2014年9月22日月曜日

畑と庭の野菜実験



やまんばは、春頃育苗して余ったキュウリの苗を庭にぶっこんだ。
庭の土は宅地の際に入れられたさらさらした砂で、何の肥料も入ってないところ。
今、その苗はぐんぐん育って、1階の屋根を越えそうだ。ゆっくりながらキュウリも育っている。

3本の苗のうち、1本は途中で断念して縮こまっている。残り2つのうち1つは、去年種を選り分けたさいに庭に捨てられた種からかってに出てきたので実生だ。それが大きなキュウリをつけたので、実生からのものは強いと見込んで、種取り用に育てていて、今まさに黄ウリになっている。
肥料も何もないところなので、その1個に全栄養がいくかとおもいきや、新たにいくつも実をつけてくれて、先日も大きなキュウリを2個収穫した。残りの苗にも2個のキュウリが育ちつつある。
一方、畑の方のキュウリは、ふにゃふにゃと心もとない。なんでやねん。

そこで庭と畑でどんな違いがあるか観察する。
あることを発見した。
 
今、庭にキュウリとズッキーニ(これも勝手に出てきた)がいるが、どれもウリハムシに食われていない。ウリハちゃんは、ちょっとでもウリ科の野菜が元気がなくなるとすかさずやってきて、もりもり食い散らかして葉っぱをレースにしてしまうのがウチの畑の常識だ。

ところが庭のそれにはちっともこない。ちょっとでも元気がなくなっても、枯れても、どーなっても、なぜかウリハは来ないのだ。ウリハはめざとい。どんなところであっても、「おー、元気のねえウリだ。ものども、食っちまおう!」「おー!」とやってくるというのに。

もひとつ。
庭で白菜を育苗している。
畑で種を蒔くと、コオロギやバッタがやってきて、葉っぱを食っちまう。しかし。庭にはこない。
実験で買ってきたキャベツの苗も入れてみた。畑ほうの苗はバッタちゃんに食われるが、庭のそれは誰も食わない。ちなみにアオムシはどちらにもいない。

庭のウリ科をウリハムシは食わず、庭の白菜やキャベツもバッタやコオロギは食わない。
なんでやねん。これって、なにを意味する?

ひょっとしてやっぱ肥料?
畑はむかしっからずっと牛糞を入れ続けていたところ。それをヤメて10年たったはずだ。それなのにその影響はまだあるのだろうか。確かに化学肥料は抜けるのは早いが、有機肥料は抜けるのにずいぶんかかるといわれている。やっぱそこ?そんなにかかるのか。

だけど、じょじょに変わってきている。秋野菜は毎年のように蒔いてはむしゃむしゃ食われつづける、ということがめっきりなくなっている。
何かが変わりつつある。



2014年9月20日土曜日

頭にふと浮かぶこと



わたしたちはふと頭に浮かんだ考えは、自分が考え出したものだと思っている。

自分で考え出したものだから、自分のものだと思っている。

自分のものだからこそ、ふと浮かんだから、これはきっと重要なことにちがいない。

この重要なことは、ぜひ解決しなければいけないことなのだ、と思っている。

こーして私たちは、頭の中であーでもない、こーでもないと、一人討論をくりかえす。

この現象は、わたしたちがふと頭に浮かんだことの中に飲まれていく様子を教えてくれている。


こんな話をしていると、ダンナがおもしろいたとえをした。

たとえば道の途中に、
「あ~~っ、穴だ!」
と穴をみつけ、
「大変だ!穴をふさがなきゃ!」
と、何か穴をふさぐ方法を考える。
あーでもない、こーでもないと考え続けるうちに、穴はどんどん大きくなっていくかんじがする。

量子力学でいくと、それをとらえればとらえるほど、ますます存在しはじめる。
これは問題だ、いけないいけないと思えば思うほど、穴はどんどん大きくなっていくのだ。

小さい時から、
「問題は解き明かさねばならない。答えを導き出さねばならない」
とインプットされてきたまじめな私たちは、
「いけない!この穴をなんとかしなければ!」
とあせる。
それにガチで取り組んですったもんだするうちに、いっそこの穴に入ってみようか、などと思いはじめる(笑)。

これが私たちの頭の中にふと浮かんだことにとらわれる現象のようだ。

もしこれが、
「あん?穴だ。ま、そーゆーこともあるだろう」
と、それに囚われることなく通り過ぎれば、その穴の存在は消えていく。
量子力学的にいえば、気にしないものはそこにエネルギーが注がれないため、存在し続けられないからだ。



やまんばは、今朝の起きがけ、ふと何かが浮かんだ。たいていネガティブなことだ。
いつもなら、
「これは問題だ。そうならないためには、あーしてこーしてこーやって。。。」
と考えてしばらく布団の中でもぞもぞしている。
しかし今朝は、
「あ、また来たな」
と、そのふと浮かんだものを相手にしなかった。
ものの数秒でネガティブな考えは消えていた。

どーも、思考ってそんなよーなもんね。
ふと浮かんだものが、いつものパターンバージョンなら、「あーほれほれ」って、そっとしておいてあげよう。そのうち存在できなくなって消えていきます。

そっとせずに乗っかると、自我がよろこびます。
生きてるぜー!って実感がもてます。
ドラマが始まります。
しかし自我さんに問題の解決はできないようだ。過去の前例をアテにするしか知らないからだ。

すべては流転している。いっしゅんとして同じものは生まれて来ない。であるならば、過去の前例を使うことはもうできない。

頭の中でぐるぐるして穴を埋めようと力こぶ作れば作るほど、エネルギー消耗するだけだったのねん。


2014年9月19日金曜日

『種を置く女』



困ったら、そのままにしておけ。
自然農の川口さんのこの言葉は真理を語っている。

ニンゲンは自分の力ではなんにもできないんだなあ。。。そうおもう。

たとえばパンを作るとき、人がやることと言ったら、小麦粉や水などをまぜてねるだけ。あとは酵母菌が勝手に働いて、パンを作ってくれる。ニンゲンだけが作っていると考えるなら、ただ小麦のカタマリがいつまでもそこにあるだけだ。だけど酵母がしゅわしゅわとうごいて、ふくらんでくれる。

畑だってそうだ。
やまんばがこの高尾の地に沖縄のゴーヤや、亜熱帯出身のサトイモや、インカ出身のジャガイモや、トマトや、インドのナスやら、およそ高尾には似つかわしくない野菜の種をぶっこむのだ。よう考えたら、むちゃくちゃな話や。

それなのに、種たちはむくむくと育ってくれる。多少文句はあろうが(いや、おもいっきりいってるかもしれんが)、しゅくしゅくと、たんたんと「しょーがねえなあ、もう。。」とかなんとかいいながら、ぷるんと実をくっつけてくれるのだ。

ある本に書いてあった。
ニンゲンはいつでも矛盾するものをくっつける。だけどそれを解決するのはニンゲンじゃない、と。

わしらはやった気になっている。
たがやして~、肥料入れて~、草とって~、ほーらできた!これ、わしの作品!って。
ほんとだろーか。


やまんばは高尾の地には矛盾する種を置く。
だけどそれを実らせてくれるのは、やまんばじゃない。
だれ?

木を植えた男じゃないけど、やまんばは、『種を置く女』だな。
そしてただゆだねる。おまかせする。なにもしない。
この心持ちがいったいどんなことなのか、まだわからない。だけどきっとそんなこころであることなんだろうなあ~っておもう。

頭で考えることと言ったら、「虫がつくから虫除けしよう」とか、「枯れそうだから、水まこう」とか。
これは怖れから来る行動だ。やらずにはいられない行動。きっとここに解決の道はないんだろうなとおもう。ただ次の混乱を生むだけなんだろうなって。

どんなこころでいることなんだろう。。。。


2014年9月18日木曜日

制限をゆっくりはがしていってる最中



ブログでさんざん意識の話をかいているけれど、じつはこんな話をあまり人にしていない。するのはもっぱらダンナと母だけだ。

なぜかっちゅーと、こころや考え方の話になると、何となく話している相手の考え方がまちがっているのよ的なニュアンスに聞こえてしまいそうになるからだ。
誤解を与えてしまうんじゃないかと。

どうしても善悪、正しいまちがっている、という2元論に終始しがちになるので、「じゃあ、あたしがまちがっているっていうの!?」といわれかねない。
だからやまんばは恐くて言えない。

でもなんだかそういう内容のコミュニケーションもあっていいような時代になってきているんじゃないかと思うんだ。
これが正しい、それはまちがっている、というどっちかしかないような締め付けの世界とはちがう世界。

そもそもそれが正しいまちがっていると解釈するのは、そう教えられたからだけなのだ。それはいつでもいかようにでも変化できるものなのだ。
その締め付けられた価値観は、自分でほぐしていけるようになる。
人生が苦しいのは、自分が自分に制限を与えていただけなんだと。

やまんばもその自分が自分に与えた制限を、ゆっくりはがしていってる最中。これは決して苦しい作業ではなくて、むしろ新しい自分を発見する楽しい作業。自分の中にしか答えがない事をどんどん強く感じはじめている。

あれがだめならこれ、これがだめならそっち、のような入れ替え制のしくみじゃなくて、その入れ替え制のしくみじたいを理解する世界っていうのかな。
そんな話がみんなとできていったらすてきだなあ。。。

だからやまんばがとつぜんへんな話をし始めたら、「あ、きたな」と思ってください(笑)。



2014年9月13日土曜日

あなたは人を演出している



畑の中で、草を刈りながら考えた。

「あいつはなんでああなんだろう。。私の気に入らないことをいつもする。
まてよ。この世は自分の鏡と言うではないか。とゆーことは、あいつはわたしか?
あたしゃああんなに性格が悪いのか?」

大きくなり過ぎて、自分の重みで倒れたメヒシバ(雑草のこと)を刈りながら、ぶつぶつ言う。
「。。。あれ?ひょっとしたら、これは私が考えていることじゃないか?」
手が止まった。
「え?そうなの?え?え?え?そーいうことなの?」


あいつはひでえ性格だ。協調性がなく、自分の意見をたたみかけるよーにいい、いつもあたしはあいつにやりこめられるんだ。
そう思っている私。

量子力学でいくと、そのままあらわれる。
観察されるものは観察するものの影響を受ける。
あなたが信じたものを見る。

この世は鏡だ、というのは、「自分の性格があらわれている」のではなく、
「自分が考えていること」があらわれているのだ!

なんだ、なんだ、なんども自分で言ってるじゃないか。それなのにじぇんじぇん気がつかなかった。すべては「自分で考えている」ことがあらわれているだけだ。



たとえば、ダンナはケチだと断定するあなたがいるとする。
そーゆー目でダンナを見るので、ダンナさんはケチを演じてくれる。それを見たあなたは、
「ほーらね。やっぱりウチのダンナはケチだ。ったく、どこまでケチなんだろうね。ふんっ」
と勝ち誇ったよーな気分になる。
すると予想は確信に変わり強固なものになるので、ダンナさんはますますドケチを演じ切ってくれるのだ。

これ、あなたが演出してね?
あなたは目の前にいる役者に
「きみ、ケチを演じなさい」
と、演出指導をしている監督なのだ。



では、ダンナにケチを演じるのをやめさせるにはどーしたらよいか。
「きみ、ケチを演じるのを今すぐヤメなさい!」
といってみてもダメなのよん。

そのことを理解することだけだ。
理解だ。理解。
言葉でいくら「ダンナはケチじゃない。懐が広~いニンゲンだ」と言い続けても努力の割には報いが少ない。
こころの奥は正直だ。ホントーに信じているものしか、表に出してくれない。

そのからくりを理解するしかない。
それは自分で確かめるのが一番。
自分の気に入らないと思っている人に、なんの演出(つまり断定)を与えているか知ることだ。
今までの方法論のように、何かに置き換えることはもはやできない。

知ると、消えていく。
本当にそのことに気がつくと、消えていく。
演出している自分に気がついていくと、その役者はそれを演じなくなる。



2014年9月10日水曜日

あなたは自分で知っている



カタチをマネる。いわれたとおりにやる。
そうすれば、人と同じように成功するとか、しあわせになれるとおもっている。
だからわたしたちは方法論を探す。さがしてあっちこっちする。
けどなかなかぴったりくるもんがない。

カモの親子のよーに、この世を生きるにはマネをすることから始まる。だけどオトナになってもひたすらまねることしかしない。
これは学校で先生の言うとおりにすると点数をもらえたり、誰かの言ったとおりにやればほめられたりしたからだ。

だからこの習慣は意識しないかぎり抜けない。

これさえやっておけば、だいじょうぶ、とか、
この薬さえ飲んでおけばだいじょうぶ、とか、
あれさえやらなきゃだいじょうぶ、とかの問題ではない。

オトナになった私たちがすることは、理解することだ。

どうして私はこれにイライラするのだろう。
どうして私はこのことを心配するのだろう。
どうしてこのことを思い出すたびに動揺するのだろう。
どうして落ち込むのだろう。
どうして悲しいのだろう。
どうしてくやしいのだろう。
どうしてきらいなのだろう。
どうして。。。

そういう自分を見ないようにして、何か外の方法論にたよるのは、みんなさんざんやってきた。あれをやめてみたり、これをつけたしてみたり。
だけどまた行き詰まってきたんじゃないだろうか。結局ちょっと変化したぐらいで、また何となくフリダシに戻ってないだろうか。

外にあるものや人を変えようとしたり、外にある方法論を見つけてきたり。。。そんなことはもう時間のムダのようだ。
どっちにしろ、私たちは自分の中にある、気に入らないものをどうしようもなく見つめ観察し、理解することでしか、自分を救えない。


自分のイヤな部分を見るのは怖いこと。ジャッジの気持ちが全面に出てくるから。だけどただ見る。不快な気分が襲ってくるのをそのままにして、その不快の中にいる。その時間をもつ。逃げない。何かで覆い隠そうとしない。気分を他に変えたりしない。ただいる。そこにいつづける。全身でその不快を味わう。

するとふと何かがやって来る。それは小さな気づき。
「あ。。。」と。
それはホントに小さなもの。
その小さな声に耳を傾けていよう。聞こうとしよう。
それはあなた自身の内側からやってくる声。
きっと固くなっていたこころが、ホニャ?っとゆるむ瞬間。

それは外の誰におそわるでもない、あなただけにむけられたことば。
あなたは自分で知っている。
誰に聞かなくても。


2014年9月4日木曜日

思考は問題定義が大好き



やまんばはやっとわかったよ。
問題視するから、それが育つんだ。
なあんだ。簡単なことだった。

量子力学がとっくに言ってたじゃん。
観察されるものは観察するものの影響を受ける。
観察する側が、
「これが問題だ!」
と意識すればするほど、つまりガン見すればするほど、この物質世界はガン見されたものがおおきくなるってことさあ~。

自己嫌悪が問題だ!と思えば思うほど、自己嫌悪がものすごーく存在しはじめ、野菜が育たないのが問題だ!と思えば思うほど育たなくなる。

やまんばが、「オイっ、育つのか、育たないのか。どっちなんだ?あん?」
と、まいた種に向かってガン見すればするほど、育たないってことだ。
これって育たないことが問題だって問題定義をし、「育たない」というおもいで注目するから、そーなっちゃうだけちゃうか?


思考は問題視が大好き。自動的に頭で考えてることを外から観察してごらん。その内容は、ほとんどが否定的。あれがだめだ。これがだめだ。ほんとにこれでいいんだろうか、なんかイヤな予感がする、胃がいたい、ヤバい、これって病気?ああ、もう~いやだ、なんてね。

んで、思考は問題を見つけたら、今度は「どうしよう」といって、問題を解決する方法をさぐる。これもまた大好き。

こーやって、一個問題が解決すれば、また次の問題を探しはじめる。
外から見たら「あんた、何の問題があるってえのよ」と思われる人でさえ、問題を抱えている。思考は99%オッケーな人生でも残り1%の問題に「あ~~~~っ!(みっけた!)」ってとらわれる(笑)。


思考の習慣=否定的なものを探す→問題であると判断する→問題を解決する方法を探す。
これだけでヒマがつぶれる。
ぼけっとしてたらおこられるから、これを頭でくりかえす。

私は問題を解決する方法を今考え中なのだ。
けっしてぼけっとしているわけではないのだよ、ワトソンくん。