2014年7月15日火曜日

のーなしはこの世にいてはいけないの?



こないだ仕事でミスやった。それもちょーーー初歩的なことで。

やべえ。まずい。心がおろおろする。いてもたってもいられないから、なんか行動を起こそうとする。いいわけの電話をしようとする。
いや、でもまてよ。今更いいわけしたって先方さんの考えが変わるわけでもない。
なんの?
つまり、やまんばがのーなしだってこと!

ひええ~~~っ、そっそれだけはかんべん!

だが、いくら「オレ、のーなしじゃないっスよ~」といってみた所で、
「ああそーですか。それはそーでしょーね。。。」
と、冷ややかな目で見られるだけだ。

ここはぐっとこらえて、不快感を味わってみる。これ最近のやまんばのマイブーム。
ハラが立ったとき、怖くなったとき、いや~な気分になった時、人はなんだかばたばたしちゃうじゃない。これ、何かやってこの不快感をとりのぞこうとするのさ。だけどなかなか不快なものって取れないわけ。だからあえてそれを味わうことにしたんだ。


ぐっとこらえて味わっていた。すると、自分がのーなしだって思われることが怖いんだってことに気づく。それで、
「どうしてのーなしだって思われるのが怖いのか」
って自分に聞いてみたんだ。

すると自分はのーなしだと思っていたからだったんだ。
「のーなしでは、いけないのか?」
って聞いてみたんだ。

すると、ちっちゃい時にいじめられたり親に怒られたりした時に、自分の惨めさを感じて、
「自分はのーなしなんだ。そんなのーなしはこの世にいてはいけないんだ。。。」
って思ったことが始まりだったって気がついた。

のーなしは、この世にいてはいけない。

『無能の人』という映画を見て、共鳴した自分がいる。あれは私だ。ああいう存在なのだ。何の国益にもならない、何の人の役にも立たない、でくのぼうだ。だからこそ、人のためになることをしなけりゃ、この世にいる意味がないのだ。。。。そうとことん信じた。

やまんばの若かりし頃は、『コスモポリタン』という女性雑誌が世に出て、女性は社会に出てがんがん頑張っちゃうってのが理想の女性像だった。だからがんがんやる、世のため人のために生きる。これが人として、女としての価値ある行為だああああっ!と信じてやまなかった。

しかし!しかしだよ。このボンミスはなんだ!のーなし逆戻りじゃねえか!



畑で草を刈りながらかんがえていた。

やまんばが無肥料栽培やって、まともに育てられないことをなげいているのは、こののーなしではないけないのだ、能力がなければ生きていてはいけないのだ!と言う強迫観念から起こっていた衝動だったんだと気がついた。

ところが!ところがだよ!
一緒にやっているぱぱさんやおおママさんさんは、そののーなしやまんばをちっとも責めないのだ。肥料やって育てりゃあっという間におっきくなる野菜も、無肥料で結果が出せないにもかかわらず、やまんばののーなしをそのまんま受け入れてくれていたのだ!

がくぜんとした。
のーなしはのーなしで、そのまんまうけいれてもらえているのだ。
やまんばは仕事ができるヤツしかこの世に受け入れてもらえないと思っていたので、仕事ができるヤツのフリをしていたはずだった。しかしじつはしっかり見破られてて、できないまんまで受け入れてもらえていたのだ。。。ああ、なんてことだ。。。。


先日、ある会社の人たちが、ある一人ののーなしスタッフについて語り合っていた。
「仕事ができないなんてもんじゃない。人としてどーよってくらい!」
だけどそこの上司は彼をやめさせない。会社の不利益甚だしいのに絶対やめさせない。
だけどまわりのスタッフは彼の行動を通して「自分」の一面を知る。ふつうであることのすごさを知る。理解をするとは何かを知っていく。彼がいることで色んなことを学んでいたようだ。


やまんばののーなし加減が人にどーのこーのと言う筋合いはない。
だけどこの世は堅苦しく、せせこましー世の中だっておもってるけど、ほんとはものすごい寛大に受け入れてくれているんじゃないだろうか。

この世はどんな人でも「あんたはそのまんまでそこにいていいよ」
って、最初っから受け入れてくれていたんじゃないだろうか。
ただ自分が受け入れてもらえてないって勝手に思ってるだけで。

そしてもとは、自分が自分を受け入れてないだけだったんじゃなかったか。


畑の中でひとりあったかいきもちになるやまんばであった。。。

2014年7月13日日曜日

バチはあたるもんなんか?



ばちがあたるということばがある。
このことばはわしらの心に深く根付いている。

いい行いをすればいいことがやって来る。
悪い行いをすれば悪いことがやって来る。

この一見当たり前のよーな『法則』に、わしらはヤラレちまっている。

ほんとにそーなんか?見たんか?じぇったーい、そーなるんか???

かみさまが上から見てて、
「お、A子はいまいいことをしたな。ほんならほうびをつかわそう」
「お、B子はいまわるいことをしたな。ほんならおしおきをしてやろう」
って、神様が罰を与えるんか?

かみさまはそんなふーに、目には目を、歯には歯を、見たいな、こころのセマコいことするんか?かみさまがくれる愛は、はかりにかけて比べて、あなたの行為しだいで、愛をあげたり、罰をあげたりするんか?
そんなちっこい存在なんか?



それって、かみさまにしつれーなんじゃないかと、わしはおもうた。

そーおもってるのは、わしらのほうなんじゃないか?
わしらが勝手に、それはそーなるのだと信じて(そういう法則を作って)からのち、その『法則』をちっとも疑わないで使い続けているだけじゃないの?

ほんでもって、勝手に作った法則に、びくびく、おろおろ、悪いことしたら悪い事が起こる。。。いいことしよっと、いいこと、いいこと。。。。って、なんかいいことせんといかんって。。。
これって強迫観念ちゃう?

人にやさしく、自分に厳しく。。。。
いかん、思わずケーキ食って自分にやさしくしてしもうた。こりゃどっかでバチが当たる。ンじゃあ、自分に厳しく、だ。ダイエットダイエットと。。ね?イイでしょ?今ので帳消しになった?

。。。おろおろびくびく、、、ひやひやどきどき。。。

そんな自分に気がつかないで、
「おれ、びくついてナイッスよお~」
って、おろおろしている心を押し入れの中に封じ込める。

「ちゃんとしなきゃ」ってのも、もともとは、ちゃんとせんとバチが当たるって、とこからきてんじゃないか。

ひょっとしたら、ばちがあたるっておもってるから、イヤなことが起こると、
「やっぱりバチが当たったんや!」
と、勝手にそれとこれをむすびつけているだけなんじゃないか?
じつはそれとこれはまったく関係なく、ただそれがおこっただけなんじゃないか?引き寄せているようにみえるのは、それとこれを結びつけて勝手に解釈するってことだったんじゃないか?


やまんばの「ちゃんとしなきゃ病」はこんなところがもとにあったんやなあ。

んでかみさまは、そんなやまんばを、
「よきにはからえ」
と、ほほえましくおもってくれてんのやろうなあ。
(いつから神様は殿様になったんじゃ?)

宇宙はどこまで行っても寛大やな。


2014年7月11日金曜日

恐怖とワクワクは紙一重?



「さっきまでものすごう雨ふってたから、窓あけてながめてたんやけど、もうやんでしもうた。おもしろうない」
きのう朝10時頃高知の母に電話する。こっちは心配して電話してんのに、雨やんでおもろうない、などとほざきおる。

「おう、今こっちは思いっきり晴れちゅうぞ。台風どこいったんやあ?」
と、昼過ぎに今度は父からの電話。確かその時間は台風さんは室戸沖にいたはず。。。
「目の中にいるんじゃないの?」と私。
「目の中なもんか。どこっちゃあにおらんが」
と不満げ。(見えるんかい)

ドーーーモ、高知県人は台風がお好きらしい。
来る来るゆうて大騒ぎしては、たいした事なかった~といって、不満がる。
来てほしいんか。ホンマはドドーンと来てほしいんやろ!ええ?

今度の台風は鳴り物入りでやってきた。父だけじゃあないはずだ。高知県人はきっと嬉々として台風の準備をしたに違いない。
わくわく、どきどき。くるくるくる。。。、
きっ、、、、、来たああ~~~~~っ!と。

母は言う。
「天が大騒ぎするとあたしはうれしい。あたしをゆさぶってちょーだい」
こらこらあんた、何を不謹慎な。。。よそ様に聞かれたらなんていわれるか。。。


ひょっとして、、、恐怖とワクワクは紙一重なんじゃないか?

ジェットコースターは安全装置が働いてるから、だからワクワクするんだっていう。だけどほんとにそうか?ほんとはいつだってぜったい安全じゃないだろ。バンジージャンプだって、いつ切れるかわからないじゃないか。
絶対安心だから恐怖をワクワクしているわけじゃない気がする。ほんとは、恐怖自体がワクワクなんじゃないか?お化け屋敷行くのと、心霊スポットに行くのは、結局の所、おなじじゃないか?


「あんた、台風が好きなんだとばっかり思ってたよ」
と、ウチのダンナは言う。
わしゃ、台風が来ると怖くて怖くておろおろしていたつもりだったのに、はたから見たら「おもしろがっている」よーにみえたらしい。

とゆーことは、ほんとはわしは台風が好きなんか??本人が自覚してないだけなんか?


ひょっとしたら、母は自分に正直なだけかもしれん。
わしらは恐ろしことがあってはいけない、惨めな事になってはいけない、という善悪の基準がある。だからそんな不謹慎なこと考えてはいけないと思って、ほんとはワクワクしている自分ををセーブしているとしたら、こんなもったいないことはない。


最近は特に善悪の基準がはっきりと現れている。台風が来て多大な被害を被る人のことを考えると、「台風うれしい」なんて、口が裂けても言えない(口が裂けたら言えなくなるが)。そんなトーンがこの世にあふれている気がする。だから素直に自分の意見を言えない空気がある。

だけど心のどこかで恐怖はワクワクとつながっているって知ってたら、もし悲惨なことが自分の身に起こっても、それはチャレンジがやってきたのだ!と受け止めると、それもまたよろこびなのではないだろうか。

運命はひとりひとりにていねいに出来事をくれる。
それは偶然に、だれでもよかったんだけど、たまたまあなたにおこってしまったような悲劇ではなく、何かもっと、ひとりひとりにとっての大きな意味のあるものだ。
去年、仙台で出会った被災された人々にも、そのような何か大事なものがあたえられたような、そんな感じを受けた。それは今思い出しても、心が熱くなるようななにか大きなもの。。。


仕事が干されるかもしれない。のたれ死にするかもしれない。悲惨な人生になるかもしれない。人はそんなふうに考えている間、恐怖を感じている。だけど実際それがおこるとは限らない。いやむしろその確率はものすごく低かったりする。
だけどその間、カラダは震え、ぞくぞくし、場合によっちゃあ、かあ〜っと熱くなり、「生きている!」という実感がある。
まさに台風は風が横なぶりに吹き、大雨が降る。その瞬間、おれは生きているぞお~~っ!という確かな実感がある。


高知県人はそれを味わっているのかもしれない。酒飲んで、おいしいものを食べて、ふっといことゆうて大騒ぎして、大雨大風にうたれて、命を思いっきり謳歌する。

それってニンゲンとしてすごいおもろい人生じゃないだろうか?

今まさに怖がっている自分をふと振り返って、
「ひょっとして今、私ワクワクしてない?」
って、心にそっと聞いてみるのもいいかもしんない。


2014年7月8日火曜日

どこまで行っても主観



フォーカスすれば、いいも悪いも関係なく、そこに存在するかのように見える。
これが多分量子力学の言わんとしていることなんではないか。それにすべてが言い尽くされている。物理学はもっとその奥に互いを引き寄せる「力」の物質が存在していると信じているからもっと「物質」をさぐる。でもそれは「物質」ではなくて、「意識」なのではないか。
いや、ひょっとすると、「意識」も「物質」と言えるのかもしれないが。
いや、そもそも物質は意識なのではないか?

STAF細胞が小保方さんしか作れないのは、彼女の信念が作り出しているからだ。
誰かがそれをやってもうまく行かないのは、そこに疑いがあるからなのではないか。
もし頭のよさそーな、いかにも学者っぽい人が「発見」してたら、みんなはあっというまに「証明」できたかもしれない。
しかしムーミンがそこらに飛んでる割烹着おネエちゃんの発表となると、どっかで「ホンマかいな?」って、つっこみたくなるではないか。事が重大なものだけに、頭の固い学者は疑ってかかる。その「信念」が再現を阻んでいるのかもしれない。

客観性って、本当に存在するんだろうか。だれかが「それは赤色です」といっても、「そうです、それは赤色です」といっても、「間違いなくそれは赤色です」といっても、各々がもっている二つの目から言ってるだけのことで、どこまでいっても主観ではないか。
「あるよね?」って聞いて、「はいあります」っていったり、「いいえありません」って言っても、主観ではないか。わしらは色んなこと疑うくせに、自分の目を疑ったことがない(笑)。
第三者が見たって言ったって、
「それ、自分の目で見てるし主観やん」と、つっこみたくなる。

そもそも「証明できる」ものなどないんではないか?

この世の現象はすべて「証明」されなくてはいけないらしいけど、最近の気象も「前例がない」とか「常識では考えられない」とか言っちゃってるし、じゃあ常識ってなんよ。それかて勝手にパターンを見つけて(パターンがあるはずだと信じているから)それを当てはめただけじゃーん。
だけどおエライさんが言うから「そうにきまっている」ってことになって、こーなったら、こーなるわけで、それが世に言うジョーシキになる。

んで、そーじゃないと、「これはありえない新発見だ!」とか「奇跡だ!」とか「オーパーツだ!」とかいってごまかす。だけど最近じゃそこらじゅうオーパーツだらけ(笑)。

だから、「これが問題だ!」と言って深刻になる必要もひょっとしたらないんかもしれん。こーなったら、じぇ~~ったいこうなる!ってわけでもない。

でも「そうなるに決まっている、そうなるに決まっている、、」
って呪文のように心でず~~~~っと思ってたら、宇宙の力学さんが
「あー、はいはい。ではそのよーに」
って、取りはからってくれるわけさあ。


絵:「お月見」/裏高尾の不思議な仲間たちより
やまんばの住みかは古木のウロの中。月を愛でながらワインを飲む。

2014年7月7日月曜日

あるある大実験



問題定義、問題意識、危機感。
問題を見つけて、その問題を取り除くという行為は、その問題に心をフォーカスしつづけることになる。
そこに問題があるあるあるとおもいつづけ、消さなきゃいけない消さなきゃいけないとおもいつづけると、あーらふしぎ。その問題はいつまでたっても消えないし、むしろのその逆で、どんどん大きくなっていく。

量子力学は最初からそのことを伝えていた。
見るから物質として存在し、見てないとただの波である。

あると思っているから存在し、気がつかないものは、存在すらしない。

わしらは、みんなが共有している三次元の空間の中に解き放たれた物質的なイキモノで、それがあっち行ったりこっち行ったりしていると思っている。しかしほんとは信じているからそれが存在するのようにみえるのではないか。つまり本人が信じているもの次第ということなんではないか?


ある催眠術師が、A氏に催眠術をかけた。術師はA氏の娘さんを連れてきて、娘がいないと信じ込ませるように催眠術をかけた。すると目の前に彼の娘がいるにもかかわらず、
「娘さんはいますか?」と聞くと、
「いない」と答える。
娘さんはそれを聞き、大笑いするにもかかわらず、まだ気がついていない。そこで術師は、彼女の後ろに回って、誰にも見えないようにあるものをポケットから取り出して、娘の背中に押し付けた。
「これは何でしょう?」と術師。A氏は身を乗り出し、娘の身体を見通すかのようにじっとみつめると、
「それは時計です」と答えた。
術師はうなずくと、今度は時計に刻んである文字が読めるかと聞くと、彼は目を細めそこに刻んである小さな文字を正確に読みあげたのだ。
似たような話はいくらでもある。

これは何を意味するのか。それは単に催眠術にかかったからでしょ。といえるのか?物質が確実に物体としてそこに存在しているという前提ならば、
なぜ彼は催眠術にかかったぐらいで娘さんが見えなかったのだ?
なぜその向こうにある物体が時計だと「見えた」のだ?
ついでに、なぜうちの母は自分で背骨を再生したのだ?

じつは物質は私たちが思うほど固くないかもしれない。じつは問題は私たちが思うほど、確実に存在してはいないのかもしれない。

あるあるあるとおもえば、あ、な、た、がそれを存在させ、それを維持させ続け、ことを大きくするだけなのではないか。

いやだいやだとおもうってことは、それがあるあるあると認めつづけることになり、
「あ?そーですか。はいはい。ではそれを存在させ続けておきましょう」
と、宇宙はあなたに計らってくれているだけなのかもしれない。


2014年7月5日土曜日

先客がいるとエンリョする草たち



アメリカと日本の仕事をきのうまでに終わらせて、さあて野良仕事!、、、って、雨びじょびじょ。う~~、畑に行きたい。行けない。ひまだあ~。

さて、最近の畑のようす。
イネ科の雑草が畑全体をおおいつくしているが、以前のように「あなたの姿が見えないわよ」と近所のおばさんに言われるくらいなほどではなくなった。いや、これから夏本番だし今からすごいんだろうけど。
だけどこの畑と付き合いはじめて5年経てば(だったっけ?)、草さんのパターンもだんだんわかってきたので、「お、今が刈り時」って時に軽く作業をすれば、「ぐわ~ん、すげー!」って泣きが入らなくなってきた。

それに草にクズのツルが絡まって一見グッチャグチャにみえる状態も、ぐっとかがんで根元を見れば、あ~ら、意外と足下スッキリなのよねん。やまんばはすかさず根元をバシッと刈り上げる。するとあっという間にそこらはすっきりする。

このあいだも雨の合間に出かけていって、畑の西奥の、山と合体しようとしている場所を刈った。
そこは「いつでも野生に返ってやるぜ」と、やまんばに挑戦を仕掛けるてごわい場所。そこに去年の秋、意図的にそこらに三浦ダイコンの種を蒔いた。ダイコンを収穫しようと蒔いたわけではなく、荒くれ野郎の草たちはいつでも進出してやろうと身構えているくせに、そこに先客がいると「遠慮する」らしい、意外と謙虚な一面をかいま見たからだ。

案の定、冬のあいだわさわさ三浦ダイコンは育った。だが手抜きおばばは間引きもせずにほっぽらかした。するとぐわんぐわんに密集したまま葉っぱだけが大きく成長し、そこら一体を凌駕した。春になってもやまんばはしらん顔。そのまま花が咲き、6月には実がつきはじめた。でもあいかわらずやまんばはほっぽらかしておいたのだった。

いつもなら手強い雑草が生い茂って、その上にクズのツルが這い回り、にっちもさっちもいかなくなるのに、ふっふっふ。私の作戦勝ち。自分の実の重みで倒れた三浦ダイコンのの上に乗っかったクズのツルは、たった一本だけだった。

根元をのぞいてみてもスッキリ。やまんばはがあ~っと三浦ダイコンを刈り込んだ。さすがに間引きしてないだけあって、細っこいダイコンばかり。だからそのまま地面の中にいれたまんまで、上だけ刈って、その種が入ったさやがついたままの枝をハミキリで20センチの長さにバサバサと切って、その場所にまき散らした。

そしてその場を踏んづけた。
最近のウチの畑は、耕すのではなくふんづける。フンズケないと、モグラのトンネルだらけだから、せっかく種蒔いても途中で死んでしまう。それにここまでふかふかだと、やまんばが踏んづけた所で、体勢に影響はないのに気がついたから。

そして去年やっととれた大豆をよだれを垂らしながらつっこんだ。(えこひいきすごすぎ)
エダマメさ~ん、そだっておくれよ~。

さて、そのうちそこら一体は、まき散らした大根のさやから芽がでて、カイワレ大根畑になるだろう。そのうちのどれかが、晴れてダイコンにまで変身してくれるかどうかは、ダイコンさん次第。

2014年7月4日金曜日

観念があんねん



自分で怒っている最中に自分の怒りに気がついている。そしてそれを観察することができるようになったら、きっと何かに気がつくはずだ。
「おれって、いつもこのことで怒ってるよなあ。。」って。
そのとき自分のパターンに気がついている。

人はつい「こんなこと、だれだって怒るに決まってるだろ!」って思って、それについてどうして怒るのか観察することをしない。
たいていはおれを怒らせた誰かのせいにするか、悲劇的なおのれの人生をなげく、とゆーことをやってその場を終わりにする。

それをずっとやりつづけて、苦しみもがくのもそれもまた人生の醍醐味。
だけど別バージョンもある。やってみてソンはない。しかもそれはメチャクチャ面白い。へえ~、自分ってこんなこと考えてたんだ~って、次から次へと自分を発見することになる。すると人のことはどーでもよくなって、もっぱら自分の反応を見つけることに忙しくなる。
「おれ、今自分がマイブーム。」
なんちゃって、外から聞いたら引くよーな状態になる(笑)。

このときその人は、自分の感情に対して、いい悪いという判断をしていないことになる。
ここ大事。
それってわき起こる感情に対して、いちいちジャッジしていないから、その感情を、何も感情をはさまずに(ややこしいな)見ることができるのだ。


怒りは必ずその人がもつ概念からわきおこる。
そのひとがいつのころからか「これはこうあるべき」とインプットした概念があって、それを基準に心が揺さぶられている。怖がることも、悲しみも、嫉妬も、およそネガティブな感情はそこから発生する。
感情は無意識に出て来るえたいの知れない恐ろしーもんではなく、自分を掘り下げていくと、必ずや
「あ、これこれ。この観念が基準になってんねん」
って気がつく言葉があるのだ。

それはホントにたわいもない言葉。
小さいより大きい方がいいとか、少ないより多い方がいいとか、ヘタよりうまい方がいいとか、低いより高い方がいいとか、遅いより速い方がいいとか、小学生でもわかる基準が元になっていることが多い。たいていは二元論である。

はあ?それ?みたいなしょーもないとゆーか、たわいもない観念が基準になって価値観が出来上がる。それがオトナになるにしたがって、どんどん複雑に絡み合って大きく膨らんで、大問題にまで発展してしまうのだ。