時間というものが、いかに恐れと共にあるかを実感する日々だ。
今年に入って未経験なことが毎日山のようにつづく。
その最大なものが母の死だと思ったが、さらにまた新しいことが起こる。
そのため都心の公的な場所に毎日足を運んで書類集めに忙しい。
職員さん;「あ~、それはここでは扱っていません。九段下に。。。」
私:「え。八王子でできるって言ってたけどなあ。。。」
職員さん:「えーと、本籍地は八王子ですよね?え?違う?」
私:「いやさっき電話で確認した時、本籍地のこと聞かれなかったですよね。今しがた電車でその駅を通ってきたのに、、、今から都心に引き返しですか。。。。(ガックシ)」
あれをゲットするために、まずこれをやって、それからこーやってあーやって。
それをゲットしても、その次があるし、その次がたとえ受け入れられても、あのめんどくささがやってきて、、、、。
小仏川の土手沿いを歩きながら思う。
頭の中にあるのは、未来を想定した心配事でいっぱい。未経験のことばかりに慌てふためいている。私はそれをやりたいのか?やりたくないのか?と言われれば、なかり難しい内容なので正直言うとあまりやりたくはない。だけどそれが私に出来事として来ているということは、何かを私に伝えようとしているはずだ。
今、私はどこにいる?
川のせせらぎを聞きながら歩いている。
目の前には緑がいっぱいだ。今日は曇っていて湿度は高いが暑くはない。
今ここにいるとき、実はこれしかない。
頭の中だけに、未来と過去という時間がうごめいている。
こうしたほうが良かったとか、ああすればいいんだとか考えるとき、私は時間の中にいる。
予定を立てて計画するとき、
それは罪と共にいる。
罪とは「間違いがあってはいけない」という思いだ。
それは恐れと共にいる。
未来という時間と共にいる。
そして自分と他人という分離と共にいる。
でも今にいるとき、
そこに罪はない。
恐れもない。
そしてなにとも分離していない。
私はそこにあるものと一体となっている。
そこには安堵がある。心地よさがある。静けさがある。
恐れが時間を生む。
今ある自分を否定する。
そうして頭の中にドラマが始まる。
自分をなんとか肯定するために。
そうではなかった。
最初に否定があるから、時間を生み出し始める。
最初に肯定があるとき、そこに恐れはない。
時間が頭に生み出されることもない。
放っていたら、私たちは自分を否定している。常に。
否定するがゆえに、なんとか取り繕おうとする。
恐れがそこに忍び込んでいるから。
自分の否定の否定。
自分がここにいていいのだということを肯定する。
これには意志力がいる。
放っておいたら、自動的に自己を否定しているのだから。
そして時間の中に埋没していく。
時間の中に埋没していく自分に気がついて一歩下がる。
今、私はどこにいる?
ここにいる。
ここにいることをこことともにいよう。
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