しいのだ。


そのためには自分が主張する形を受け入れてもらうことで、

自分を認めさせることができると信じているが、それは違う。

そこに答えなどなかった。


重鎮は愛を求めていた。

その思いを受け止めることが最も重要なことだった。

私を認めてくれとは、私を愛してくれという心の叫びだった。


その叫びを聖霊は受け取った。

そしてあの時聖霊は私を使って伝えてくれたのだ。

あの発した言葉だけではない、もっと深い思いをも。


それは同時に私にも教えてくれていた。

真実とはこういうことなのだよ、と。



心の変化は一瞬にして起こる。

それまであったものが一瞬にして消える。

これが奇跡と言わずしてなんというのだろう。

私は密かに心が震えていた。




今でも思い出す。

あの一瞬の空気のやわらぎを。平安を。


覚えておこう~っと。




絵:「そよ風」





2022年12月10日土曜日

心は感動し、頭は動揺する



2週間の展覧会が無事終わった。

たくさんの人たちが見にきてくれた。


みんな、寒い中、忙しい中、来てくれて本当にありがとう。


いつもはギャラリースペースという、真っ白いキューブの中に展示される私の作品。

それが日本家屋の床の間や小窓や廊下など、バックが白くないところにたくさん配置された。

その意外な空間もあいまってか、人々が作品に出くわした時の驚きを何度も目撃した。


そして私は別のことに気がつき始めた。


作品と出会った時の、人々の感動を見たのだ。


「いったいこれはなんだ?」

頭でどう解釈していいかわからない。

何でできてる?どうやって作った?


心の震えを、頭でなんとか構築し直そうとする。

頭で納得しようと躍起になる。

しかし頭は追いつかない。

水彩?和紙?え?どうやって?


頭は素材や材料に向かう。

何を使っているのか、どうやって作っているのか。


しかし頭が感動したのではないのだ。

心が感動したのだ。

心が感動したのを頭で必死で納得しようとしている。


心は感動し、頭は動揺している(笑)。


感動はやがて喜びに変わる。




絵と人々を横から見ていると、そこに見えない交流があった。

何かに触れている。何かを思い出している。

そうか。これなんだ。うわ。そうだ。これだこれだ。


そう心が言っているのが聞こえてくる。


絵と自分、という分離がなくなっている。

絵の中に自分自身を覗き込んでいる。


その時、本来の私たちに触れている。

実在する喜びに触れている姿を

私は、今、立ち会わせてもらっている。。!


私はその驚きと尊さに感動していた。




自分の絵に感動してくれている、という思いはなかった。


絵はただのきっかけに過ぎない。

私は人々の喜びを思い出す瞬間に立ち会えたのだ。


例えば、サッカーの試合で一丸となる瞬間、

コンサート会場でみんなが一つになって喜んでいる瞬間。

絵はみんなをわーっと喜ばせることはできないが、

一対一で向かい合う、無限の美しさと広がりと喜びを分かち合っていた。


それはとても尊い、とても神聖な姿だった。。。


ああ、神様。。。


私はことの重大さに気がついた。




形の比重から心の比重へとだんだん移行するうちに、

心が持つ力の大きさに気づく。

形はただの結果でしかないことを知る。


結果などいじる必要がない。

原因だけを見る。


それはたった二つの選択だけがある。

自我か、聖霊か。

恐れか、喜びか。


喜びが創造する。

それが波紋のように広がっていく。


私たちは、心だ。



 

絵:「はっとする」


2022年12月5日月曜日

真実のお出汁

 



「喜びでこの世界が希薄になっていく~」


と言ったら、友達が


「え~、希薄になるのお~?」


と怖がってたんで、例えてみた。



ここに、分厚いアクが乗っかった煮物がある。

コトコト煮ながら、お玉でちょっとづつちょっとづつアクをすくい取っていく。


すると、だんだんアクが少なくなっていって、

下から澄んだ出汁が見え始める。



分厚いアクは、自我が作り出した罪悪感でできた物質世界。


それをお玉、つまり聖霊のお玉で赦しとともにすくい取ってもらう。


するとだんだん罪悪感というアクが少なくなってきて、


下から、透き通った出汁、つまり愛と光の真実が見え始める。


っていう寸法だ。


だから真実のだし汁が喜びと共に現れてくるから、

アクというこの世界が希薄になっていくのだ~。


どお?

怖くなくなった?





絵:「よろこび」




2022年12月2日金曜日

心に心がフォーカスされる


 

心の中が静かになってくる。


というか、心の中でこの世界のことを考えているのが少し苦しくなってきた。


なんでもないこと。

例えば、明日の予定とか、ここにあるこれをどうしようとか。

そういったたわいもないことまで、考えの中にいることが少し苦しい。


でも心の中に真っ白で何もないところを思い出すと、そこに行く。そこでくつろぐ。


何も考える必要がないことをだんだん知り始める。




心をじーっと見ていると、常にプルプルと活動している。

何かをつかもうと動き回っているのだ。


この衝動が、外にあるものに集中して、

社会を見て批判したり、兄弟を見てジャッジしたりしている。

そしてまた、幸せを形の中に見出したりする。

この形になってくれれば私は幸せ、と。


そうやってこの世界を実在させていく。



私たちは当たり前のように、目に見える形象を中心に物事を考えている。

それは当たり前すぎて、疑問にも思わない。


見えている形象に対して判断や解釈をする。

それは良くない、あれが正しいと判断して、

その形を変える努力をする。


だがこれは結果だった。

まず最初に考えがあって、その考えに基づいて形が見えていたのだ。



物質的に存在するものは、あると断定している。

なぜなら触れるから。におうから。聞こえるから。見えるから。

だから、ある、と。

しかしそれこそが疑わしいものだった。


そもそも私たちはその五感でしかそれが実在すると証明するしかない。

五感という持っているもので「そこにあるもん!」って言ってるだけなのだ。


形はその考えによって作られたものであるということ。


見えているものは結果だ。

その発端は考え。つまり原因は考えにある。


その考えを疑っていく。





自分が今まで持っていた、形に関するありとあらゆる考えを、

聖霊に訂正を頼み続けていると、

心は自分が何を信じているかということに比重が置かれ始める。


形100%から、

形80%、心20%、

そして形60%、心40%。。。。


という風に、原因である心(考え)に心がフォーカスされ始める。


心への比重が大きくなればなるほど、形への恐れがだんだん希薄になっていく。

形は心の結果でしかないことを実感する。


私たちは苦しみを、その原因であるかのように見える形を変えることで、

苦しみを取り除こうとしているのだ。


それは自我のトリックだ。

いつまでも形にとらわれてくれるように仕向けられている。





心は常に活動的だという気づきは、

自我による形を作り出すことに力を使うことから、

私たちの本来の力である創造の方にシフトをし始める。


恐れの中で形を作り出し続けるのか、

愛の中で愛と喜びを創造し拡張させていくのか。


片方は実在せず、もう片方は、、、

いや、それしか実在しない。


圧倒的な実在が迫ってくる。


何も必要ではなく、何もする必要もない。


喜びで、アホになっていく。





絵:「春」




2022年11月29日火曜日

絵を描くという仕事


 

今は展覧会の真っ最中。

毎日たくさんの人と会う。


わざわざ都心から来てくれた友人、ご近所さん、そして高尾山帰りの見ず知らずの人々。


私の作品をしげしげと眺め、

「一体これは何!?どうやって作ってるんですか?」

「それはですねえ~。和紙を使って。。。。」

と説明すると、ますます驚いた様子。


中には食い入るように見て、

しばし嬉しそうにその絵の中に入っていく人までいる。

そういう姿を眺めるのは楽しい。




絵を売るということ。

昔は自分の絵を見せるということにどこか引け目を感じていた。

私の汚点を見せるようで、どうもすいません。。。と。


そうは言いながらも、その展覧会の準備にかかった費用や生活のことを考えると、

絵を売りたい!とおもう。


売りたい。でも申し訳ない。売りたい。でも申し訳ない。

という二つの相矛盾する思いの中でいつも心は分裂を繰り返していた。



でもコースを学ぶうちに、自分の中の罪悪感が徐々に消え始め、

絵と自分との折り合いがつき始めた。

やがて絵を喜びとともに描き始めた。


しかしお金に関する信念は、コースを始めてから何年もそれに取り組んできたが、

なかなか取れるものではない。


そして今回の展覧会中のある夜、お金に関する信念が私を襲った。


怒涛の赦し。聖霊に捧げ、訂正をお願いしまくる。

苦しみは続き、明け方近くに、やっとこのまま、ありのまま、

この苦しみのままでいいのだ。。。

という考えに行き着いた。

その苦しみをそのまま受け取り、気がついたら朝になっていた。









次の日、見知らぬ人たちが、私の絵を見て喜んでくれている。

その姿を見ながら、気づいた。


これだ。。。

私の仕事はこれなんだ。。。


絵はただのきっかけに過ぎない。

それを通して喜び合う。兄弟が幸せになって喜び合う。

これが私の仕事なんだ!


なんてすごい仕事をしているんだ、私は。。。!





「絵を売らないと。。。」という自我のささやきが来た途端、

私の中の幸せが消えた。


さっきまでの、ただ幸せだった感覚が、

「お金。。。」という言葉とともに消え失せる喜び。

この違いにも気づいた。


自我は肉体を維持するためにあらゆることを促してくる。

「この展覧会のためにいくら使ったと思っているんだ。

それを回収しないでお前は生きていけるのか?

なに青二才のようなこと言ってるんだ?」


このささやきに私はずっと悩まされてきた。

だからどうにかして、どうにかしてお金をゲットして、、、と。


そこじゃなかった。

幸せになるために、絵を売って、お金を稼いで、、、


いやいやいや。

その途中経過なんかいらなかった。


今、幸せになれる。

今、目の前の見知らぬ人と幸せを分かち合える。。。。!


なんてすごい仕事なんだ!



私が初めて絵描きという存在を意識したのは、ゴッホだった。


彼の絵に心が震わされながらも、

耳を切って愛する人に渡したり、

絵は一枚しか売れなかったり、

挙げ句の果てに最後は狂って自殺してしまうという絵描きという職業。


小学1年生の私は、

「絶対絵描きになるまい!そうでないと狂ってしまう!」

と、心に固く誓っていた。


しかし図らずも私はその仕事に引っ張られていった。

なんということか、狂ってもいない。


そして今思うのだ。

ゴッホはただ愛をもとめていただけだったのだ。

愛する人を愛するがゆえに、あの表現があったのだ。


そう思えた時、そこに愛があった。



すべては愛の表現だった。

石油ストーブも、パソコンも、庭の盆栽も、

愛を表現したいがために現れたものだったのだ。


その愛のみを見る。


そこには愛しか存在しない。