「なんやこれ。
自分が自分を怖がらせているだけやん!」
って気がついた時、肩の力が抜けた。
たったそれだけのこと?
たったそれだけのことのために、どれだけ力使ってきたことか。
どれだけ本読みあさって探求してきたことか。。。!
「こういったら、どう言われるだろう?」
「これをお願いしたら、なんて反応されるだろう?」
そういう思いが、私を怯えさせてきた。
特にうるさがれたら、迷惑がられたらどうしよう?という思いが強かった。
そう思いながらも、勇気を出して言うと、やっぱり思った通りの反応が返ってきた。
時には思った通りの反応ではなかったが、それでもたいがい思った通り。
なもんだから、
「ほーらやっぱり!だから言わんこっちゃない!」
そういって、自分をたしなめたものだった。
そのパターンの中で半世紀以上生きてきたが、
どうにも苦しすぎちゃって、どんな本読んでも無駄で、
奇跡講座/コースに行き着いて、その中の言葉に後押しされた。
「こうである必要はない」
え?え?なんだって?
「あなたが不安であるとき、不安感は自我の気まぐれから生じると認識し、
こうである必要はないと知りなさい」
つまり自我が持ち出してくる不安感や恐怖感は、罪悪感を感じさせるためであるってこと。
「お前にゃ、罪があるぞ~。その罪を忘れるなよ~」と。
しかし罪悪感は自我のみが誘ってくる言葉で、あなたとは関係がない。あなたは罪など犯してもおらぬ。だから自我の声によって、自分を怖がらせる必要はないと。
その力は私自身が持っている。
怖がらせるのも、怖がらせないのも。
だからやってみた。
何かを言おうとしたり、何かを人にお願いしようとした時、
「どう反応されるだろう?」の思いをストップしてみた。
すると、、、。
なんも起こらない。
いつもはこう返ってくるだろうな、という反応が返ってこない。
ことはすんなり進む。
あれ?どゆこと?
「あなたは心の力を知らなさすぎる。
あなたは自分の思考を野放図にしている。
それが一体どういうことか、考えたことがあるか」
「恐れはあなたが作り出している」と。
今、家のトイレの工事を頼んでいる。
40年近く経つこの家は、今の構造ではない。蓋を開けてみないとどういう仕組みになっているか見えない。じっさい床をはぐってみると、いろんな問題が見つかった。
以前の私だと、いちいちの問題にあくせくして未来を予測して憂いてみたものだった。
それが「そうですか。ではお願いします」で終わり。
判断や解釈をやめることは、自分の中で長引かせないことであり、
それを問題として存在させないことでもあるのだ。
自分が何かしようとした時、どう反応されるか?というのは判断。
その判断をやめて、出来事をそのまま受け入れる。
するとことは粛々と進んで、静かに終わっていく。
いつものように判断して、反応を確かめているその間、心はとても疲弊する。
ああだったらどうしよう、こうだったらどうしようと。
それは単に選択の問題だった。
お化け屋敷に入って遊びたいか、
広い草原で友と戯れながら遊びたいか。
後者は心を無限大に拡張する。
絵:お兄ちゃんと釣り
2 件のコメント:
読み終えると何か気が楽になりました。
つくしさんの昔のブログを一から読んで勉強させてもらいます。
ありがとうございます!更新も楽しみにしてます!
匿名さん、
気が楽になって何よりです。
私のブログを一からですか!
なんと!
昔のはざっパーですよ(笑)。
参考になるんかなあ。
けど、ありがとうございます!
これからもよろしく!
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