誰かに自分のことを否定的に言われた時、
そう言ってくる誰かを責めたくなる。
「そうじゃない。違う。私はそんな人間じゃない!」
必死でそれを否定したくなる。
だが実は、相手は私を責めているのではなく、
自分がそう思っているのだ。
自分はこんな人間だとか、
相手はこんな人間だとか、
そう「自分が信じている」ことが、表に現れただけ。
つまり目の前に現れているものは、
自分が何を信じているかをチェックするため「だけ」にある。
美しい風景を見ている時、それを信じているから表に現れた。それはオッケー。
心休まるものを否定する必要はない。
しかし「うっ」となる風景やシーンを見る時、
自分が何を信じているかを探ってみるのは、自分の心を知る上で非常に役に立つ。
特に人との関係でその抵抗はたくさん起こる。
抵抗が起こるとき、そこには信念がある。
人はこうすべき。あるべき姿。
それと逸脱している人を見ると心は動揺し、それを非難したくなる。
あるいは自分が一番嫌いなことをやっているかのごとく指摘されると、
火のようになって怒る。
「違う違う!私はそんな人間じゃない!」
そして「そもそもそんなこと言うあんたがそう言う人間なんじゃないの?!」
と、火に油が注がれる。
そうやってバトルが繰り広げられるわけだが、
そこに終止符が打たれるはずもなく、泥沼のままタイムアップとなり、
次の試合が始まるまで持ち越される(笑)。
「お前は〇〇だ」
「いや、そう言うお前が〇〇だ!だってお前が俺を〇〇だと見ているからだ!それは投影だ!」
「それを投影というお前こそが、それを投影してるじゃないか!」
と、なまじっか「投影」と言う言葉を知ってしまったがゆえに起こる意味不明な投影バトル。
これは「〇〇はいけない」と言う信念を誰かになすりつけるゲームを繰り返しているだけだ。
誰かがこれを「う●こ」投げつけゲームと言ったとか言わないとか(笑)。
実はこの「う●こ」は、誰のものでもないのだ。
「う●こちゃん」などと言う人物はいない。
ただ、自分が、「自分は『う●こ』だ」と、密かに信じているだけなのだ。
だから誰かに「お前は『う●こ』だ」と言われると、むかっ腹が立つ。図星だと思ったから。
この時、そう「信じている」のだということを
ただ教えてもらっただけなのだと理解してくると、
ことはがぜん違ってくる。
「『現実』とは、その人が信じた通りに、見えているだけの幻である」
「『現実』とは自分自身が何を信じているかをチェックするためだけにある」
「自分の中の固定観念が何を信じているのかを知りたければ、ただ目の前の『現実』を見なさい」
上は、最近買ったさとうみつろうさんの本『神さまとのおしゃべり』に書いてあった言葉だ。
投影という言葉は、かなり恐れを生む。
罪悪感を抱えている心は、その言葉に怯える。
「これを見ているということは、私がそうなんだ」と、
やっちまった感がぬぐえなくなる。
罪悪感がさらに罪悪感を生み、泥沼の心模様になる。(←経験者は語る)
そうではなかった。
そう信じていただけなのだ。
「信じていた」ことと「真実」は同じではない。
だから誰かに否定的なことを言われると、
「あ。自分で自分のことをそう思っているんだな。
でもこれは真実ではないから、これを信じることをやめよう」
と、そう信じてきた自分を受け入れ、
そこに現れている恐れがある心を赦していく。
恐れが現れた時、それは消えていくためにあると思うと、心は安らかになる。
消えていくために出てきてくれてありがとう~。
すると否定的に言ってきた相手にも、
なんだか知らんが感謝の念まででてきたりする。
信念は恐れを生む。
日々の出来事の中に、自分の信念を見つけることができる。
それは自由になれるチャンス到来のしるし。
恐れと共にくっついている信念が、
感謝と共に消えていくと、
どんどん軽くなっていく。
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