相手に罪を見ているということは、自分もまた罪びとだ。
このことに気がつかない限り、争いは永遠に続く。
自我の考えは、罪はどっちか片方にしかないから、
相手が罪があるということは、私には罪はないと教える。
だから言い争う。だがその言葉は互いに傷つけ合うだけで、何の幸せも生み出さない。
片方が黙ることでしか決着はない。
しかしそれは決着でも何でもなく、一時休戦するだけ。
きっかけがあれば、いつでも爆発できる。
こんな争いをもう何十年もやってきた。
もううんざりだ。もう無理だ。こんなことこれから先もやっていられない。
神様、どうにかしてくれ!
死んだほうがマシだと思うほどの絶望感の中、コースのテキストを開く。
そこにあった文章は、まさに私がやっている矛盾を突いていた。
「兄弟よ、あなたは私を傷つけた。しかし二人の中では私の方が善人なので、私が受けた傷についてあなたを赦すことができる」などと、誰が本気で言えるだろう。彼の赦しとあなたの傷は共存できない。
罪を証言しながらそれを赦すというのは、理性が理解することのできない矛盾(パラドックス)である。
赦しは、それがあなたの兄弟とあなた自身に癒しをもたらさない限り、本当のものではない。彼の罪が実在しないことを実証するためには、あなたはそれが自分にいかなる結果ももたらしていないことを証言しなければならない。
結果が取り消される時、罪は単なる誤りであることが証明される。あなたが赦す者となり、兄弟と自分自身に救いを差し出せるようになるために、自分に癒しを受け入れなさい。
「奇跡講座」テキスト第27章「癒しに対する恐れ」
「自分に癒しを受け入れなさい」
この言葉に私は強烈に惹かれた。
兄弟に罪を見ながら、その罪を赦すことなどできない。
罪がないということを知るためには、癒されなければならない。
自分で自分を癒すことなどできない。
常に与えられている愛で癒されることでしか。
私は癒しを受け入れていなかったのだ。
罪を兄弟に見続けることで癒されようとしていたのだ。
心の中で叫んだ。
「私は自分に癒しを受け入れます!」
それからしばらくして、何かがパタパタと紐解け始めた。
何故あのような言動になっていたのか、
何故私があのような反応をしていたのか、
そしてどうすればその恐れが癒されていくのか、
次々に明確になってくる。
そこに罪など生じていなかった。
それまで分厚い壁が立ちはだかっていたかのように見えていたのに、
それがあっさりと消えてしまっていた。
これらのことは、とてもじゃないが私だけの考えで浮かぶものではない。
心の中はとんでもなく大きい。
その中で一体何が起こっているのか全くわからない。
だが私の心の中は、
私一人がいるわけではないことを、
こうやって教えられる。
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