味わうってことなんだ。
味わうんだよ。なんでも。
楽しいことは味わえるけど、悲しいことは味わいたくない。
笑えることは味わえるけど、ハラが立つことは味わえない。
ワクワクすることは味わえるけど、怖いのはやだ。
感情はエネルギーがあふれでるもの。
その感情は、味わって食べる。
これはどうやら、わしらがこの世界に生まれてきたことの『義務』であるようだ。
わしらはその感情を2種類に分ける。
いい感情、悪い感情。
ポジティブ、ネガティブ。
んで、ポジティブやいい感情は、よろこんで受け取って味わう。
ところが、ネガティブや悪い感情の方は邪険に扱う。
なきものにしたり、見なかったことにしたり、押し入れの中にしまい込んだりして、そのうち消えてなくなってくれるのを待っている。
けどいったん出た感情は、味わうまでそこにいつづけるんだ。
「味わってよお~、ねえ、味わって。おねがい」って。
だからことあるごとに、ハラが立つことがあらわれてきて、いつも似たようなパターンの場面で怒るんだ。
だから「ん、もう。また怒ってるあたし。」
って気がついたら、
「もうこのパターンで怒るの飽きたなあ」
って思うとすると、
「では、ひとつ、味わってみるとしますか」
と、このさい、腹を据えて味わってみるのだ。
これは、ハラが立つこのあたしを受け入れている。
フツーは、無意識に、
「怒ってはいけない。この社会でのルールは、怒ってはいけないのだ。だからこの怒りは納めねばならない」と信じているので、怒る自分に抵抗している。怒る自分をきらっている。
これが自己を嫌悪する一場面である。
この呪縛をとく。
怒ることは自然な行為だ。きっとあなたが生まれてきてから教えられた倫理観や生き方によって培ってきた美学によってもたらされる怒りだ。その生き方の中では、トーゼン怒ることなのだ。だからその感情は自然なのだ。それをまず理解する。自分が怒ることを自分で理解する。
そして頭の中が怒っている相手のことを云々言う言葉はムシする。
なぜかと言うと、またその言葉に乗っかって、いつもの怒りを抑える方向にむかってしまうからだ。
言葉ではなく、その怒りを全身で味わう。感じる。観察を始める。
感情はエネルギーだ。エネルギーは物質に近いから、カラダで感じているはずだ。
そこではじめて言葉を使う。実況中継する。
どこが熱い?どこがびりびりする?おお、ハラが煮えくり返りそうになるか。すごいぞ。いけいけ。その煮えくり感はどんな感じ?もつ煮込み風?火傷しそう?
そのうちそのエネルギーは移動をする。一カ所に留まっていないものだ。それを追いかける。手に行ったり、足に行ったり。それを味わう。
きっとそのうち怒りはどこかに消えている。
「あれっ?」ってぐらいあっさりと。
「いやいや、あたしはさっきまで煮えくり返りそーなくらい怒ってたはずだ」というだろう。でもちっとも同じ感情にはならない。盛り上がれない。
となれば、その怒りはもう味わい尽くされたのだ。これにて一件落着。
するとそれ以降、同じことでハラが立たなくなる。もし同じことでハラが立っても、きっと今までとはちがう箇所に怒っているはずだ。
とすれば、またお楽しみターイム!また同じように味わい尽くしてみよう。
こうやって、自分の中にある、色んな感情をそのつど味わい尽くすのだ。
これは悲しみも恐怖も同じ。
もともと色んな怖れから怒りが来ている。その恐怖も味わう。全身で味わう。
怒りは人に向けるから色々迷惑をかけるのだ。
表に出せないから、しらっとした顔で心の中で色んな人を罵倒してなかった?
だったら、自分の中の怒りを自分で表現して味わうことぐらい、じぇんじぇんだいじょうぶです。
いろんな不幸は抵抗から来ている。
抵抗は自分をきらうことでもある。
味わうこととは、自分から出るものに抵抗せず、自分を愛すことなのだ。
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