自分が自分を怖がらせている。
自分が自分をいじめている。
この世は自作自演。。。
なんてこった。
「ちょっとお願いするわ~」
と兄弟に頼んで悪人を演じてもらっている。
そんでそのわざわざ演じてくれた人を「このやろう」と恨む。
そりゃ兄弟に失礼やろう。
でも兄弟はそれを喜んで引き受ける。
なんで?
愛があるから。
映画のエキストラでなんの役が一番楽しいか。
ゾンビなんだそう。
私もハロウィンのダンスでゾンビ踊りしたことがある。
めちゃおもしろかった。
本当の自分じゃないものになるっておもしろいんかも。
いやいやそんなことを言ってる場合ではない。
目の前で嫌味を言ってくる人を見て、
「うん。これはなかなかいい演技だ。アカデミー賞もんだ」
などど余裕を持って見られる人などいない。
自分が自分を怖がらせている?
マジですか。
そんなわけないじゃないですか。
私が好き好んでビンボーになって苦しんで。。。?
そんなわけないじゃないですかー。
自分の無能のせいでビンボーになった。。。
自分の無能のせいで。。。
と思うから、どうにかして無能をやめようとする。
しかしもともと無能なのだから、無能を有能になんてできるわけがない。
すったもんだしてみたが、どうにも無能は無能のままだ(苦笑)。
そこで考え方を変えてみる。
ひょっとしたら無能を欲しているんではないか?
演じてる。。。?
無能でありたい。
なんでや。
苦しみたいから。
よく考えたら、人はいつもなんらかのことで苦しんでいる。
経済、体、人間関係。だいたいその三大要素の中で苦しんでいる。
そう。私たちは苦しむためにこの世に生まれてきたのだ。
お釈迦様も言い放ったではないか。
「この世は苦である」
どんな金持ちもなんらかの苦悩がある。
どんなスポーツ選手もなんからの苦悩を抱えている。
ご近所さんも人知れず苦悩を抱えている。
苦悩があるからそれを解決するために悪戦苦闘する。
そうやって人生は終わっていく。
最後は死という慰め、もしくは救いを目指して。
それのどこが楽しいのだ?最後は死ぬ。
やっぱ「苦」だ。
本当は「苦」を欲しているだけだったとしら?
なんでか知らんが、私たちはただいるだけでオッケーにはならない。
どこか落ち着かなく、なんかしてないといられない。
ぼーっとしてたら、ぼーっとするな!と怒られたではないか。
美味しいもん食べて、山を眺めて、
あ~ホッとする~と思った次の瞬間、
さて今度は何やろう?と考え始めているではないか。
幸せ感は一瞬でさってしまい、
次の幸せ感を求めて心はさまよいだす。
それの繰り返し。
1%ホッとするのために、99%を悪戦苦闘する。
そんな馬鹿げた人生ってありなのか?
心の中をずーっと見ていると、ポンポンと恐れの考えが湧いてくる。
みごとに。一瞬のいとまもなく。
その自動的にやってくる恐れの考えに
「ああそうだった。こんなことしている場合じゃない」
と言って恐れから逃れる戦略を考え続けているんだ。
浮かんでくる恐れを助長するその考えをよく吟味してみよう。
その恐れに何の信憑性がある?
誰かから聞いたからそれはこうなるはずだと。
本当にそうなる保証はあるのか?
保証はないけど、もしそうなったら、、!
という未知数の恐ればかりじゃないか?
過去は罪を思い起こし、
未来は恐れを思い起こす。
恐れは何の脈略もなくふいにやってくる。
恐れさせるマシーンみたいに。
これって何?
これが私たちが自分自身に与えた「苦」なのだ。
お釈迦様はそれを見たのだ。
これが自分自身を怖がらせ、
自分自身を不幸に陥れ、
強いては自分自身をいじめているものなのだ。
だから自作自演。
本当の自分を見つけないように、
「苦」のアイディアを浮かび上がらせ、
それと格闘することで本当の自分を思い出せないようにする。
あっちは見ちゃいけない!そっちは闇!とんでもないことが起こる!と止めに入る。
だが、そっちが本当の私なのだ。
コースのいう「赦し」は、そんな自分を赦すことだった。
怖がらせ、本当の私を見ないようにさせてきた自分を。
自作自演を繰り返す自分自身を認めて、受け取り、
全面的にすべてを赦していく工程を教えてくれていたんだ。



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