昔、神と出会ったことがある。
って書くと、白いローブを羽織った後光が差す聖人と会ったとかイメージしちゃうけど、
そんなもんは何一つ見えなかった。
そこに物質的にあったのは、
何一つ遮るものがないものすごい広い空と、
ひたすら広がるひび割れた大地と、
完全なる無音の世界。
音がない世界にいたのは生まれて初めての経験。
鳥や虫などの生命の音がしない。
風の音すら飲み込んでしまうほどの無音の空間。
そこで私は神に出会った。
目の前には何にもないのに。
なぜ神と出会ったとわかるのか。
それは神の思いに満ち溢れていたからだ。
愛だ。
私は神にとてつもなく愛されていると、
これ以上ないくらい受け取っていた。
何もないのにはっきりと感じる神の思い。
受け取りきれないほどの愛の量。
愛は、その巨大な空間いっぱいに満ちていた。
私はひび割れた大地の上で喜びに耐えきれず、のたうちまわった。
コースを学び始めてそれが神の思いだと知る。
まったく形がない、抽象の世界。
だから私は神を形で想像することがない。
イエスでさえ、彼をイメージで捉えようとも思わない。
ずっと形を描いてきたからなのかもしれない。
その形の中にそれはいないことを知っている。
神はその背後にいる。
私は絵を描く。最近は器も作る。
しかし神は絵や器の中にいない。
だが喜びの反映としてそこに見えている。
絵を見たとき、器を手にした時、
そこに喜びがあれば、神がいる。
最近、私の絵を見て、心が癒されている人の話を聞いた。
その人は壁に私の絵をかけてなくて、ベッドのそばに置いてある。
眠りに落ちる前、
「意識がなくなる眠りの、、その前、、
夜と、朝の覚醒するまでの、
思考にあまりひきこまれない時間。
その時空の中で、
つくしさんの「喜び」を感じるのが、
情動に落ち着き、呼吸が深くゆっくりになって、
私には心地よい時間です。
包まれ、みちる体感。しあわせです」
それを聞いた時、心が震えた。
これはもう、、、私の仕業じゃない。
絵を描いたのは私なのかもしれないが、
絵が勝手に別のものになっている。
彼女が自分を導くきっかけになっている。
本当の自分自身を思い出すために。
絵とはこんな仕事をするものなのかと驚かされたし、
そんな仕事を請け負っていることがありがたい。
現代絵画って、投資の目的になっていたり、
小難しい論理で構築されていたり、
ちょっと眉間にしわを寄せて鑑賞したりするものとして捉えられがちな節がある。
私はもっと単純で、うわ!と思ったものを絵にしている。
いつも自然の中でそれを見つける。
そして出来上がったら、その絵をお山に見せる。
その時、ちょっと気恥ずかしい。
でも感謝とともに報告する。
「こんなん出来ました~。
ありがとうございます~」と。



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