2026年8月20日木曜日

なんてこったこの世は自作自演

「花と宇宙」

 

自分が自分を怖がらせている。

自分が自分をいじめている。


この世は自作自演。。。

なんてこった。


「ちょっとお願いするわ~」

と兄弟に頼んで悪人を演じてもらっている。


そんでそのわざわざ演じてくれた人を「このやろう」と恨む。

そりゃ兄弟に失礼やろう。


でも兄弟はそれを喜んで引き受ける。

なんで?

愛があるから。


映画のエキストラでなんの役が一番楽しいか。

ゾンビなんだそう。

私もハロウィンのダンスでゾンビ踊りしたことがある。

めちゃおもしろかった。


本当の自分じゃないものになるっておもしろいんかも。


いやいやそんなことを言ってる場合ではない。

目の前で嫌味を言ってくる人を見て、

「うん。これはなかなかいい演技だ。アカデミー賞もんだ」

などど余裕を持って見られる人などいない。





自分が自分を怖がらせている?

マジですか。

そんなわけないじゃないですか。


私が好き好んでビンボーになって苦しんで。。。?

そんなわけないじゃないですかー。


自分の無能のせいでビンボーになった。。。

自分の無能のせいで。。。


と思うから、どうにかして無能をやめようとする。

しかしもともと無能なのだから、無能を有能になんてできるわけがない。

すったもんだしてみたが、どうにも無能は無能のままだ(苦笑)。



そこで考え方を変えてみる。

ひょっとしたら無能を欲しているんではないか?

演じてる。。。?

無能でありたい。

なんでや。

苦しみたいから。


よく考えたら、人はいつもなんらかのことで苦しんでいる。

経済、体、人間関係。だいたいその三大要素の中で苦しんでいる。


そう。私たちは苦しむためにこの世に生まれてきたのだ。


お釈迦様も言い放ったではないか。

「この世は苦である」


どんな金持ちもなんらかの苦悩がある。

どんなスポーツ選手もなんからの苦悩を抱えている。

ご近所さんも人知れず苦悩を抱えている。


苦悩があるからそれを解決するために悪戦苦闘する。

そうやって人生は終わっていく。

最後は死という慰め、もしくは救いを目指して。

それのどこが楽しいのだ?最後は死ぬ。

やっぱ「苦」だ。



本当は「苦」を欲しているだけだったとしら?


なんでか知らんが、私たちはただいるだけでオッケーにはならない。

どこか落ち着かなく、なんかしてないといられない。

ぼーっとしてたら、ぼーっとするな!と怒られたではないか。


美味しいもん食べて、山を眺めて、

あ~ホッとする~と思った次の瞬間、

さて今度は何やろう?と考え始めているではないか。


幸せ感は一瞬でさってしまい、

次の幸せ感を求めて心はさまよいだす。

それの繰り返し。

1%ホッとするのために、99%を悪戦苦闘する。

そんな馬鹿げた人生ってありなのか?


心の中をずーっと見ていると、ポンポンと恐れの考えが湧いてくる。

みごとに。一瞬のいとまもなく。

その自動的にやってくる恐れの考えに

「ああそうだった。こんなことしている場合じゃない」

と言って恐れから逃れる戦略を考え続けているんだ。


浮かんでくる恐れを助長するその考えをよく吟味してみよう。


その恐れに何の信憑性がある?

誰かから聞いたからそれはこうなるはずだと。

本当にそうなる保証はあるのか?

保証はないけど、もしそうなったら、、!

という未知数の恐ればかりじゃないか?


過去は罪を思い起こし、

未来は恐れを思い起こす。


恐れは何の脈略もなくふいにやってくる。

恐れさせるマシーンみたいに。


これって何?


これが私たちが自分自身に与えた「苦」なのだ。

お釈迦様はそれを見たのだ。


これが自分自身を怖がらせ、

自分自身を不幸に陥れ、

強いては自分自身をいじめているものなのだ。

だから自作自演。


本当の自分を見つけないように、

「苦」のアイディアを浮かび上がらせ、

それと格闘することで本当の自分を思い出せないようにする。


あっちは見ちゃいけない!そっちは闇!とんでもないことが起こる!と止めに入る。

だが、そっちが本当の私なのだ。


コースのいう「赦し」は、そんな自分を赦すことだった。

怖がらせ、本当の私を見ないようにさせてきた自分を。


自作自演を繰り返す自分自身を認めて、受け取り、

全面的にすべてを赦していく工程を教えてくれていたんだ。







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