私たちが初めて「自分」というものを意識した時はいつだろう。
自分と他人がいて、自分の外に社会というものがある、と意識した時は。
それは、痛い思いしたときや、おこられたときじゃなかっただろうか。
しあわせ〜なきぶんになっているとき、人は自分と他人というふうにわけて考えただろうか。満ち足りた気分になっている時、自分と他人という分裂の意識はない。むしろ横にいるねえちゃんも自分も区別はなく、みんないっしょくたにしあわせ〜となっていたんじゃなかろうか。
という事は、初めて自分と他人という区別が出来た瞬間というものは、ネガティブな事、不快なことが起った瞬間に「突き放された」という感情を持って生まれた認識ではなかったか。
自分というものを意識するきっかけが、不快なものによって生まれるって、なんだかなあ〜。
そう考えると、不快によって芽生えた(または生み出された?)自己というものは、果たして本当に存在するもんなんだろうか。
単なる気のせいだったりして。
2 件のコメント:
しあわせ〜なきぶん・満ち足りた気分の時には、自分と他人という分裂の意識はない。
っとも思うけど、実はそういう時は、「みんなは関係ないけど、”私は”しあわせ〜。
ってなってるんじゃなかろうか???
自分他人の区別は、子どもの学校で聞いた話では、生まれてからしばらくは子どもは親と自分の違いを認識しないまま育ちます。
ある時期になると、親と自分の違いが判り始める。これが反抗期。
もうちょっと成長すると、親と自分は全く違う!って気付く。こうなると、自分は一人ぼっちって、判ってしまう。でもまだ一人では生きていけない・・不安になる。これが、14歳の危機って言うそうです。不安→あせり→対決→更に不安。みたいなスパイラル・・。
んで、あの学校では、「家作り」「手の仕事で服作り」「農業体験で米作り」「(天界から追放される)スサノオの劇」。更に美術では「(こちらも楽園から追放された)アダムとイブの絵」などなど、自分達でも生きていけるっちゅう体験と、物語を集中的に学びます。これ、早すぎても遅すぎてもいかん。”その時”に教える。が大切。
私、あの教育メソッドまるで勉強してないですが、この理屈は妙に腑に落ちて、それだけでも、信用してます。
ぱぱさん、このコメントスパムに入ってて、昨日まで気がつかなかったごめ〜ン。
あの学校は子供の成長にあわせて教育してくれるからいい学校だよねえ。
そのね、生まれてからしばらくは子供は親との違いを認識しないでしょ?その時の感覚を言ってるのだ。
「私はしあわせ〜」といっているときはすでに、自分と他人という認識を持っている。子供の時は「私はしあわせ〜」とは思っていない。「私」という認識は小さな子供にはなかったってことなんじゃないかな。
その分裂が起るのが、ひょっとしたら、不快な思いをした時に分裂がおこるのではないかと。
ダンナはちいさいとき、ミツバチを触るのが大好きだったんだって。ミツバチの触り心地、羽根の感触、産毛の感触を味わっていた。
だがあるとき、お尻のさきっちょに針のようなものがニョキ〜ってでて来るのを見つけた。
「これなんだろう?」
って触った瞬間、その針がダンナの指の中にすーっとはいっていったんだって。さあ、それからが大変。ものすごい激痛とともに、ミツバチと自分の分裂を感じたんだとさ。
そこに自分と他人、自分と別の生き物、自分とほかの物質、という分裂の感覚が起きたんじゃないかと推測する訳です。
多分、みんなにもそんなものがあるんじゃないかなとおもうわけです。
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