2014年7月2日水曜日

自分で出したエネルギーは、自分で受け取るのだ〜。



善悪の判断が今まさに作動しているということは、怒っていたり、心配していたりの、何かしらの感情をともなっている。

それに「気づいている」というのは、その感情に抵抗していないことなのだ。わいてくる自分の感情を、ただ観察しているという状況なのである。

人は感情的になると、ほとんど自動的に怒ってはいけないとか怖がってはいけないとおもう。それが抵抗。
この抵抗こそが、感情をもっと大きくさせている。

あまりにも瞬時に同時に起こっているので、気がつきにくい。

1:ある状況が起こる。

2:瞬時に善悪の判断(つまりその人がもつ概念)がなされる。

3:その判断にともなって(だいたいは『いけないこと』)怒る。こわがる。

4;身体に反応が起こる。(ふるえるとか、かあ~っとあつくなるとか)

5:その反応に抵抗する。(怒ってはいけないと思う)

6:ますます怒る。

以上のような心とカラダの反応が、コンマ1秒単位で起こっている。

その瞬時の心とカラダの反応に、
「あ、今自分怒ってる。。」
って気がついたらシメタものだ。
そ、こ、で、「あ、怒っちゃいけない!」
とおもったら、今までと同じ。

「怒ってるぞ。おお、今怒ってるぞ。おれ、怒っちゃってるぞお。おお、どこまで怒る?」
と、自分の怒り加減をカンサツしてみるのだ。これは抵抗ではない。自分の怒りを受け取っているのだ。

すべての感情は同じエネルギーのようだ。
感情が出たとき、カラダが反応するのはそのため。自分で出したエネルギーを感じている。
だが人はそのカラダの変化にびっくりして、止めようとする。それが抵抗。出たがっているエネルギーを自分で押し殺してしまうのだ。

だけどいったん出されたものは、受け取ってもらわないと消えていかないらしい。いつまでたってもその人の近くにいて、
「ねえ、受け取ってよ。ねえってば」
と受け取ってくれるのを待っているようだ。

だから似たような事件がその人に起こってくる。そこでまた同じような反応をして、
「ほらほら、あたし!おぼえてる?ほらほら、受け取ってよ!」
って出て来るのだ。

んで、同じことでいつも怒っているってことに気がついたら、その怒りに抵抗せず、それに気がつきながら自身で受け取る。
するともう同じことで怒らなくなって来る。これがふしぎ。
「ああ~、そうよ、そうこなくっちゃ!」
って消えて行くようだ。

そうやって人は一つ一つ自分でつけたタガ、つまり善悪の判断によって苦しむ自分自身への縛りをはずしていくようなのだ。

2014年7月1日火曜日

善悪の土俵



わたしたちは、これまでいけないことに目を向けることをしてきた。悪いもの、いけないものがこの世の中と自分の中にある。だからそのいけないものをとりのぞくと、幸せになる、と。そういうものだと教わってきたし、信じてきた。

では、いけないものはなくなったか。
消してきたものは山ほどある。そうだ。今までうんといけないものは消してきたし、悪も排除してきたのだ。
じゃあ、わしらはしあわせになったか。

べつに。
とゆーか、なんだかちっとも幸せにならない。はぶいて取り除いて切ったハッタをして必死でやってきたけど、ちっとも楽にならん。なんでやねん。
いけないものは取り除いてこそ、幸せになるっちゅー法則やったんちゃうんかい!

と、ここまであくせくバタバタやってきたやまんばだったわけだが、なんだかだんだん違う視点をもちはじめたんだ。
いいことといけないことの土俵に立っても、延々とあっちこっちするだけで、ココロの監獄ロックが鳴り響くだけだったんだ。いえ~い。


世の中には、善悪の考えがある。
それは時代によって、国によって、家族によって、コロッコロ、ほんと見事によ。コロッコロ変わるんだ。そんなコロッコロ変わる善悪の価値観の中で、人々はあっちにふられ、こっちにふられする。東に良いものがあると聞くと、行って出かけていってそれを買い求める。西に良い教えがあると聞くと出かけていって、教えをこう。北に良い国があるともてはやし、南に悪い国があるといっては非難する。

どっちにしたって、善悪の土俵の上でハッケヨイノコッタをしているだけなんだ。これってさあ、うおー!ってもりあがれるけど負けちゃったらくやしい。次の試合ではあいつをナントカ倒してやろうなんてぶつぶつ考えている。
つまりいつでも感情的な思いにふりまわされているど真ん中にいるわけさ。だからいけないものを必死でのぞこうとする。

だけど敵はその土俵の中にしかいないのだ。
悪はその土俵の中にしかいないのだ。
私たちはその土俵しかないと教えられてきたから、土俵しか目に入らないだけなのだ。問題を見つけてきては、その土俵にあげて、それと戦う。それが人生だと教えられてきたし、私らもそれが人生だと信じてきた。

だけどやまんばはもう疲れちゃったのだ。いくら悪を倒したって、また次の悪がやって来る。
なんでや?それはじつは自分で悪を「作っている」からだ。それは悪がこの世にある!と「信じて疑わない」からだ。悪をどこからか見つけてきては、「それが問題だ」といい、それを心の土俵上にあげる。そして腕組みをしてウンウン言って、それと戦いつづけているのだ。


違う視点があるのに気がついた。なあ〜ンだ。いままで土俵しかないと思ってたけど、天井も床もあるじゃん。んで国技館の天井に張り付いて相撲を観戦したわけさ。すると自分にはいっぱい善悪の価値観があふれていることに気がついた。そりゃあもー、地球上の細菌の数ほどあるにちがいないとおもえるほどの。
目の前がくらくらした。
「こっ、これを取り除くにはどんだけ時間がかかるンだあ?」と。
だけどね。ほら。「取り除く」と思ってる。思いっきり今までの方法論のまんま。

そう。取り除くんじゃないんだ。取り除くという考えは、土俵の中にいるからだ。
天井に張り付いてみていると、どこかで深刻ではなくなる。
ただそういう考えをもっている自分がいるんだということに、そのつど気がつきつづけるだけなのだ。。。


2014年6月30日月曜日

気に入らないもんは変えなきゃいけない?



わしらは、気に入らない事があると変えようとする。

例えば、ダンナが気に入らないと、文句を言ってダンナを変えようとする。
野菜の育ちが悪いと思うと、対策を練って野菜の状況を変えようとする。
他人が気に入らないと、告訴して変えようとする。
社会が気に入らないと、デモをして変えようとする。

自分の外にあるものだけではない。
自分の中にある気に入らないものを見つけると、色んな事を駆使して変えようとする。

この世は自分の鏡だと言う。
自分の心の中がそのまま外に移り込んでいるのである。
気に入らない相手やものを見つけると、出かけていって文句をいったり変えてやろうとするのは、鏡に映った自分の姿が気に入らないと、鏡の表面をこすったり引っ掻いたりぐちゃぐちゃにしたりして、鏡の中を変えようとするよーな行為だ。
そんなアホな事をしても、そもそも写っている自分を変えないと鏡の中はいつまでたっても変わらない。。。

とゆーことで、また自分を変えようとする。
そして自分をひっぺがしたり、こすったりして、また「変える」地獄にはまるのだ。
おもしろいやろ?
これは気に入らないもんは変えなきゃいけないと思っているからだ。

さて、変えることは、消すことやなかったことにすることなんだろうか。

2014年6月28日土曜日

アスファルトから花



やまんばがなんで野菜に肥料いれないってのにこだわるのかっちゅーと、やっぱ原体験からやな。

高知のど田舎にくらしてたときのこと。
幼稚園児だったやまんばは、家の前のアスファルトの道路にピンク色の小さなものを見つけたんだ。なんだろうってしゃがんでみると、それは薄紫色の直径一センチくらいの小さな花だった。まわりには葉っぱもなくて、ただヒョロ~っと長く伸びた茎が10センチ。その上に5、6枚の花びらをつけたかわいい花がちょこんとついていた。

真っ黒いアスファルトの上に、薄紫色の花。この強烈なコントラストにびっくりしたんだ。驚いてまわりを見ると、近くに2、3本同じようにアスファルトから飛び出した花が。

そのとき幼いやまんばは、ものすごく感動したんだ。
車が通ってもペッちゃんこにならないほどの固いアスファルトを、なんでこんな小さくて細っこい花が自分の力で突き破って出て来るんだ?と。
なんて花って強いんだ。なんて植物って力強いんだっておもった。

たぶんそのころからだな。いっつも地面を這いずりまわってたのは。やまんばは地面の上に出て来る色んなものを見つけて夢中になったんだ。
だからいつも母がぼやいていた。
「なんであんたはいつもヒザッコゾウを破いて帰って来るんだろうねえ。。。」
そういいながら、膝あての布のかわりに、アップリケをつけてくれてた。

オトナになってもあの原風景がずっと心の中にあった。NYで自然とかけ離れた生活をしている日々の中、福岡正信さんの『自然に還る』をブックオフで見つけた時のショックはいまでもはっきり覚えている。
「これだ!!!!!」と。

野に咲く花に肥やしは入れたのか?
山になる実には誰が肥料を入れたのだ?


植物はニンゲンが考える範疇にない。
動物もニンゲンが考える範疇にない。
自然はニンゲンが考える範疇にない。
そして、ニンゲンも、ニンゲンが考える範疇ではない。

もっと何か別のものだ。
もっと全然違う世界が広がっているのだ。
私たちは、ただエライ人が言ったことばを鵜呑みにしているだけだ。
私たちは、今は、ただ小さな窓から世界を眺めているだけに過ぎない。

2014年6月24日火曜日

人生の仮説



近所のオヤジとトーキング。

「きょうよお、病院いって来たんだ。どんくらい待たされたと思う?3時間以上だよ!3時間以上!」
「うおー、すごいですねえ。」
と私。
「それがよお。あったまくるんだよな」
「どーしたんですか」
「おれが待ってるとよお、あとから来たヤツがどんどん呼ばれていくんだ」
「うそ~」
「ムカムカ来て、怒鳴りつけてやろうって、ここまで来てたんだ」
と、顎のすぐ下に手を当てる。
「だけどぐっとガマンしてたンんだ。そしたら後ろのオヤジがおれのかわりに思いっきり怒鳴り出してよお。ンで、おれも一緒になって怒ってやったんだ」
「おおお~~、バトル勃発ですねえ~」

「そしたらよお。そいつら予約客だってわけだ。だったら受け付けんとき、最初に言えっちゅうんだよ。今日は予約で込み合ってますから良いですかって!」
「そりゃあそうだ」
「ンでよお。そのときもう2時間待ってたんだ。もうしょーがねえだろ。おれの番号が70番で、そんとき59番あたりだからもうじきだなっておもって、隣のおばさんも予約なしの客で、ふたりで話しながらまってたんだな。隣のおばさんは71番だったんだ」
。。。と、ここまで来てふと間が空く。

「だんだん順番が近づいてよお。。。。ほんで次ぎおれだと思ったら。。。」
「隣のおばさんが呼ばれたんだ!!」
「えっ。。ええ~~~~~っ!」
やまんばもびっくり。

「おばさんもびっくりして、んでおれのこと気の毒がって、『いや、あなたの方が順番は先ですから、そちらがどーぞ』っていうんだけど、『いやいや呼ばれたのはお宅だから、行ってください』ってゆうしかねえじゃないか!」
「まあ、えらいですねえ」
「次だからいいか。。。と思って待ってると。。。またあとから来たヤツをどんどん呼んでいくんだ!おれなんか全然無視しやがってええええ!」
「うわあ~~、すげー」
「どーゆうことだあ!て言ってやったんだあ!そしたらわけの分らんことを言っててちっともわからん。あの受付のネエちゃん、おれのこと意地悪してやろうとおもったにちがいねえ。おれが怒るから、いじめてやろうと思ったんだ!」
へ?
そ、そーゆーことかなあ。。。

ンでやっと呼ばれて診察した時間はたったの5分。
「あ、かゆみ止め出しておきましょう」
で終わった。
病名もなにもなかった。


人は人生において、たくさんの仮説を立てる。
人生とは理不尽である。
人は意地悪をする。
おれは被害者だ。
等々、山のよーに仮説を立てる。
仮説はたくさんの証拠を提出して、はれて立証される。だから人はその仮説に基づいて人生を観察をする。

すると観察する目は、いつも仮説とゆう色眼鏡でこの世界を見るから、とーぜんおれに意地悪する人を捜す、被害者になれる証拠を見つけ出す。たくさんあればあるほど説得力を増す。そしてそれが極まったとき、
「どーだ!だからおれの仮説は正しいのだ!仮説は立証されたのだ!」
と大声を上げられるのだ。


おもしろいのは、人によって視点が違うってことだ。
オヤジはきっと「人は意地悪をするはずだ」という視点で世の中を見ているから、それを見逃さない。無意識にそれを探す。だから必然的にそれが集まって来る。そして仮説は立証される。

しかし、もし人は意地悪をするという仮説をもっていない人がその場の状況にいたら、その受付のお姉ちゃんの言ったことは、まったく違うように解釈したのかもしれないし、じつは納得できる内容だったのかもしれない。
するとその人がその病院を出る時は、起こったできごとをほじくりかえして、あーだこーだと考えてワナワナ震えたりしないのではないか。その病院の事を思い出しもしないのではないか。やまんばにいちいち訴えたりしないのではないか。


引き寄せの法則は、じつは視点の問題だ。その人が人生において「みたいものを見る」。
それがいいことであろうと悪いことであろうと、「信じたものを見る」。ただそれだけのことだ。
だから頭でなりたいイメージをといくら膨らませても、うわっつらだけになる。骨折り損のくたびれ儲け。まずはその人が心底信じているものが何なのかを、自分で徹底的に見ることなのだ。

信じているものを消そうとするんではなくて、信じているものを見つける。正直に自分が何を信じているかに気がついていく。
ただそれだけで、何かが変わりはじめる。


2014年6月22日日曜日

怒りをエネルギーとして「味わう」んだ



自分の内側から出たネガティブな感情は、正当なものだ。自然なものだ。

わしらは怒ったり、怖がったりすることをいけないと思うがゆえに、出たものを否定したり、無視してなかったことにしてやりすごそうとする。
感情はエネルギーだ。そのエネルギーにいいもわるいもない。いいエネルギーは出してもいいけど、悪いエネルギーは出さないと決めたのは誰?
どっちにしたってエネルギーを出さずにためていくと、どこかで爆発することになりかねない。
だから出て来るものは、出してしまおう。

でも人に向かってやると何かと支障がある。
出すってのは、自分自身で味わうってことなんだ。
自分から出てきた感情を、自分自身で味わう。それもカラダ全身で味わう。

落ち着いた場所で腹が立った瞬間をも一度再現してみるのもいい。するとほら、また怒りが込み上げて来る。そこから観察を始める。

どうハラが立つ?
ハラが立つってどんなかんじ?
熱いものを感じる?
それはどこからやってくる?
それは動く?
どう動く?
どこに広がっていく?
ほうほう。そんな感じに広がるのか。
なるほどなるほど。
んで、どうなるの?
感じさせて。
そのエネルギーをもっと私に感じさせて。。。。

するとたいてい怒りはいつのまにか消えてしまう。怒りのエネルギーはだした本人に受け取られると消えていくようだ。エネルギーが吸収されていくのだろうか。これってひょっとしたら「見えない栄養」になってるのかもしれない。



怒りって、たいてい誰かがあなたに何かをやったことに対して出現する。そのとき出た怒りを瞬間怖れるあまり、自分を正当化しようと相手を罵倒する。
しかし言われた側は、相手が「自分が正しい!」と言って来るので、今度は自分が否定されているとおもい、「いんや、こっちが正しい!」という。

これじゃふたりが「こっちが正しい!」「いや、こっちの方が正しい!」といいあってるだけでまったく解決にむかうはずもなく、ふんふんフンガイして、ドアをバタン!と思いっきり閉めてムリヤリ終わりにするだけだ。

そうして時間とともに忘れていき、その出されたエネルギーは消化されないまま心のクローゼットに押し込まれる。ンであるときまた似たよーなことが起こると、よりいっそうフンガイして、バトルが展開する。ンでまたドアをばたんと閉めて。。。。とエンドレスに続く。(場合によっちゃ言うのも恐ろしー展開に発展する。。。?)

よく考えりゃ、相手にぶつけているあいだは、相手だって自分の生存を維持しようとするから歯向かって来るに決まっている。
じゃあ、心で罵倒すればいいのかって話だけど、怒りって、誰かに何かを要求しようとするから怒っているわけで。そんなもんだから心で要求したって伝わらない。そのムダな行為によけいハラが立つもんだ。


じつは怒っているのは、相手の問題じゃないんだ。
内側にある、あらゆる観念が元になっている。感情は観念からやってくる。相手は、まったく問題じゃない。
なので、このさい相手のことは無視。

自分の怒りを単なるエネルギーとして「味わう」んだ。
この行為は自分自身をうけとることになる。自分から出た感情をそのまんまうけとることになる。自分自身をオッケーできる糸口になる。


2014年6月20日金曜日

ネガティブな感情をおさえこむ



ネガティブな感情は突然やってきて、私たちに襲いかかるおそろしーもんだ。
そしてそれは時として自分でもまったくコントロールできなくなるほどにふくれあがりなすすべもなく、ただただそれにおそれおののく小さな子羊のよーになってしまう。

だからネガティブな感情は出してはいけない。
もちろん出させてもいけない。

その対処法は、ほいっと自分の中から出ようとしても、見て見ぬ振りをして、なかったことにする。または他のこと考えたり見たりして、意識を別のところにやる。
そうして知らんあいだに消えてなくなっているので、ほっとする。。。

ってな感じで感情とつきあってるのが、だいたいのわしらのやりかたじゃなかろーか。



ネガティブな感情は、まちがっている。
とゆー概念がわしらをフリーズさせる。

「怒り?ああ、いけないにきまってるでしょ。」
「嫉妬?もちろんだめ!」
「こわがる?オトナになって怖がってちゃー、だめよお。」
「寂しい?んなこと、いわれてもねえ。」

心の中でわき上がって来る感情は、ほとんど瞬時に上のよーな言葉で抑え込まれている。わいて来る感情を、自分で自分に言い聞かせて抑え込んでいるのだ。

はたからみたら、怒りを思い切り出している人もいる。しかしその人でさえ、「怒りはいけないのだ」と心の中で信じている。怒った自分をあとから責める。そして今度はそれを止められなかった自分の怒りをおそろしがる。

わき上がった感情をおそろしがる。
それをコントロールできない自分を責める。

この二重苦が、
「ネガティブな感情はいけないものである」
と、おもわせる。