一番寒い季節に陽の当たらない我が家。お昼におうどんを作る。
一口食べて気がつく。
「あ。いつもの味じゃない。。。」
めんどくさいんで、いつも使わないつゆの素を使ったせいだ。
かすかに後悔の風が吹いた。
比較は形。
後悔もまた形からくる。
この世界の苦は全て形によってやってくる。
テレビは恐れを振りまく媒体に思えて見なくなったが、
この頃ネットも見れなくなってきた。
ヤフーニュースの言葉が痛い。
この世界がいかに形/具象でできているかを、どんどん意識させられてくる。
それは味でさえも。
具象は常に比較対象して、どっちが正しいかと教える。
だがそのどちらを選ぼうとも、ひととき幸せに思えようが、同時にその後ろに不幸を背負う。
例えばAを選んでその時お金が入って来ようとも、
一瞬の幸せののち、すぐに失う恐れが持ち上がる。
形象の中に本当の幸せは見つけられないのだ。
形象は神への攻撃だとコースはいう。
神の子が、神になろうとした試みで作出されたこの世界。
それはすぐに訂正されてもう存在していない。
私たちはその終わった世界をただ見ているだけらしい。
こんな過激な内容が、だんだん実感を伴いながら知り始める。
ある日こんなシーンを見た。
難病の母が明るい日差しの中で私といる。
「私、体が動かないって演技してたの!すっごい楽しかった~~!」
それを聞いている私も
「なんて面白いことやってみたの!?すごい!」
「そう!めちゃくちゃ楽しかった!」
二人で心底笑いあっているのだ。
母は「私は人間」という役柄をやって、
「私は難病で体が動かない」という設定を自ら選んで楽しんでいたというものだった。
これを心眼と言うのだろうか。
私は実際家の中でコタツに入って庭を眺めており、
でももう一つの肉眼ではないもので、そのシーンを見ている。
まわりの風景や状況とは関係なく、私の心は本当に楽しく、嬉しく、喜びに満ちていた。
形はなんでもないものに思えた。
存在すらしていない、単なるペラッペラの絵。
指をさすとスッと通り抜ける、まったく実在していないものだった。
そのとき二人はひとつの光。これ以上ないほどに喜びにあふれていた。
目の前にあるパソコンは、硬い金属やプラスチックでできている、絶対指が通らないもの。
そう思い込んでいるからそうだったりして。
全ては心が作っているというではないか。
催眠術にかかった人が、目の前の人の背後にある時計を読む。
遮るものがある限り、その向こうは見えないものだという常識。
この世界の形/常識は、もしやとてもいい加減なものかもしれない。
形には何の意味もないことを、そして存在すらしていないことを気づかせてくれる母とのシーンだった。
それはとても心を明るくさせる。
目の前にあるものに深刻にならないようにと、聖霊が教えてくれたのだ。
そしてあのシーンはまさに聖霊が見ているものなのではないだろうか。
すべてが喜びと愛でできている抽象の世界。
そして今でもそこに本当の私たちはいる。
2 件のコメント:
新年の個展開催おめでとうございます
是非直接見たいものですが地方の田舎に住んでおりますのでご容赦ください
つくしさん独特の雰囲気はとても気に入っております
以前スマホ用の孫カッパをポチしたこともあります
今はどこを探しても見当たりませんね
残念ですが新しい作品を楽しみにしています
😎
おpさま
お久しぶりです。コメントをありがとうございます。
実はこの個展、去年の1月のものです。。。
怠惰な私はそのままにしてありました。
でもお祝いをありがとうございます。
来られないとのこと、ホッとしました(苦笑)。
スマホ用の孫カッパって、スマホケースのことですね。
ポチありがとうございました!
でももうとっくに消えてしまいました〜。
時はどんどん流れていきますね。
またそんな機会があれば、ブログにてお知らせいたします。
おp様も今年一年、素晴らしい年になりますように。
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