2011年1月8日土曜日

弥太郎と慎太郎




みなさま。新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

久々に高知でお正月を迎えました。
最後はいつだったかおぼえていない。両親も離婚して20年。実家がなくなると、こうも遠くなるもんでせうか。でもそのおかげで、何となく親から精神的に独立はできてきた気がする。物質的に「あのウチに帰れる」とおもうのと、「あのウチはないのだ」とおもうのでは、ちとちがう。

その高知で、父に岩崎弥太郎の生家と中岡慎太郎の生まれたところに連れて行ってもらった。岩崎弥太郎家は、小学校低学年のとき連れていかれた気がする。あれから40年。こんなにちっこいウチやったんか?とおもう。高知弁丸出しのおばちゃんが、ガイドしてくれた。なかなか歯に衣着せぬ本音トーク。
「龍馬伝のときみたいに、あんなに弥太郎さんくはびんぼーじゃなかったきねえ」「龍馬とおうたがは、長崎です。高知じゃあ、いっぺんもおおちょりません」
ことごとくNHKの龍馬伝を否定。
最後は「弥太郎さんはエプロンさん。龍馬さんは革命家」
その言葉の後ろに、「やっぱ、金の亡者より世の中を変える人の方が上」というニュアンスが漂っていたのがおかしかった。弥太郎ガイドしながら龍馬をたてる。

ちなみに弥太郎の生家は復元ではなく、215年経つ弥太郎が生まれたままの姿。その維持のために、茅葺き屋根は、10年か20年に一回ふき替える(どっちか忘れた)。茅の材料費に1000万円。ふき替える職人さんは高知にはひとりもいない。岡山や広島や、いろんな県外の職人さんを何十人も呼んで作業する。その費用も1000万円。屋根だけで2000万円かかる。その他諸々の費用もすべて、県ではなく、三菱財閥が行っている。
「県は、なんちゃあ手を出しちょりません。そんなお金払えません」
彼の遺言によって、その子供たちがまわりの土地を買い、蔵を建てて、領地を広げていった。
あくまでも金にまつわる弥太郎家であった。

その足で、もう少し東に行った奈半利の奥にある山の中の中岡慎太郎の生家にいく。ここは復元であって本物ではない。しかし生まれたその場所に昔の通り復元されていた。
私はここに初めて来た。深い谷底の周辺に、斜面にへばりつくように家が固まっている。さっきの弥太郎家とまるで違い、ひんやりと山の霊気を感じる。
「ここで中岡慎太郎は生まれ育ったのか。。。。」
ちょっと感慨深いものがある。
息を深く吸い、彼の存在を感じようとした。物心ついた頃には室戸にいて、いつも中岡慎太郎の銅像を見ていた。そのせいか私は龍馬よりも中岡慎太郎にひかれる。いやその時代、高知でも「龍馬より慎太郎」というムードがあった。二人の顔写真見てもどう考えても慎太郎の方が男前だ。いたいけな乙女な私は、あの緊張感のある顔にぐっとひかれた。
じっさい、彼の資料館にいっても彼の成した仕事がいかに地元に貢献した努力家であったかが歴然としている。地元の灌漑事業に着手し、飢饉のための知恵をしぼり、あのユズの栽培を始めたのも慎太郎が種を持って来たのだと言う。つねに勉学に励み、その行動には、大きな勇気を感じる。
こんな山奥で、いったいどんな心を持っていたのか。
は~、またほれてまうがな。

ダンナがいう。
「弥太郎と慎太郎は両極端にいるな。おもいっきり商売人と、がっちがちの革命家。龍馬はそのちょうど真ん中に位置する。革命家であり、商売人。だから今の人はその真ん中の龍馬にひかれるのだろう」と。

とーちゃんがいう。
「弥太郎は高知になんちゃあ貢献しちょらん」
たしかに。

目の前は海、後ろは屏風のような山にはさまれて、どこにも行けない遠流の地、土佐。むかしから時の罪人、といってもその時代のお上に抵抗した人々が流されて来た人々の血が脈々と流れている。このDNAで培われて来たパッションが頂点に達した時、ああいう人々を生み出して来たのだろう。

今の時代は、その幕末に似ていると言うが、はて、そんな人材はこの高知からふたたび出てくるのだろうか?

 
絵:「沈没船が教える世界史」メディアファクトリー新書表紙

2010年12月31日金曜日

ヨゴレの罪悪感




やまんばは暮れの大掃除がだいっきらい。
なんできらいなのか。ヨゴレを見るのがいやなのだ。じゃなぜいやなのか。それはそのヨゴレを見ると、自分の罪悪感が盛り上がって来るからだ。

「わ~、汚いねえ~。。。ここまで汚くするって、それってどーなの?そこまでほっといたあんたっていかほど?」
と、言われている気がするのだ。じわ~っと罪悪感に苛まれる。そして次の瞬間、自己嫌悪に移行する。
その罪悪感と自己嫌悪のダブルパンチを食らいたくないために、見ないフリする。しかし「暮れの大掃除はよい年を迎えられる」という伝統(掟?)による強迫観念の中で引き裂かれる。かくして無理矢理、いを決してぞうきんを持つ。しかしぞうきんを持つまでの行為にいたるまでに、そーとーのエネルギーを使っている。

みんなそんなにエネルギーを使っているわけではないのか?わたしだけなのか。

その根底に、いいこと、悪いこと、という2元論が横たわっているのに気がつく。ヨゴレは単なるヨゴレである。しかしそのヨゴレという言葉の後ろに「いけないこと」という形容詞がつく。自分は怠慢にもそのヨゴレが出るまで放っておいたのだ、という判断が下されている。掃除をするとは、そのいけないことをしてしまった私の、そのいけないことを白日の下にさらされるのである。

よそから見たら、「あんた、これ、単なるヨゴレじゃないの」となるのかもしれない。しかししつけの厳しいウチに育った自分は、なんでもかんでもいいこと、わるいこと、という判断やレッテルを知らない間に貼付けていたのだ。
単なるヨゴレとしか思わない人は、お掃除するとき親に怒られなかったのだろう。
「あんた!なにしゆうぞね。こんなに汚うして!さっさと洗いや!」
「おんしゃあ、なにしよらやー!」
とは言われなかったに違いない。

今、横に怒る人はいない。しかしインプットしてしまった罪悪感が私を勝手に責める。ヨゴレを見る。罪悪感が走る。自己嫌悪になる。その苦しさから逃れるために、言い訳を考えだす。
「し、仕事が忙しかったから」
「あ、あとでやろうと思ってたのよ」
「き、今日はちょっとからだがだるくって。。。」
心は正当化に忙しい。


つまりこうゆうことではないのか。
1:何かを見る。
2:ネガティブなことに結びつけてしまう。
3:それに対して罪の意識を感じる。
4:そんなことをする自分がイヤになる。
5:だが依然としてそれは消えない。
6:苦しくなってくる。
7:なんとかしてそこから逃げようとする。
8:そうなってしまった理由をさがしだし、自分を正当化しようとする。

そうやって、人は絶えず罪悪感と言い訳の中で翻弄されているのかもしれない。

ということは、ヨゴレを見て、勝手に自己嫌悪におちいっているだけなのだと気がつく。すると、ヨゴレを見ても何も感情的におもわなくなる。
「あ〜。こんなところに綿ぼこりがある〜。とっちゃえ!」
と、おもしろがれる。前のように、取れないヨゴレにイライラしたりしない。からだは勝手に軽くうごき、テキトーなところで終わらしてしまえる自分がいたのだ。

なんだ。そんなことだったのか。


絵:「ハーバードビジネスレビュー」Michaerl E.Porter

2010年12月27日月曜日

生物多様性畑




知り合いのお家から、大きな大きな大根をもらった。一個もっても持ち上がらない。たっぷり栄養をもらって育ったりっぱな大根だ。サラダや煮物にしていただきます。

さて、それとはうってかわって、ウチの大根は大根とは言わない。どんぐりみたいにちっこいんで、小根と呼ばれている。ショーコンというと、なんだか根性のちっこいやつ、みたいなイメージだなあ。商魂たくましいとか。なんだ、ほとんど私じゃねえか。やっぱペットみたいに、野菜も作る人間に似てしまうんかなあ。

そーいやあ、種取りしたアブラナ科の野菜も思いっきり根性曲がっている。
先日ちっとも育たない白菜をふと、横から眺める。なんと、白菜の下にでっかい白い根っこが地面からぼっこり飛び出しているではないか。
な、なんじゃこりゃあ~~~っ。

直径10センチ以上ある白い大根が地面に突き刺さっている。いやカブか?その下はいったいどーなっているんだろ。丸いのか、長いのか、引っ張ってその正体をのぞいてみたい衝動に駆られる。これは確かウチでとった白菜の種だ。よく見たら、あちこちの太らない白菜の下に大根が潜んでいる。お、おもしろいじゃねえか。。。。
このように複雑怪奇な野菜(こうなると野菜なのかなんなのかわからない)が育ってしまう妖怪畑である。やっぱりペットと同じで似ちまうのか。。。


去年は全滅したソラマメ。今年秋口にまいた種は順調に育っていた。ある日、コウベをたれているソラマメちゃんを見つける。みんなでしょんぼりしている。よくみると、おびただしい数のアブラムシがソラマメちゃんのコウベにビッチシくらいついているではないか。顔中にアブラムシを付けて、がっかりしているようだ(ちがうだろ)。
ここまでくらいつかれていると、手で取るということはまったくできそうもない。おもわず、根っこから引っこ抜いて、水道でジャバジャバ洗って干して、また植えなおしたい衝動に駆られる。
しばらく考えて、
「困った時はそのままにしておけ」
という自然農の師匠川口さんのおしえどおり、ほっとく。(おい)

見ないフリしていたソラマメちゃんを久しぶりにのぞく。あれ?なんだかがっかりしていない。よくみると、あんなに顔にくっついていたアブラムシちゃんが、顔洗ったあとのように消えている。はは〜ん。あいつら、夜のうちに地面から這い上がって、近所の川で顔を洗ったな(それもちがう)。

ふと彼らの足下を見ると、カラスノエンドウが育ち始めている。そこにアブラムシがべっとり。。。
なんと移動しているようなのだ。
アブラムシは、「やっぱ、ソラマメより、カラスノエンドウよね~」
と言ったのか、どーなのか。

こーゆーのをコンパニオンプランツというのか?アブラムシちゃんにはアブラムシちゃんの好き嫌いがあって、
「あたし、ソラマメはあんまし好きじゃないけど、まあ、大好きなカラスノエンドウが出てくるまでは、これでガマンしてやるか」
と、当座のしのぎだったのかもしれない。草がないきれ〜いな畑じゃ、こんなことは発見できないど。これはコンパニオンプランツというよりは、今ハヤリの生物多様性っちゅうやつなんかもしれん。うちの白菜だって、大根と合体しているし。これを多様性と言わずして、ナニを多様性と言うのか。

今度、近所の畑のおやっさんにアホにされたら、草ぼうぼう畑と言わずに、
「ウチの畑は、生物多様性保全ですから」
といっておこう。ドーダー!

 
絵:ムックの表紙

2010年12月22日水曜日

予言ごっこ





「あんた、2011年10月28日に地球は終わるんだって、テレビで言ってたよよ」
と、母が電話で言う。私はほとんど見なくなったから、近頃のテレビの動向はわからない。

あれ?確か地球が終わる(人類だっけ?)のは、2012年12月21日じゃなかったっけ?いつの間に早まったんだ?
またはじまったなあ。『ノストラダムス現象』はいまだに人々を魅了するらしい。

やまんばも中学生の頃、ノストラダムスの予言を読んでコーフンしたたぐいの純朴な少女だった(どこが?)。その頃はまだ「やまんば」ではなかった私は、
「ああ、その時代に地球がなくなるんなら、子供は産めないわねえ。大変だもの。1999年に死んじゃうんなら、それまでにどんな人生にするのか、しっかり考えとかないと」
と真剣に考えたのだ。
んで、ニューヨークでその時を待った。なんにもおこらない。。。
「はれ?予言はどこ行っちゃったの?」

それからまもなく、マヤの予言というものが出現。今度は2012年12月21日に地球は終わることになった。その予言の説得力のために、フォトンベルトというものが現れ、地球温暖化があらわれ、千里眼者があらわれ、ありとあらゆる方向から、マヤの予言の説得力を演出する。それで一時期出版物もテレビも盛り上がった。が、どうもそれだけじゃ、ネタが減って来たらしい。たいくつしはじめた。それで、もちょっと早めの予言、どっかになあい?と。


みんな心底この社会がいやなんだろうな。だからちょっとでも早いとこ「終わって」くれればもっとうれしい、という深層心理なんだろうなあ。何の根拠でその日なのかはしらないが、あと1年も地球が持たないんであれば、ほとんどあくせくしないでいいではないか。わくわくしてその日を待つのがいいではないか。と、言う心理なのか?

どっちにしたって、ナーンにも起こらんとやまんばはフんでいる(人為的な演出はあるかもしれないが)。
歴史を辿ると、いつの時代も「予言」があった。その度に人々は右往左往し、実はワクワクし、あっけらかんとその日は過ぎ去り、予言なんてなかったかのようにやり過ごす。そしてまたある日、あらたに出現する「予言」に、凝りもせずまたコーフンを繰り返して来たのだ。

しかしこの世は終わらない。
アメリカ映画が映像で起こすような派手な崩壊は起こらない。地球のどこかで地震が来て火災が起きて家は崩れるだろう。しかしまた人々は動き始める。大カタストロフィーなどというものは起こらない。人類はひたひたと生き続けるのだ。そしてそこにはまた人々の葛藤がつづいていく。人生はいつまでたっても、その人が死ぬまで否応なく続いていくのだ。
だから予言に喜んでいてもしかたがないと思う。予言は一種の娯楽にすぎない。ゴシップネタのように楽しんで、自分の人生から逃避しているだけのことだ。

だからそろそろ私も自分の人生とか自分の感情から逃げないことをせんといかんなあと思うのである。
怪奇現象に逃げ、UFOに逃げ、予言に逃げ、スポーツに逃げ、レジャーに逃げ、金儲けに逃げ、不倫に逃げ、エステに逃げ、ほんでもってパワスポに逃げる私たち。今いる自分がいやで、今置かれた立場がいやで、年がいく自分がいやで、どこか別のところをいつも探している私たち。

その結果が、こんなにもみょ〜な世の中を作った。ホントは人のせいでも政府のせいでも予言のせいでもない。それを作ったのは他でもない、私たち自身。
その理由を理解するには、心が混乱して変になっていく過程を、はっきりと自分で見ることじゃないだろうか。そこには何の方法論も存在しない。その人にしかできない。誰も助けられない。そしてその心の中には、探し求めた青い鳥が住んでいる。実はその青い鳥そのものが自分なのだ。



でもさあ、最近太陽の位置がおかしいのを感じるのだ。
こりゃ、予言どころの騒ぎじゃないぞ!

って、相変わらず逃げてんじゃねえかよ。

絵:「ハーバードビジネスレビュー」イラスト

2010年12月18日土曜日

最初のインプット




「こんなアラグイ歯で、よく大口あけて笑うなあ」
これがウチのダンナの私の印象。私は歯並びがチョー悪い。しかし本人はちっとも気にしていない。それは前歯が外れたとき、「お、ゲージツ的な歯並びだ」と母に言われたからである。子供の私は、「人のはずらっと横並びなのに、私のだけがたがたしている。かあちゃんはこれがゲージツ的だといって「ほめて」くれた!」(と、おもいこんで)喜んだのである。
それが私の自分自身の歯にたいする印象。「歯並びが悪いのは、かっこいいのだ」と。だから大口を開けて笑う。
だってかっこいいんだもん。

ここには二つの価値観の違いが存在している。
1:歯並びが悪い→かっこいい
2:歯並びが悪い→かっこわるい

母にほめられなければ、(ほんとはほめていなかったかもしれないが)私は今頃、口に手を当てて笑っていたかもしれない。

どうも最近思うのだ。人は最初のこれがいい、これが悪い、と言う価値観のインプットが、そのまま続いていくのではないかと。
そもそも感情が揺れるのは、その価値観のいい、わるい、という判断がなせるわざなんじゃないか?
つまり、真っ白なキャンバスに最初に塗られた色、又は最初に描き込まれた○か×かで、判断基準を作ってしまい、それは気付かないまま大人になってもその価値基準を続行させ続けるのだ。ヨメと姑がやり合うのは、生まれた時にインプットされた価値基準がまるで違うからだ。姑とダンナは価値基準が一緒だ。当たり前だ。ダンナの価値基準は、その母親がインプットしたものだからだ。

ひょっとしたら、人間は、ものすごーい単純なのかもしれない。

真っ白なコンピューターに、ある日「歯並びが悪い」という言葉が入ってくる。と、同時にそれはいいこと、悪いことという判断が一緒に添えられる。「歯並びが悪い」というアイコンをクリックすると、私のコンピューターには「かっこいい」という文字が出てくる。しかしダンナのアイコンをクリックすると「かっこ悪い」と書いてあるのだ。ダンナはダンナで、歯並びにたいする価値基準が、どこかでインプットされている。

私の「白髪」というアイコンをクリックすると、「かっこいい」と書いてある。母の「白髪」というアイコンをクリックすると「みっともない」と書いてある。
私の「ほっぺた真っ赤」というアイコンには「かっこ悪い」と書いてある。ダンナの「ほっぺた真っ赤」というアイコンをクリックすると「かわいい」と書いてある。
最初にそれがしのび込んだら最後、延々とその価値基準のまま、人は行動するのではないだろうか。

その基準が「みっともない」とか「かっこ悪い」と心を動揺させるのだ。感情的になるとは、この価値基準がもとになっているにちがいない。人はポジティブな価値観よりも、ネガティブな価値観に心を動かされる。ほっぺた真っ赤が恥ずかしいと思う私は、つねに自分のほっぺたの色を気にする。鼻の頭に汗をかくのが恥ずかしいと思う人は、つねに鼻の頭の汗を気にする。最初の第一歩の、その項目が出来上がった瞬間の、いいわるいに振り回され続けているのだ。

小さい時、その真っ白なコンピューターにアイコンは爆発的にふえる。
そのアイコンの中には、最初にインプットされた価値観、「いい」「わるい」という単純な価値観が入り込む。
少し大人になってもう少し複雑な心境も入る。ここちよい、ここちわるい、キモイ、キモくない、損、お得、勝った、負けた、好き、嫌い、えらい、えらくない、すごい、すごくない。。。。。などと。だが依然としてそこには二元論が展開されている。

たったこの二つの価値基準が、人同士を争い事に持っていく。二人の人間の後ろには膨大な数の二元論がひしめき合っているのだ。それは子供の頃にインプットされた価値基準によって。。。。

続く。。。。?


絵「ハーバードビジネスレビュー」扉イラスト

2010年12月16日木曜日

まだ知られていない感情?




怒りというものが、言葉によって固定化されたかも知れないので、ついでにいろんな憶測もしてみる。そもそも感情というものは、怒り、悲しみ、恐怖、嫉妬、喜び、などなどの言葉によって表現される。なんとも計上しがたい感覚ってえのんは、「言葉にならない」ですまされる。だいたい上記のものが主流となっているが、ひょっとしたら、この世には、まだ知られていない感情が存在しているかもしれない。赤色と青色の間には、紫色が存在するように、怒りと悲しみの間になんかまだ言葉にされていない感情があるかもしれん。KYみたいな。(意味不明)

んで、それが「発見」されたあかつきには、皆大手を振ってこれがその感情だあ〜と表現する。そうやって新しい感情が、市民権を得る。純文学には、その手の感情があふれているので、これでまたあらたな純文学が開拓されるのであろう。

ということは、感情とは5、6種類だけではないかもしれないのである。音が8音階でできていると勝手に思っているが、それは西洋さんだけの決まり事で、アラブさんとこにいきゃあ、64音階(?)もあるように。そうなったら、純文学はいそがしーのである。

ではその元になる最初の言葉になっていない感覚とはいったいなんぞや?なのだ。何やら胸の辺りがもぞもぞと、もやもやとするあの感覚である。

何か出来事があったときや、人になんか言われたとき、なんか知らんがもやもやする。それは即座に怒り!と反応するが、それはその言葉を知っているからだ。同じ過去の体験を思い出し、
「こっこれは、過去にあったぞ。そうだそうだ、これは怒りジャー!」
と瞬時に脳みそが言葉によって導きだしてくるのだ。
じつは悲しみも同じように反応からやってくるのではないか?
「こっ。。このもやもやは何だ?そうだ、これは悲しみという種類のものだ。え〜ん」となる。

つまり、ひょっとしたら、最初のもやもやはほとんど同じ感覚で、そこから、これは、恐怖や怒りや悲しみや喜びであると判断した脳が、その言葉によってそれを増幅しているのではないか?

最初に何らかのエネルギーが発生して、それを脳が各分野に振り分ける。(ちょっと間違えたら、怒りが喜びになっちゃうかも?)それは放射線状に広がり、これは悲しみだあ〜とどんどんその力を増していく。ということだったら?

すると、感情というものは、ほとんど同じ感覚から来ているという事になる。ある種のエネルギーの爆発。ひえ〜、そうなっちゃうと、感情ってたいした違いのない、ただのエネルギーってことかあ?
純文学さん、これは事件です。


絵:「ロクシタン」ネット会員さんの似顔絵

2010年12月13日月曜日

なんかようかい?




言葉というものは不思議な作用があるものだ。
言葉によってイメージは強化される。「閉じている」「KY」「2番じゃダメですか?」
時代時代によってハヤリ言葉が現れる。その言葉を聞くと、その時の状況や固定化されたイメージがすぐ浮かぶ。
それをおもちゃに、人を「閉じてる人」とか「KYな人」とかいってみたりする。するとそれはまた固定化され、Aさんを「あの人はKYな人だ」と、Aさんに対してイメージが固定化されるのだ。いっぺんついちゃうと、これがなかなかとれない。Aさん=KY。

言葉はイメージを固定化しやすい。人の名前でもそうだ。
ガンジー=えらい人。小沢いちろー=ダーティな人。
一旦なにかの拍子でついちゃったイメージは、なかなかとれないもんだ。意識的にとろうとも思わない。だって、誰かが言ってたんだもん。それをそのまま受け入れちゃうのが手っ取り早い。右にならえ。人と違うこと言ってたら、白い目で見られるし。

感情のエリアでもそうだ。たとえば「怒り」という言葉。
この言葉もイメージなのだ。ダンナとけんかしてむかっ腹立つとする(日常茶飯事)。このやろあのやろと色々心が大騒ぎする。そして過去にあった出来事をつらつらと机の上に並べ始める。一旦広げ始めると無限に広がってくる。東京ドームぐらいの大きさに広げたところで、だんだん飽きてきてそのうち寝ちゃうのがいつものパターン。昼間だと、仕事を思い出してダンナのことを忘れている。そうやって怒りは「そのうちおさまる」というパターン。そうねえ。かれこれ、20年はやっているかしら。ほほほ〜。

さてこの「怒り」という言葉を使わないとどうなるのか。この世に「怒り」「腹が立つ」「怒る」という言葉がなかったとする。
ダンナと口喧嘩をする。心が動揺する。ダンナに言われたことを繰り返して考える。また心が動揺する。動揺するということは、少なからずあたっているからだ。全く外れていたら、動揺しない。つまり私が何か間違ったことをしたかも知れない、とおもっている。失敗したかもしれないとおもっている。でもでも、それはこういう理由でやったことなんだから!と自分がやったことを正当化しようとする。心の中で一所懸命言い訳している。。。。だけなのだ。

この時の感情を「怒る」という言葉を作ったことよって、イメージが固定化されていく。この動揺は「怒り」なのだと。まわりの状況を見計らわず好き勝手に振る舞う人を「KYな人」というように。そんなことをいうと、感情と言葉とは違うといわれそうだけど、ほんとに?「KYな人」と言った言葉の後ろに感情は入っていないのか?

「怒り」という言葉を教えてもらったのは子供の頃。これが怒りというもんだと、母や父から教わる。そうやって私は小さい頃から「怒り」のイメージを記録に残して来ているのだ。だからダンナとけんかすると動揺がおこり、これが「怒り」だと、過去の経験に照らし合わせて思い出し、無意識に「怒り」をグーグル検索し、あらあら出てくる過去のいろんな怒りのオンパレード。
いつの間にかダンナへの怒りも、世の中への怒りも一緒くたになって爆発するのだー!

と、なっているのではないか?

だから「怒り」も「KY」も似たようなもんだと思うぐらいが、よろしいんではないかとおもっちょる。「怒り」というイメージの言葉に、執着するほどの価値もないかも。

じっさい、腹立った時、その腹の立った感情だけをみてみるといいかも。ダンナの言った言葉を思い出すのではなく、ただその自分の動揺だけを観察してみるのだ。自分の心の大きな動揺に気がつくだろう。その動揺をいいとも悪いとも判断せず、ただみる。ただひたすら自分の心だけを見る。いいわけもしない。きっと言葉がどんどんうかんで出てくる。ああいった、こう言われたと。しかしそれも映画のワンシーンのように眺める。人ごとのように見る。そのとき、何かが溶解していくのを見るだろう。
そのときこう言うのだ。
「なんかようかい?」

(えーかげんにしなさい!)

 
絵:「ハーバードビジネスレビュー』カットイラスト