人のいざこざを見ることになった。
目の前で展開されるそれぞれの主張。
どちらも自分の立場から出てくる正しさ。
二人の話はいつまでも平行線で、互いに噛み合うことはなかった。
これがこの世界の形。
互いが互いを理解することもなく、
せいぜい痛み分けという犠牲を払いながら落とし所に落ちる。
あるいはモヤモヤとしたものを残しながら時間の流れに身を任す。
これには何かある。私に何かを教えようとしている。
私は目の前にいる二人を赦し続けた。
しかし一向に進展がない二人に笑いがこみ上げてきた。
もうええやん。ハイハイって言うといたらええやん。
家に帰って、昼間の出来事を思い起こした時、
私はその二人を赦していなかったことに気づく。
心の中で「赦します」と言いながら、
愚かだとさばいていた。
私は赦すふりをしてバカにしていたのだ。
こうやって自我はコースを乗っ取る。
人の愚かさを見るのは、自分の中にそういう考えがあるから見る。
それは見たがっていると言える。
すなわち、自分はバカだと思っているからこそ、
それを外に見て、自分はバカじゃないと言い張りたいのだ。
ここまでが自我の働き。
そこから聖霊の視点に移行する。
「人は愚かだ」あるいは「私は愚かだ」
その考えを放棄したいか、否か。
それは人も私も愚かじゃないと考えることとは違う。
「愚か」というアイディアは、神の世界にはない。
この世界にしかない「愚か」というアイディアそのものを聖霊に渡すことなのだ。
夜、もう一つ大事なことに気づかされた。
私は人のいざこざを見るのが嫌い。
それは幼い頃、両親のいざこざをいつも見てきたからだ。
一人っ子の私は、その悲しさや恐ろしさを兄弟や誰かと緩め合うこともできず、
ひたすら耐えた。
ある時母に、「私らあがケンカするのは誰のせいやと思う?あんたのせいよね」
と言われ、さらに私のせいでこうなったという思いに苛まれた。
今思えば、母はあまりの辛さにそういうしかなかったのだと思う。
だから今でも人のいざこざをどうにかして和らげようとしてきたんだと思う。
そして今その押入れの奥にしまっていた悲しみの闇を浮上させる時がきたんだと気づいた。
寝る前、昼間に起こったことを再度思い起こす。
目の前に繰り広げられる怒りの渦。
それを見ながら私の中から起こってくる悲しみや怒りや恐れ。
それをじーっと味わう。
胸の奥から湧き上がる嗚咽。体のピリピリ。。
ああ、出てきてくれたんだね、出てきてくれてありがとう。。。
ある瞬間、ふっとその感情が消えた。
なんども思い出そうとするが、もう出てこなくなっていた。
そして怒りに震えて私たちに訴えていたその人の顔が、急に丸くなって見えた。
それまで鋭い剣のような顔をしていたその人が、丸くて愛らしい顔に見えたのだ。
私の中で急に愛おしさが溢れてきた。
全てが溶けていく感覚がやってきて、
今ここに、自分の中に聖霊がいるのを感じていた。
この世界の中で問題を解決することは、
この世界があると思わせ続けることだ。
焦点はそこではなく、それと出会った時の心の状態を見る。
不快はそこに隠してある何かを見るためのチェック機能だ。
自分の心の奥は果てしなく広い。
そしてそれは他の人々と共有している。
一人独立などしてない。
認識は光だ。
そこに裁きではなく、ただ見る、受け入れるということが
すなわち、光をあてることになるのだろう。
母と父の心が、
彼らの心が、
私の心が、
ともに癒されますように。



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