2014年10月11日土曜日

KYM(空気読み名人)卒業だ!



「近所でとってもステキな生き方をしている方がいるの。あなたもぜひお聞きにならない?」
と見せてもらったチラシは、エネルギーの節約やちょっとした工夫でゴミが減らせる環境に配慮した、自分目線のやさしい生き方の提案の集いのお誘いだった。
少しでも環境にやさしく、少しでもカラダにやさしい、少しでも地球のお手伝いになるような、ものすごく「正しい」生き方をなさっている方だった。

誰がみても今の誰もが絶賛する、とてつもなく正義の味方の、非の打ち所がない生き方。やまんばはそんな集いいけるわけがない。

いつもなら
「あっ、ステキですねえ。うかがえたらうかがいますう~」
などとテキトーにその場をごまかしていた。
やまんばはこれでも空気読み名人なのだ(うそつけ~、こら)

だけどもうそれを止めるのダ宣言をしてしまったのだ。ショージキに言うしかない。
「そんなところにいったら、私、壊しちゃうかもしれません。」
「?」

もともとそのお母様が化学物質大好き主義で、その中で暮らすうち、化学物質に疑問をもって、それとは無縁の世界へ歩を進めていった彼女。無農薬、無添加、マクロビ、むかしの手づくり。。。

それはそれで「正しい」のだろう。しかしその前提に、化学物質はまちがっていて、慣行農法はまちがっていて、砂糖はまちがっていて、肉はまちがっていて、というふうに、これは正しいもの、それはまちがっているものと言う判断によって、正しいとされるものを選択をする。
その選択は逆に自分の生き方を狭くさせていくのではないか。

たまにものすごくケーキが食べたくなっても、乳製品や砂糖のかたまりで危険だからといって、干し柿や干し芋でほんとうに満足できるのか。「ぜんぜんへーき!」っていうかもしれない。だけど、ほんとうのほんとうのところ、そういいきれるのかい?もし自分の心に正直になってケーキを食べてたとしても、そのあとに罪悪感が残らないでいられるか?それの罪滅ぼしに、もっとストイックになってしまわないかい?
それが自由な生き方だろうか。柔軟な生き方だろうか。

そんな話をしてみたが、いっこうに「ピンと来ない」と言われただけだった。

ただ最後の方で、最近の母の話をしたところ、とても反応していた。
「あ、わたしもそれ、やってみる!」って。


何かのテーマにたいして意見をいうことは、そのテーマを否定するような感じなってしまう。自分が受け入れているテーマを否定されている気分になるのは面白いわけがない。
ピンと来なくてあたりまえだ。心情的にピンと来たくもないもの。

やってみなかったら、そんなことはわからなかった。
おお、ぞくぞくするぜ~い!
もう空気読み名人(略してKYM。。。えっ、空気読まない名人か?)卒業だ。



2014年10月8日水曜日

ふたりでアホ顔



最近のわしら夫婦のブームは、アホ顔をすること。
これ以上できないくらい、おもいっきりアホ顔をするのだ。

相手のアホ顔を見ると、おもいっきりウケる。こいつ、ホントにアホなんちゃうか?とおもわせてくれる。そこがいーのだ。

笑いは自我が消える瞬間でもある。
周波数がぐんとふえるらしい。

反対に、怖がることは自我を実感できる瞬間である。
じつは周波数が低くなるらしい。(どーやって測ったんかはしらんが。きくところによるとそーらしい)

笑いががん患者にいい治療効果を与えるのはじつは事実なのかもしれない。
笑ってる時って、全身からエネルギーが吹き出す感じがする。反対に怖がるって、エネルギーが収縮して、こわばる感じがする。

「こわい」ってことばは、一般的に恐怖の意味であるけど、もう1つ「固い」という意味もあるらしい。「強い」ともかかれるように、固くて扱いにくいというふうに。
わしらは恐怖で震え上がると、カラダを固くする。

「お化け~」って脅したら、
「こわいこわい~」って、両腕をこわばらせて、小さくなろうとするではないか。カラダを固くする。これカラダが固まることと、恐怖することは、同時で、同じことだから「こわい」という名がついたとか?

どっちにしろ、エネルギーは内側に収縮して消耗する感じがある。怖がり続けたら、つかれるではないか。
でも笑い転げたら、「あ~、笑い過ぎて腹いたい」ってぐらいなもんで、こころは晴れやかになる。エネルギーは増幅されているんではないか?

アホ顔はちっぽけな自分を笑い飛ばしてくれる。アホな自分を笑い飛ばす力がある。
同時に頭が空っぽになる。アーダコーダと自我実感をしなくなる。


家庭で、会社で、みんなでアホ顔合戦っちゅーのんはどーだ?


2014年10月5日日曜日

魔法のことば「それを愛する」



きのう母に電話した。
いつもよりも声が軽いことに気づく。軽快に話す母。
「どお?調子は」
「ん、変わりないよ。そおねえ、しいていえば前は台所で立ってるのが苦しかったけど、今はいつまでも立ってられるようになった。あとねえ、足の裏がテープ張ったように麻痺してたけど、今は全然ふつうになっちゃった。あ、それから、ふくらはぎの後ろが去年からずっと痛かったのに、それもまったく痛くなくなった」
じゅうぶん変わってるじゃん。

彼女が進行性の難病指定をされてから3年以上たつ。
しかし病状が進行するどころか、回復しつつある。

色んなはなしをしながら、私が最近畑について思っていたことの変化を伝えた時だった。
「あ。。。。」と母。
「なに?」
「あたし、今気がついた。。。あれだ。あのことをやりはじめてから、こんなにカラダが変わってきたんだ。ああ、そうだ。だから声も出せるんだ。今までは声を絞り出すようにしゃべってたのに、今、ほら!ぜんぜんつらくない!すっごい、らく~にしゃべれる!すごい!たったあれだけで?」
「なにやったの?」
「ほら、自分を愛するってやつ!」

先日母に言った私の話。
「何でも愛するって言うのよ。ど~んなに嫌いな自分の部分を見つけても、「そんな自分を愛す!」って言っちゃうのよ。たとえば、歩けない自分を愛す!よたよたしてみっともないかっこうな自分を愛す!身体が痛い自分を愛す!いじわるな自分を愛す。見えはりな自分を愛す!って!」
電話の向こうで
「やるやる!やってみる!」って大笑いしてた母。

彼女はだいたい人の言うことを聞かない。やると言いながらやらない。だから今回もまったく期待していなかった。なのにあれからずっとやっていたようだ。
なんでもかんでも気がつけば、「あ、ありがと。愛す。」ってちょこちょこいっているらしい。

「たったあれだけ?たったあれだけでこんなに変わっているなんて。。。。」
言葉を発するだけでカラダが変化している事実に愕然としているようすだった。

私たちは、自分の思いで流れをせき止めてしまうようだ。
起こった出来事を、
「いいことか、悪いことか」という判断をし
「悪いことは変えなければいけないのだ」と解釈し、
「自分でなんとかしなければ」と行動を起こす。

やまんばの畑もそのように判断解釈し、自分でどうにかしなければ、とやり続けた結果、まったく分らなくなった。
そもそも自分でどうにかできる世界ではなかったのだと気がついたとき、起こった出来事へのいい悪いの判断を手放した。「植物さんのご都合におまかせします~」と手放したとたん、畑がスムーズに動きはじめたのだ。

母も同じではないか。カラダも自然も同じものだ。
母のカラダに起こっている出来事を、「足が思うように動かないことを愛す」ということによって、出来事を受け入れているのだ。それまで彼女は自分でなんとかしなきゃと足をさすったり、もんだり、動け動けと命令したり、恨んだり、なじったり、怒ったり、民間療法であの手この手を使って戦ってきた。
だけどそれは出来事を受け入れてはいなかったのだ。イヤ!絶対にこんな状態じゃイヤ!と、抵抗をし続けた。だが努力も虚しく、ますます歩けなくなっていったのだった。

しかし「愛する」とは、そのまんま受け入れることだ。出来事を文句なしに受け入れる。ウエルカムする。

私たちが勝手に「これはいけないことだ!問題だ!」と判断して、流れていくエネルギーをせき止めていただけなんじゃないか。そのせき止めをやめると、なるようになっていくんじゃないか?本当は、問題など解決しようとしなくていいんじゃないか?


たった一言、「それを愛する」というだけで。

2014年10月3日金曜日

海水と淡水が混ざり合うところ



畑が変わりはじめている。
夏頃オクラ、ピーマン、キュウリ、ナスなどもうへにゃへにゃで、お話しにならなかったのに、このところみんな元気だ。

秋野菜のミズナ、壬生菜、白菜、ダイコン、カブ。みんな順調にすくすく育っている。いつもならコオロギに食われたり、小さな苗は白くなって枯れてしまったりして大半は消えていったというのに。畑が変わったのか。それともやまんばが変わったのか。

やまんばがかわったというのはある。
なんか心持ちが変わってきたのだ。
いままでは、「育つか、育たないか、どっちなんだ。おいっ!」って感じで、野菜が育つのを「監視」していた。

大か小か、多いか少ないか、育つか育たないか。この二元論の中で四苦八苦していた。そしてネガティブな結果を怖れて、なんとかしようとやっきになっていた。
育たないのは自分のせい、少ないのは自分のせい、小さいのは自分の責任だ。そうおもって、あれこれやって結果が出せないことを憂いていた。

今、それがない。
「あ、育ったのね。がんばってねえ~」
「あら、枯れちゃったのね。あっそう」
こんな心持ちだ。
どっちにころんでもいいかあ~ってなかんじなのだ。

なんやろね。
これがサレンダー(降参)ってヤツ?

今まで結果は自分のせいだって思ってたのが、
「植物さんのご都合にあわせよう」ってなかんじ。
だからどんな結果でも良くなっている自分がいる。
なんだか自由な気分になっちゃって、余裕で野菜の様子を観察できるようになってきたんだ。すると、「あ、いま酸欠になってる。空気がいるな」とか、ここはもう草マルチはいらないかも。。とかかんじている。頭じゃなくてなんかかんじている。それで感じるままにやっているかんじ。

畑だけじゃない。
色んなことに、二元論をテーブルの上に並べて、それを上から見ている感じがする。

これまでは、どっちがどっち。こっちがいい、あっちじゃなきゃいや、みたいなどっちかにいるって感じだったんだけど、今はそれを「はは~ん。そのどっちも自分のなかにあるのね」と気がついて見ているようなそんなこころもちだ。

自分の中をさぐると、もっと深い自分の中があって、それがもっともっと深い自分とのつながりを教えてくれている。
ちょうど海水と淡水が混ざり合う地点に立っているような、ここから根源的な本来の自分に触りはじめているような、そんなかんじがする。

きっと意識の浅い部分では、ほとんどが今回生まれてきた時に外から教えられてきた二元論の観念で出来上がっている。しかしそれを掘り下げていくと、その奥の二元論とはちがう宇宙の真理に近いものにさわりはじめるのではないか。二元論ではない視点で物事を見はじめると、心持ちがニュートラルになっていく。


こころがニュートラルに近くなると、植物はその本来の力を発揮しはじめるのだろうか。
「ほんとはおれたち、すげえんだぜ。見せたろか。」
なんて畑の植物たちは言ってるように見える。


2014年9月30日火曜日

前もって考えたってものにならん



やまんばはきほん、チョー忙しい時以外は夜は仕事をしない。
のんべして~、めしくって~、だらだらしてねる。

とゆーことは、夜は頭を使う必要がないってことだ。せいぜい晩飯の献立を考える程度の脳みそ活動でよい。

なのになぜか頭はフル回転だ。
自分の思考の内容をチェックしてみると、自分の未来の不安、仕事の不安、家族の不安、社会の問題点に文句を言う、畑になに植えようか、そんなところだ。

未来の不安は、漠然としている。仕事の不安だって、漠然としている。ましてや社会の問題点を、このやまんばがここでフンフン文句言ったところで、なーーーんにもうごかん。

ゆいいつ、考えてものになりそーなものは、畑になに植えようかぐらいだ。が、それだって、頭でいくら壮大な計画をたてようが、いざ畑に立つと、
「うん。やっぱ、これにしよう」
とかいって、たいていは夜通し立てた計画をいきなり却下する。

仕事だってそうだ。前もって考えたって、だめ。その場になって膨らむアイディアにまかせる。タマーに夜ふといいアイディアが浮かぶことがある。しかしそれは「考えた」のではなく、いきなり「浮かんだ」だけだ。

と、ゆーことは、前もって考えたよーにならないのが人生ってことだ。少なくともやまんばの人生において、太陽を53回転してきた時間において、計画通りに事が運んだ試しもなければ、計画通りにやった試しもない!!!

であるならば、なんで前もって考え抜こうとするのか。
不安なのだ。
なんかしてないと不安なのだ。手を動かすとか、することがあると、それで気がまぎれるが、ナーンにもすることがないと、手持ち無沙汰になって、いたたまれなくなって、やたらめったら考えはじめるのだ(笑)。
ほらほら、やまんばをわらっているそこのあなた。あなたも似たよーなことしてないか。

だいたいわしらは、ぼーっとしていることをきらう。
建設的でないとか、そんなことしてたらろくな人生にならんとか思っちゃって、少しでもマシなニンゲンになるために、考えをめぐらす。


どうも思考には二つの方向性があるように見える。

1つは、たとえば人と待ち合わせするのに必要なもののような、実質的な思考。
もう1つは、ふとあふれて来た問題定義のようなものに「あ~っ、この問題があった!」なんて言っちゃって自動的にのっかって、だらだらととめどもなく使う思考。

後者はきりがない。
わしらは考えたことによって答えが導き出されるという信念を持っている。だから出てきたものを「出て来たからにはこれを考え抜いて建設的にいこう」と集中するが、そんなもんにはたいしていい答えはでない。
思いかえしてみると、いい答えというものは、ほとんどがふと浮かぶ直感だ。
だから後者は労力のわりには実りがないと言うのがやまんばの経験。

そしてその後者の部類に思考は、たいてい怖れをきっかけとして、保守を選択する内容に行き着く。最終的には「おお、人生って恐ろしい。いっしゅん先は闇だ。」とかいって身震いするのがおちだ。
不安を感じるために思案に暮れるが、その結果は転ばぬ先の杖を導き出して、人生を狭い世界にもっていく。
少なくともやまんばの思考はこのようであった。

このパターンに気がつくと、それをやっている意味はあるのか?という疑問が出て来る。
ついでに不安から来る保守的対応のエネルギーは、それを考えている間、増えていくというよりもかなり消耗されるのがわかってくる。
心配してぞくぞくしてエネルギーを使い、何か手だてはないかとアレコレ考えることでもっと消耗する。そういう考えは短時間で終わるわけがなく、きりがないほど延々と続く。その消耗たるやどんだけなのだろう。

やまんばはそういう消耗がなんだかばかばかしくなった。そんなところにエネルギーを注ぎ続けているのがもったいなくなった。建設的に考えているつもりだったことが、まるで建設的じゃなかった。
恐怖から導き出される考えは、結局混乱しか生まないのではないか。

自分を狭くさせていく思考パターンに気がつきはじめた。
ふとやってくる問題定義に「ああ、また来たな」ぐらいの対応になった。

すると植木等じゃないけれど、
「およびでない?およびでないね。
こりゃまた失礼いたしました!」
と、問題定義思考が消えていくのを見た。



2014年9月29日月曜日

怒る自分を愛す



味わうってことなんだ。
味わうんだよ。なんでも。
楽しいことは味わえるけど、悲しいことは味わいたくない。
笑えることは味わえるけど、ハラが立つことは味わえない。
ワクワクすることは味わえるけど、怖いのはやだ。

感情はエネルギーがあふれでるもの。
その感情は、味わって食べる。
これはどうやら、わしらがこの世界に生まれてきたことの『義務』であるようだ。

わしらはその感情を2種類に分ける。
いい感情、悪い感情。
ポジティブ、ネガティブ。

んで、ポジティブやいい感情は、よろこんで受け取って味わう。

ところが、ネガティブや悪い感情の方は邪険に扱う。
なきものにしたり、見なかったことにしたり、押し入れの中にしまい込んだりして、そのうち消えてなくなってくれるのを待っている。

けどいったん出た感情は、味わうまでそこにいつづけるんだ。
「味わってよお~、ねえ、味わって。おねがい」って。
だからことあるごとに、ハラが立つことがあらわれてきて、いつも似たようなパターンの場面で怒るんだ。

だから「ん、もう。また怒ってるあたし。」
って気がついたら、
「もうこのパターンで怒るの飽きたなあ」
って思うとすると、
「では、ひとつ、味わってみるとしますか」
と、このさい、腹を据えて味わってみるのだ。

これは、ハラが立つこのあたしを受け入れている。
フツーは、無意識に、
「怒ってはいけない。この社会でのルールは、怒ってはいけないのだ。だからこの怒りは納めねばならない」と信じているので、怒る自分に抵抗している。怒る自分をきらっている。
これが自己を嫌悪する一場面である。

この呪縛をとく。

怒ることは自然な行為だ。きっとあなたが生まれてきてから教えられた倫理観や生き方によって培ってきた美学によってもたらされる怒りだ。その生き方の中では、トーゼン怒ることなのだ。だからその感情は自然なのだ。それをまず理解する。自分が怒ることを自分で理解する。

そして頭の中が怒っている相手のことを云々言う言葉はムシする。
なぜかと言うと、またその言葉に乗っかって、いつもの怒りを抑える方向にむかってしまうからだ。

言葉ではなく、その怒りを全身で味わう。感じる。観察を始める。
感情はエネルギーだ。エネルギーは物質に近いから、カラダで感じているはずだ。
そこではじめて言葉を使う。実況中継する。

どこが熱い?どこがびりびりする?おお、ハラが煮えくり返りそうになるか。すごいぞ。いけいけ。その煮えくり感はどんな感じ?もつ煮込み風?火傷しそう?
そのうちそのエネルギーは移動をする。一カ所に留まっていないものだ。それを追いかける。手に行ったり、足に行ったり。それを味わう。

きっとそのうち怒りはどこかに消えている。
「あれっ?」ってぐらいあっさりと。

「いやいや、あたしはさっきまで煮えくり返りそーなくらい怒ってたはずだ」というだろう。でもちっとも同じ感情にはならない。盛り上がれない。
となれば、その怒りはもう味わい尽くされたのだ。これにて一件落着。

するとそれ以降、同じことでハラが立たなくなる。もし同じことでハラが立っても、きっと今までとはちがう箇所に怒っているはずだ。
とすれば、またお楽しみターイム!また同じように味わい尽くしてみよう。

こうやって、自分の中にある、色んな感情をそのつど味わい尽くすのだ。
これは悲しみも恐怖も同じ。
もともと色んな怖れから怒りが来ている。その恐怖も味わう。全身で味わう。

怒りは人に向けるから色々迷惑をかけるのだ。
表に出せないから、しらっとした顔で心の中で色んな人を罵倒してなかった?

だったら、自分の中の怒りを自分で表現して味わうことぐらい、じぇんじぇんだいじょうぶです。

いろんな不幸は抵抗から来ている。
抵抗は自分をきらうことでもある。
味わうこととは、自分から出るものに抵抗せず、自分を愛すことなのだ。

2014年9月23日火曜日

さくさくの中のもんもん



スコットランドは独立できなかったねー。
でもさあ、選挙ってなんだかね。
賛成が49%で反対が51%だから、反対の勝ちーってなるシステムってどおよ。
多い方が勝ちっていうのってどおよ。

ってことは、そこにいる人たちの約半分が、それに同意をしてないんだよ。それでも決まりは決まりだからって、従わされる。
人のこころって「はいそーですか。ではそれで」ってドライにいけるもんかね。
そもそもそんなシステム(ゴオリ主義ってゆーの?)じたい、すばらしーもんかね。

むかーしの日本はちがったらしい。宮本常一さんの本だったかなあ。書いてあった。
村であることを決めようとする。そこには多数決というものは存在しない。たとえば、村人のほとんどがそれに賛成でも、たった一人が反対なら、村の長はその反対者を呼んで、どこがどのように反対なのか、徹底的に聞き、話し合いをしたという。それでその彼が納得できてはじめてことが決まっていた。

今はむかしのようにのんびりと時間が流れていく時代ではない。決めごとはドライにさくさくと進めていかなければいけないのかもしれない。しかしそのさくさくの中でもんもんする人たちは置き去りにされる。そのもんもんがあるとき爆発するとどーなるんだろうね。

たとえば家族の中でも多数決をとると、どーなるんだろうね。
さくさくの中でだれかがもんもんとする。それこそ家庭内○○に発展しかねない。表に見えないけど、内側で戦々恐々としてたりするんだろうね。だから色々こころの問題も出てくるんだろうね。
でも社会の基礎は家族の中にあったりする。