2010年12月11日土曜日

石けんなし生活1年と9ヶ月に突入




だらしなーい話なんですが、久しくトイレ掃除をしていなかった。何ヶ月?ゲゲ。最後に洗ったのいつだっけ?

ここだけの話、あんまりトイレがにおわないのでかまけてました。鼻がイカレてしまったのか。一階と二階に二つのトイレ。一階は公的な場、二階はほとんどダンナ専用(げろげろ〜)。
久々にトイレ掃除。一階を終わらせ、恐怖のダンナ専用トイレへ。。。。
なんと。におわない。便器に「さぼったリング」はしっかりついている。しかし便器まわりや床に撒きちらしまくっているはずの液体のにおいがしないのだ。この嗅覚鋭い私が、排泄物のにおいを嗅ぎ分けられないとは。ここまで老いぼれたのか?はたまた石けんなし生活1年9ヶ月で鼻がイカレタか。もしくはダンナのシーシーのにおいに何かの変化があったのか。どちらかしか考えられない。食生活は全く同じ。変わったと言えば、ダンナが仕事に出ることぐらい。仕事に出れば排泄物も汗もかく。じょーしきなら、もっと臭くなっているはず。ところがにおわない。身体もにおわなければ、排泄物もにおわない。そんなことってあるんかいな。ちなみにうんこは臭いよ。ついでにおしっこも出た時は臭いよ。しかしそのあとが消えるのは、どーゆーこっちゃ。


先日、髪を切りにいった。
床屋のおねーちゃんには悪いと思いつつ、今回も「あ、シャンプーなしね」とたのむ。おねーちゃんにしてみたら、1年9ヶ月もシャンプーリンスなしのお客の頭を触るのはイヤに決まっている。最初の頃はベトベトしていたので、気の毒だった。さすがにちょっと悪いと思ったので、半年後に切りにいく前の晩、洗面器にぴゆっとシャンプーひとしぼりしてそれをお湯で溶き、さらさらと髪だけ洗っていった。さすがにその日はおねーちゃんにイヤな思いはさせずにすんだ。

しかし今回は全くべたつきがないので、そのまま行ってみた。
「あ、全然さらさらしてるねえ〜。前よりずっとよくなったよ。やっぱ、これっていいのかなあ」と店長。
私の髪をお湯だけで洗うお姉ちゃんに聞いてみた。
「なんか私の髪の毛、他の人と違ったりする?」
するとおねえちゃんは、
「うん。すごくやわらかい」
「でもさあ、シャンプーなしにして、毛は前よりぶっとくなったよ」と私。
「でも、他の人の髪の毛は固いけど、あなたのはすごくやわらかいんだもん」
理屈で考えたら、変な話だ。シャンプーなしにしてコンブトになった私の髪。枝毛もない。びんびんに強いはずだ。なのにやわらかいという。おねーちゃんは何人もの人の毛を触っているはずだ。だから何か違うのかもしれん。シャンプーをしていると毛が細くなるから、ほんとはそっちの方が柔らかいとおもうもんだが。
キューティクルっちゅうやつが、しなかやになっているのかもしれん。ぐふふ。
などと勝手な憶測をする私。(いいように解釈しているだけかもな)

今も触ってみるとさらさらしている。
この快感は「わっかんねえだろ〜な〜(古い!)」
しかしひとつだけ面倒なことがある。それはいまだにブラッシングするとブラシにフケのようなものがつくことだ。これだけはいまだにある。だからといってフケが肩に落ちることはほとんどない。シャンプーで洗わない代わりに、ブラシを洗っているというへんなおまけつき。これもまた、わしらの知らない大自然の英知なのだろう。これは「髪の毛のうんこ」と、自分で命名している。

石けんなし生活の快感は、やってみないことには、
「わっかるかな〜、わっかんねえだろ〜な〜」

 
『ハーバードビジネスレビュー』のための似顔絵(クリス・アージリス)

2010年12月9日木曜日

いいことをするって?





やまんばはよくパンを焼いては近所の友だちのうちにもっていき、野菜がとれてはまたまた近所の友だちにもっていく。友だちは内心ありがた迷惑なのかもしれんが、その行為は一見いい人にみえる。そうはみえても要するに、やまんばはいい人に見られて、いい気分になりたいという勝手な欲望なだけなのだ。

いいことをすると、たいていほめられる。人は他人によろこばれたり、ほめてもらうとうれしくなる。これがけっこうヤミツキになる。だからなんか作っちゃあ、人の迷惑顧みず、今日も持っていってしまうのだ。

ところがもっていっても期待するほどに喜んでくれなかったりすることもある。向こうにだって事情がある。「げ。まずいもん、またくれやがった」と思うかもしれんし、虫の居所が悪くて愛想がふれなかったりするかもしれん。だがやまんばはそんな事情も顧みず、「反応がない!」などと怒ったりする。こっちが勝手にもっていっているだけのことなのに、相手の反応次第でムカついたりする。
よく考えてみりゃ、喜んでくれることを期待するあたりが、すでにやまんばの勝手な考えなのだ。

つまり、いーことをする=自分が喜ぶ。ということだけなのだ。
そのことをおもいっきり自覚しておいた方が、あとあと人間関係がうまくいく(と、ふんでいる)。


その自覚がないと、知らない間に「いいことしている」が、「してやっている」と変化する。すると、「こんだけやってあげているのに、その態度はなんだ?」となる。これはもう完全に上から目線である。自分で好き勝手に「いい気分になれること」しているだけなのに、いい気分になれることを自分で忘れてしまうと、その行為は「大きなお世話」になる。やってくれとは頼んでないのに、勝手に怒られるのだ。他人にとっちゃえらい迷惑だ。


いいことしている→いい気分→自分で楽しんでやっているんだなあという自覚がある。
は、そりゃそれで「まあ、すきでやっているからいいか」と他人様から勘弁してもらえる。
しかし、その行為の中に、自分「が」楽しんでいるんだという自覚がないと、やっかいである。
いいことしている→してやっている→反応がない→こんだけやってやっているのに、それはどういうことだ?→知らない間に相手の上に立っている→態度に表れる→そのうちこじれる。

こういう変なぎくしゃくは、日常茶飯事なんだろう。自分のダンナにもやっているし、子供にもやっている。ついでに近所の町内会でもやっているし、ボランティアでもやっている。政治家もやっているし、企業でもやっているし、国家間でもやっている(これは思いっきり打算が入るが。あれ?でもやっぱ、全部に言えることか)。

いい事する人はいい人。という単純な構造ではない。そこにはふくざつ~な、打算や虚栄心や自己満足や不安からの逃避や、その他諸々のおっそろしくからみあった心理が入り乱れておる。げげげ〜。

自分がやる行為は「あたしが好きでやっている」と、いつも意識していることにかぎるとおもうやまんばであった。だから近所のみんな、ゆるしてね。


絵:「小山ダンススタジオ」のための絵

2010年12月8日水曜日

虫のいないブロッコリー




畑もやることがなくなった。
草も冬支度で地面にへばりつき、大地を覆い尽くして冬の寒い風に地面がさらされないようにしているように見える。やまんばは畑を歩き回りながら、寒そうな野菜はいないか見回りをする。ブロッコリーやケールは足下にわらや枯れ草におおわれて、あったかそうに見える。
「とりあえず、こんな感じでいいや」やまんばはほっと一安心する。

コンビニのおばちゃんが、もらった無農薬ブロッコリーが、虫だらけで取り除くのがイヤになるといっていた。
「すると農家のおじさんが言うんだよ。『スーパーのブロッコリーは虫が一個もいないだろ?どんだけ農薬がかかっているかってことよ』ってさあ。でもさあ、どーにもこーにも洗っても洗っても出てくるもんで。ゆがいてもまだいるし。これも食えってことかあ?」
「ウチのブロッコリー、虫いないよ」と私。
「そりゃまたなんで?」
「どっちとるかだよなあ。肥料やって大きく太らせて虫も呼んじゃうか、肥料を入れずに時間かけて育てて虫呼ばないか」
「ふ〜ん。つまり、不毛の地に育った虫も食わないものを作るか、肥料をやっておいしくして虫も呼んじゃうかどっちかってことかあ〜。なるほどねえ〜。おっしゃ、今度そのことおじさんに言っとくよ」
と、おばちゃんは言った。

ほんとは、ちと意味が違うんだけどなあ。まあいいか。
『不毛の地に育って虫も食わない(まずい野菜)』じゃなくてえ〜、
『自然に近い状態の土で育った強い野菜は虫も食わない(うまい野菜)』
なんだけどなあ。


畑に行っても、ただうろうろするだけのやまんば。ナニしてるかと言うと、ひたすらながめている。なんつーか、そうしているあいだに、なんかしらを発見するのだ。それがおもしろいのだ。

一カ所に何粒か種をおろした白菜。間引いていきながら大きくしていく。中にはどれを間引いていいのかわからなくなるほど競り合って大きくなる苗たち。そんな時はそれをそのままにほっておくと、時間とともにどっちかが虫に食われたり、大きくならなくなる。それで「あ、こっちを間引けばいいんだな」とわかる。

そういう姿は、自然に強い種を残していこうとする力が働いているようにみえるのだ。それはどっちが競争に勝ったとか、負けたとか言う次元ではない。同じ白菜どおしが「あ、あんたが大きくなってね。私は自然に帰るから」と譲り合って生きているように見えるのだ。虫だって食べなきゃ生きていけない。譲った野菜さんは食われる運命を快く受け入れているように見える。その姿は野菜の苗一個一個が独立して存在しているのではなく、なんといおうか、すべてでひとつのような大きなうごきをしているようにみえてくるのだ。

だからその土地でその根を大きく広げ強く生きはじめたブロッコリーを虫さんは食べない。「あ、そのまま大きくなって下さい」と、育つブロッコリーさんを尊重する。
ところが肥料で甘やかされて育ったブロッコリーさんは、その生体そのものの生命力が弱いので、虫さんは「これ、食べていいもの」と判断するのかもしれない。ぶくぶくと甘く大きく育ったブロッコリーさんは虫にとっては淘汰されなければならないものなのかもしれない。それを見た人間は「あ〜〜〜〜っ!虫!こうしてやる〜〜っ」と、殺虫剤を農薬を死ぬほどかけて殺す。だから肥料には農薬がセットになっているのだ。それは化学肥料だけじゃなくて、有機肥料にも言える。どうしても野菜は肥料を入れなくては育たないもので、虫は駆除しなければいけない存在のようだ。これも最初に「これはこうするものだ」という教えから、頭がはなれられないからじゃないだろうか。

最近買った種の自家採種の本に書いてあった。道路のアスファルトを突き破って出てくる根性大根こそ、残していかなければならない大事な種だと。何の肥料も与えないで耕さないでそして固いアスファルトを突き破ってまでして出てくるそのど根性。その遺伝子はだれよりも強いものをもっている。大事に神棚にとっておく場合ではない。そのまま地面で花を咲かさせ、種をもらうのだ。

最近の野菜不足の背景は、こういう環境に強い野菜がめっきり減って来たことがあるのではないだろうか。ちょっと気候変動があるとすぐダメになる農作物。それはひとえに肥料付けのおぼっちゃま野菜しか作らなくなったからなのでは?中国ではリン酸が事実上の輸出禁止になったそうだ。リン酸は農業にとって大事な肥料。これからの日本はいろんな面でめんどうなことになりそうだ。
だからこそ、根性大根や根性ブロッコリーが必要になってくる。肥料なんか入れないでも十分に育つ野菜の種を!

一個やっと出来上がったブロッコリーをゆがいて食べる。甘いふくよかな味がした。


絵:「空想英語読本」表紙

2010年12月2日木曜日

高尾山異常




「もう、頂上なんか足の踏み場もないのよ!そこですわっておにぎりなんて食べられないんだから!」
これが今の高尾山の現状らしい。狭い頂上は人でごった返し、砂埃がすごいとの事。ハイキングコースになっている道は、人をかき分けかき分け進むのだそうだ。
「銀座より人が多いわよ。まったくもう。これじゃ山見にいってんだか、人見に行ってんだかわかんない」
山から下りて来たばかりの70すぎのおばちゃんは怒る。何でも高尾山に登り始めてかれこれ37年だそうな。ミシュランだか、ミッテランだかにお星さまをいただいてから一気にふえたそうだ。ほんでもって最近は山ガールなどのおっしゃれ〜な民族も乗り出し、すごいことになっている。

おばちゃんいわく、毎日平均3、4万人来ている(!)らしい。
そ、それって「年間250万人という世界一の利用者の高尾山」の記録を軽く超えてくれるではないか!計算機が手元にないが、軽く見積もっても年間1000万人?!
ホントの数字は知らないが、そんなふうに思えるほどの状況なのだろう。

長野は戸隠の近くのプチホテルの方から時々「戸隠だより」をいただく。そこにも最近うんざりするほど人がいると書いてある。そっちは「聖地巡りもの」らしい。戸隠は霊験あらたかな修験僧の山だ。ご利益目指してやってくるのだ。
そこまで霊験あらたかかどーかは知らんが、高尾山もいちおー、てっぺんにお寺がある。これまた修験僧の山だ。でもよく見ると、ありとあらゆる神様仏さまがまつってあって、節操がないと言うか、哲学がないと言うか、神様仏さま、ご利益ありゃ何でもござ入れ的な品のなさがある。おもわず、あのごちゃごちゃの神様軍団の中に、どこかにキリスト教もイスラム教の神様もまつってあんじゃないか?と勘ぐらせてくれる。そこがまたやまんば的には大好きなノリなんである。人間のえぐさ、欲深さは底知れないものがある。それをここまで見事に表に現してくれた高尾山にあっぱれ!なのだ。

高尾山歴37年のおばちゃんは、人に会いたくないから、朝7時に高尾山に登るんだそうな。いつものふじだな珈琲で、私とあったのが10時半頃。すでに山頂から降りて来ていた。
それでもおばちゃんは登る。なぜか。それは薬王院さんからもらう健康手帳にスタンプを押してもらうためだ。この手帳一冊600円、証印一回100円。21ページで満行となると、御護摩受付所の外壁に、自分の名前のお札が張り出される。その枚数が多くなればなるほど、お札は大きくなり、重要人物の名前の近くの高いところに張り出されていくのだそう。おばちゃんは、なん十冊ももっているそうだ。
でも「ダレソレさんはそんなに高尾山に来ていないのにあんな高いところにお札が貼られている!きっとズルしているのね」とおばちゃんはいう。中には一人5冊分もって来てスタンプを押してもらう人もいるそうだ。まあ、ちゃんと100円づつ払っているのだから、お寺側としてはへーきなんだろう。それで位が上がっていくのだから、寺側も登山客側もどっちもどっちの欲かき仲間だわな。

それにしてもうまい事考えつくなあ。「健康手帳」と銘打って、お山に来させる。おばちゃんの世代は「健康」という言葉に弱い。そしてお山に登れば登るほど、お札の位置が上がっていく。一冊満行するたびに2700円使っているのだ。あのお札の山を見ると、いかに人がそれを利用しているかがわかる。いやはや、すごい。丸儲けだあ。

今まで日本名山を90カ所めぐったおばちゃん。年がいってからは、せめて高尾山に登って身体をキープしなければ、死んでしまうくらいにおもっている。ほとんど強迫観念だ。別に人をかき分けてまでして高尾山に登らなくてもいいだろう。まわりにゃ、山ほど山がある。そっちをゆったりのんびり登りゃいいだけだ。

「高尾山は、私の山なのに。。。。」
と、おばちゃんは言った。
高尾のお山はそんな人々をかわいいやつよのお、とほほえましく見ておられるのだろうな。

ちなみに、近所のおねえさんに言わせると、
「人?そんなのコース変えりゃ、ぜーんぜん会わないよお〜」
とのこと。
視点を変えりゃ、とたんにこの世は違って見えてくるのだ。


絵:オリジナル絵本より

2010年11月27日土曜日

草は食われるのに野菜は食わん




そろそろ冬使用の草が生え始めた。
ロゼッタ状に横に広がった草(たぶんギシギシやハルジオン)は、虫に食われた穴がぽこぽこあいちょる。やはり冬になっても虫はいるのである。
しかしだなあ。なぜかあの虫がだ~いすきなキャベツ、ブロッコリー、ケール、芽キャベツ、スティックセニョ~ルなどなどが全く食われちょらん!
虫が大好きな白菜もほとんど食われちょらん。そのまわりの雑草にはぽこぽこ穴があいちょるにもかかわらずだよ。

ふーむ。こりゃ、どーいたことぜよ。やまんばは腕組みをする。
ということは、虫は野菜ばかりを好き好んで食う訳ではないという事か。思うに、その土地で強く育った植物には、虫は手を出さないという事ではないだろうか。その土地にしっかり根を張り、元気よく生きると、虫にとって食べる必要がないという事か。前、虫食いだらけのナスの葉っぱを切り取ったら、ナスが元気になったのと同じ理由なのかもしれない。

ナスさんが言う。
「虫さん、虫さん、私はチョットばかし元気がないナスです。今この葉っぱに栄養をやったら、他の私の体全体に栄養が行き渡らなくなるので、ちょっと食べてもらえませんか?」
「おっしゃ、まかせとけ!」
と、虫さんはむしゃむしゃと食う。
そこへやまんばがやって来て、
「ありゃ、虫食いだらけの葉っぱじゃのう。どれ、その葉っぱを切っておいてやるか」
そういって、やまんばは、虫食いだらけの葉っぱを切り取った。
「ああ、これで楽になったわ。やまんばさん、虫さん、ありがとう」
とナスが言ったのかもしれん。その後、ナスが苗に残された葉っぱを虫に食われる事はなかったのだ。

ところがそこに隣の欲ばりじいさんがやってきて、こう言ったとしよう。(なんだか昔話みたいじゃの)
「なんじゃあ?このナスは。実がひとつもつかねえじゃねえか!肥料が足りないにきまっちょる。肥料をやらんか、肥料を!」
欲ばりじいさんに怒られて肥料をやるやまんば。するとナスさんは、
「ああ~、せっかくバランスがとれはじめた土だったのに、そんなものやったら、全部吸い上げてしまう性質の私はメタボになってしまう~~~~」
ぶくぶくと太ってしまったナスさん。メタボでひ弱な身体になってしまったナスさんが、
「虫さん、虫さん、余分な部分の私を食べて下さいな」
「おっしゃ、まかせとけい!」
張り切って仕事に励む虫さんたち。
そこへ欲張りじいさんがやって来て、
「なんじゃあ?この虫は!殺虫剤撒いて殺してしまえ!」
「あああ~~~~」「ひいい~~~」
ナスさんと虫さんの雄叫びも届かず、せっかく自然の状態に戻ろうとするナスさんや虫さんのお仕事も虚しく、畑は完全にバランスを失ってしまいましたとさ。ちゃんちゃん。
というのがホントの話だったらだったらどーする?

ほんの少しの視点の違いが、大きな方向のちがいになるとしたら、私たちニンゲンはなにをしているのか。ああするのがいい、こうするのがいいといわれて、あっちこっちとフンソウする。あげくになにも育たない土地になってしまった畑が隣にある。相変わらず、化学肥料や殺虫剤や有機肥料をたんまり入れている。細々と育った大根の葉っぱが寒そうに見えるのは、その土地が随分冷え込んでいるのだろう。なんだかこの姿は今の人間のあり方と基本的に同じなんだろうな。あれが身体に効くこれが身体にいいとフンソウするその姿に。

きのう八王子の市場に出かけた。ふと、即席のべったら漬けでも作ろうと酒粕を買った。するとレジのおじさんが言った。
「今日は、飛ぶように酒粕が売れるんだよ。」
「なんで?」と私。
「だって、きのうタメシテガッテンだかなんだかで、酒粕が身体にいいとかやってたんだよ。そしたら、来るお客みんなが酒粕買っていく」
半ば、ばかにしたような言い方のおじさんであった。バカにされてもしかたがない。それだけみんなテレビに踊らされている。
すべては条件づけの中で踊らされている。ああしなきゃいけない、こうしなきゃいけない、草に栄養とられる、肥料を入れないと野菜は育たない、虫が食べる野菜はうまい、薬じゃないと風邪は治らない、、、うんぬん。

ほんとにそうなのか?ホントにこの世の人々が言っている、ああしなきゃこうしなきゃとおおさわぎする事が真実なのか?
しかし石けんなし生活はそれとは反対の事を物語ってくれている。畑も虫が草は食うが、野菜は食わないというのを目の当たりにした。

すべては自然の摂理にそって生きると、すべてがたおやかにさら~っとスムーズに流れていくんかもしれない。石けんなし生活や自然農は、そんな仮説を立てさせてくれる。
何か事件が起こったとき、それを素直に受け取る。なんとかしようとか、なんとかしなきゃ!とあせらない。身体の具合が悪くなったとき、早くなんとかしなきゃ!とか薬のまなきゃ!と、あせらない。すべては何かをその人に伝えようとして起こる出来事なのではないか。その時、ふと立ち止まってじっとかんがえる時間が与えられているのではないのか。

山奥で道に迷った時、人はやみくもに動き回るだろうか。やみくもに動き回れば回るほど、どつぼにはまる。そんなときは、じっとその場で立ち尽くし、心静かにこれまでたどって来た道のりを思い起こすのではないか。それと同じじゃないだろうか。何かが起こったとき、やみくもに動き回ると、最初にいた位置までわからなくなる。
なぜそれが発生したのか、自分の心の奥に聞いてみる事が一番じゃないだろうか。だがひとはそんなとき必ず最悪感におちいってしまうものだ。それで感情的になり、自分がやった事を冷静に判断できなくなる。だがそんな事をしてもその出来事は消えない。

そんな時はすーっと静かな心になるのだ。そこには、ああした方がいい、こうした方がいいという他人の忠告や、テレビが言った事などとは無縁の、泉がわくようなアイディアが、ふと心の中にしずかに湧いてくるのだ。それが本当のことなんじゃないだろうか。そうすると「いやいや、そんなはずはない。人はこう言った、常識はああだった」と心が惑わされるものだ。しかし人のからだの中には百人の名医がいるとヒポクラテスは言った。すべては自分の中が知っている。ひたひたとうごいている大宇宙の摂理がある。人間はその中にちゃんと組み込まれて生きているのだ。その事にただ気がつくだけでいいんじゃないだろうか。


絵:コージーミステリー表紙

2010年11月25日木曜日

自然発酵種むずかしすぎ





「げ、すっぱい!」
チョコシートをパン生地に折り込んで出来上がったショコラブレッド。食ったら酸っぱいでやんの。うわー。やっちまった。乳酸菌、かつどーしまくり。おそるおそる冷蔵庫に保管してある中種、元種もちぎって食べてみる。げげげー!全部すっぱい!ああ~、乳酸菌ちゃんフル活動。
もうやだ。すごい。自然発酵種、ものすごーいてごわい。こんなもの、捨ててしまおう。ほとんどの種を捨てる。でもちょっぴり残しておいて、それにエサやりをしておいてみた。数日後、、、、、消えている。すっぱいのんが消えているではないか!実は捨てるつもりの中種もとっておいたので食ってみる。え?すっぱいのんが消えている!

もう、わけがわからんのだ。
すっぱくなったり消えたり。それはほれ、この発酵菌ちゃんが、自然のものだからなのだろう。このレイゾーコの中で、ひたひたと生きているのだ。変幻自在に変わりながら、生きているのだ。こーなったら、ハウツーもんなんてもなあねえ、この世に存在しないのだ。
イースト菌ちゃんは人工的に作られた発酵種。同じ菌ちゃんが三つ子ちゃん四つ子ちゃん1兆子ちゃんと、みんなおしとやかに整列しておとなしい。だからハウツーもんが存在できる。
しかーし!この空気中からその発酵の種を求め、作り上げられたわけのわからん天然の酵母菌に中には、わしも、おらも、おまんも、おんしも、あても、おいどんも、おばちゃんも、おんちゃんも、じっちゃんも、タゴサクも、み~んないっしょくたに住んでいるのだ。み~んな好き勝手に共存してレイゾーコの中に住んでいるのだあ~~~~。

なるほどね。だからイースト菌という優れものが発明されたのだな。パン屋さんにとっちゃ、ある時は、ばあちゃん菌が活動したり、またある時は、タゴサク菌がフル活動しちゃったりしたら、
「ちょっとちょっとちょっとおー!こないだのアンパンと味が違うじゃないのよー!なんだがじじむさいわよー」
とクレームをくらう。
「どーもすいませんねえ。今日はタゴサク菌ががんばっちゃって」
と言い訳する。。。。って、商売になるんかい!

なんだかね。これは自然農にまったくにてる。あーでもない、こーでもないと必死でいろいろやってみたが、結局ハウツーもんはないという結論に達する。その土地にあったその土地がかもし出すノリっちゅうのんがあって、それにそった作り方をしろ!と言われている気が最近するのだ。

つまるところは結局みんなそうなんかもしれない。あれが身体にキク、これが心にキクとあっちこっち探しまくって、そこまでいいものがあるんだったら、この世はさぞかししあわせに満ちた健康的な野菜に溢れた世界なはず。でもむしろ逆ムキになっている。それはハウツーもんにたよりすぎているからなんではないのか?すべてはその状況によってまったくちがうんじゃないかえ?

んで、2度目のチョコラブレッド挑戦。
「げ。すっぱい!」
また作っちまった。
見た目はプロみたい。ぷっくり美しーく出来上がったこの一斤半の固まり。すてるのかー?
イチゴジャムでも乗っけて食っちまおうか。すっぱいのんがごまかせるから。


絵:ラブロマンス表紙(なんだかどれ出したんかわからなくなって来た。重複したたらごめんねえ〜)

2010年11月18日木曜日

草ごえと歌ごえは野菜に効く。




秋に入り、あの激しかった草の勢いもウソのよう。今は広々と全体を見渡せる畑の中で一息つく。

近所の畑おじさんに
「ドオだあ?オタクの畑の調子は」
というご挨拶に(なかばからかい半分の)、
きっちり「はい。草、育ててマス」
と、毎度答えるぱぱさんのセリフどおり、今年はホントに草育てた。そのかいあって、秋には草肥は豊富。カラカラに乾いたメヒシバはサイコーの草肥。畝のベッドでお布団代わり。晩秋の寒い風の中で野菜さんたちはゆっくりあったかく育っている。

去年の秋と今年の春の種まきのような、虫の食欲おう盛さは、なぜか今年の秋の種まき頃にはぴたっと止まった。
春蒔きの新芽全滅の悲劇を繰り返すまいと、アホほど撒きちらしたアブラナ科の種。虫に食われずコオロギ食べず、そのまま発芽。畝の上、隙間も見えない新芽の嵐!土の肌はおろか、草の一本も生えてこれないくらいビッチリ埋まった。

ちょっと歌いすぎたかな。。。?
あるブログで発見した、歌いながら百姓するきもいオヤジ。畑のど真ん中で朗々と好き勝手な歌を歌う。その歌の内容は、私の聞きながら育ったものとぴったりマッチしていた。おのれ、私のジェネレーションだな。とチェック入れる。ドンピシャ。そうか。歌うのか。。。
んで、やまんばは、マネをした訳だ。

「撒きなさ~い。わらい~な~さあ~い。人として、野菜として、大きく育とうよ~」
そうやって歌いながら、秋に次々と種をまいた訳だ。
そして目の前に、草も生えないくらい密集した新芽の畝。こっこれじゃ、間引きできない。。。。ほっとこう。。。(オイ)

私の美声はそんなに野菜にキイいたのか。。。?やはり、肥かけは、声かけなのかもしれん。「菜っ葉の肥やし」とはこのことか(ちがーう!)
『注:菜っ葉の肥やし(なっぱのこやし) 野菜の肥料は下肥(しもごえ)であることから、掛け声(=肥の洒落)ばかりであること。言うだけで実際の行動を起こさない者を罵(ののし)って言う』

それにしても、初めてこの畑で種取りしたアブラナ科の野菜、タアサイ、水菜、壬生菜、小松菜、ノラボウ、コカブ。それぞれに種とったはずなのに、出てくる葉っぱは、みんなおんなじじゃないかー!若草色の若葉のベッドは、水菜のはずなのに、丸い葉っぱや、チンゲンサイみたいなものが混じっているし、タアサイの葉っぱは、水菜みたいにギザギザしたモノが混じっている。しかも根っこがカブのように太っているものまである。これが交配という奴なのだな。もうしらん。このまま育ててここの畑オリジナルの野菜を作ってしまおう。

聞く所によると、インディアンは野菜作りに肥やしは入れないと言う。ゆいいつ入れる肥やしは、笛。笛を吹いて野菜に聞かせるのだと言う。これだな。やはりこれにかぎるな。ひそかに歌って肥やしをやろう。。。
誰もうしろで聞くなよ。


絵:オリジナル絵本「やまごえ」より