「癒し」を受け入れることをしてから、
癒しというものがどんなものなのかを徐々に知り始める。
猫のヘソ天を見て「癒される~」というように、
癒しとは、自分でやるものではないようだ(そこ?w)。
私は自分で自分を癒します!と宣言しても癒えない。
何かを見て、何かに触れて、癒されるもののようなのだ。
だから「癒し」を受け入れる。
その言葉があえて書かれているということは、どうも私たちは癒されたくないのだ。
その「癒し」とは、サウナに入って整う癒しとか、自然の中に入って癒される癒しとか、猫のヘソ天からくる癒しとか、私たちが知っている癒しなら受け入れるという程度の話ではなさそうだ。
「癒し」を受け入れることは自分が無罪であるということを贖罪を受け入れることなんだと思う。
神に赦されたと完全に感じられる時、きっと心底安堵し、心底癒されるであろう。
私は先日それを受け入れた時、ほんの少し罪の影が薄らいだようだ。そのせいで前よりも物の見方が広がっている。それを体験した時、これをさらに受け入れていくとどうなるのだろうと、俄然興味を持った。
先日飲み会があって、楽しい時間を過ごした。家に帰り着いて気分が悪くなり、うわあ~飲みすぎたと後悔する。トイレで吐こうとしたがもう出てこない。諦めて布団で大の字になって寝る。
「あの最後のワインの一杯がいけなかった。あれさえ飲んでいなかったら。。。」
グジグジとやったことを後悔する言葉が次々出てくる。
あれ?後悔ばっかりしている。これ、自分に罪があるって言いまくってるよなあ。。。
と気がついた。
飲みすぎた→罪
食べすぎた→罪
気分が悪い→罪
自分は肉体だと信じている→罪
今、私の心は癒されていない。罪の意識の中でもがいている。
そうかあ~。癒されていない時、私は罪悪感の中にいるんだ。
ああ、癒されたい!
聖霊さん、私を癒してください!癒しを今、受け入れます!
飲みすぎたという後悔を使って、自我は私をこの世界に縛り付ける。
それは罪があるという前提から来る苦しみという罰を実感させることによって。
私は罰を欲している。なぜなら罪があるから。
だから苦しむ。
自我の目的は苦しむことだ。
自我は私が苦しみさえしてくれれば、
飲み過ぎでも屁をこいたでもなんでも使う。
そういう自我の仕組みが見えてくる。
自我の目的は苦しみ。
私はずっと今まで苦しみを握っていた。
なぜならそれが「自分」というものを実感させてくれるアイテムだったからだ。
だがその実感はこれからも必要か?
そんな小さなものにしがみついて私は私を実感し続けたいのか?
その罪は持ち続けていたいのか?
それは本当に実在しているのか?
私にはもう苦しみは必要ない。
なぜなら私に罪などないのだから!
心の中で叫んでいた。
朝になっていた。
何一つ不快なものは残っていなかった。
「癒し」を受け入れるとは、
自分は無罪だということを受け入れるということなのだ。
抽象的で漠然としたこの言葉。
知識は体験に変わっていく。
苦しみは喜びへと交換されていく。
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