2010年11月12日金曜日

安心な場所




夕焼けを見ながら畑から戻る。

いったい自分は、最終的にどこに落ち着くんだろう?そんなふうに考える。
ああ、そういや、ニューヨークでいた時も同じ事考えていたなあ。「私はいったい、どこに落ち着くんだろう?」「私の人生って、なんだろう。どこに向かって進んでいるんだろう?」「行くべき場所ってどこだろう?」

きっとニューヨークの私が、今のこの高尾山のふもとで、畑をしている姿をかいまみでもしたなら、これが「落ち着く場所」と思っただろうな。しかし今その場所にいる私は、ここを最終目的としていない。

それはたぶん、場所ではなく、生き方をさぐっているのだろうな。ではこの生き方はステキではないか。しかし私の心は「これではない」というのだ。

人はつねに安定を求める。安心な仕事、安全な場所、永遠のしあわせ。。。
今ある「ここ」は、つねに安心な場所ではないのだ。だからどこか別の場所。。。と、心がいう。

年老いた母の姿を見ても、彼女のいるところが最終目的地で安住しているようには見えない。彼女もまた、いつかどこかで自分は安心安全な場所。。。と求めているのだ。
という事は、人は永遠に求め続けているだけなのじゃないか?

人間の最終目的地は、「死」なのだ。人間は死という目標に向かって進んでいるのだ。本当は、それが本当の安心な場所なのかもしれない。

だとするなら、人生は、死ぬまでINGのままなのではないだろうか。現在進行形。死ぬまで安定のない、安心ひとつない、自分が描く理想なんて無視される現象が目の前でどんどん展開されて、どんどん進んでいく。今この瞬間もどんどん死に向かって進んでいる。なにひとつ、止まる事がない現在進行形。

安心や安定は止まる事を意味する。
どんどん押し流されていく自分の人生を不安におもい、
「ちょ、ちょ、ちょっとまってよー!ついてけないじゃないのー!」
とあせる。必死で止まろうとする。流されながら、
「ああ、止まりたい。どっか止まれる安心な場所おおおおおお。。。。」

かくして人間は安心な安定した場所を求める。しかしそれは死ぬことなのかもしれない。

おとぎ話は必ずこうしめくくられる。
「そうして二人はいつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ」
これが人が求める最終目的なのだろう。小さい時にこの思想は植え付けられる。

しかし人生の意味とは、この全く一瞬もとどまることのない生を、意識的に生きることなのではないだろうか。
つまり、私たちの最終目的は、逃げずに死ぬまで生きる、ということなんだろうな。

やまんばは、夕日を見ながらそうおもいましたとさ。


絵:オリジナル絵本「やまごえ」

2010年11月10日水曜日

テレビ菌がウツるんです




前から変だとは思っていたが、最近特に変だ。何の話?ニュースだ、ニュース!
報道とは、平等かつ公平に行われなくてはいけないとおもうのだ(わしだけか?)。なのに、最近のニュースキャスターは、北朝鮮並みの情感の入れかたをする。「あってはならないことです」とか「許すまじきことデス」とかいらん言葉を言う。昔のニュースキャスターはそんな情感なぞ入れなかったぞ。あくまでも人権を尊重した言い方をしていた。今はまるで容疑者は「チョー悪い奴」という前提で喋っている。ひょっとしたら、白かも知んないのに。
さらに変なのは、報道番組で、今のハヤリの特集をやったり、これからハヤルものを先取りしたコーナーもある。なんでや?ニュースだろ?

ほんでもって、必ず出てくるのが、食べ物。なんでやなんでや、なんでそんなもんやるんや?ニュース番組だろ?
まるでお昼のワイドショーネタがそのまま夜の番組になっている。ニュースキャスターは情感込めていうし、今ハヤリを先取りしろと言うし、お得なものをゲット!という。報道ってそんなもんだったんかいの。

今問題になっている尖閣諸島ビデオ流出問題も、誰が流したとか必死になって探しているが、もっと大事な事忘れてない?そもそもあのビデオ見た限り、どう見ても中国が突っ込んで来ているじゃないの。その確固たる証拠ビデオを、なぜに政府はかくしたの?さっさと公開してたらこんなに問題もこじれなかったかもしれないのに。そしてその流出されたビデオは、本当に全部なのだろうか。な〜んだか、なにもかもあやしーのに、その怪しさを突き止める事もしないで、だれがやった!?ということばっかり。それもなんだか、何かを隠すためにそっちにばっかりふっているよーな気がしちゃって、いろいろ疑っちゃうじゃないの。


秋葉の事件も、遺族が死刑にして欲しいなんて平気で言う。それをニュースで流すあたりが、わしゃ、ぞっとする。その根底に「悪はとことん悪!」という極端な思考が入り込んでいる。秋葉事件のお兄さんだって人権というものがある。どんな経路であそこまで追いつめられたか、彼なりの理由があるはずだ。お兄さんの家族が、苦しさのあまりに吐いてしまう言葉ならいい。でも他人がいえる言葉ではない気がする。そういう言葉はぐっと胸の奥にしまい込んで、あえていわないのが日本人の美学ではなかったのか。

そんな思いになるのも、最近の変なニュース番組が、極端に怒りをあおっているからそんなノリになっちゃうんじゃないの?え?

テレビ菌がウツるから、よいこのみんなはあまり見ないようにしましょう。


絵:「すごい駅」メディアファクトリー新書表紙

2010年11月5日金曜日

なんとかなる




ごしょごしょと、健康に関する本を読んでいる。
「健康のためなら死んでもいい!」と言っていたタモリがやっているタモリ流入浴法。なんじゃ、石けんなし生活とおんなじじゃねえか。石けんなし生活もそのうちポピュラーになるんだろうな。ほんでもって、この世のやまんばがうじゃうじゃじゃあ〜。

三好基晴さんの「病気の迷信」と「ウソが9割健康TV」というのを図書館で借りて来て読む。それによると、わしらが日頃口にする言葉「風邪は万病の元」とか「怪我したら冷やす」など当たり前に思っている事が「風邪は万病の予防」とか「怪我したら冷やさない」とか、じぇんじぇん違う事が書いてある。おまけにアレルギーになる人はがんにかかりにくいとか。トンデモ本であーる。こんなもん信じたら、お医者さんがおまんま食い上げじゃないか!いけませんねえ。そしてテレビで言っている健康ハウツー番組は、9割がウソだと申しておられる。これまたいけませんねえ〜。そんなこと信じたら、この世はやまんばがうじゃうじゃじゃあ〜。
よいこの皆さんは、風邪は万病の元であり、怪我したら冷やして下さいね。そうでないと、病院経営が成り立ちませんよ。

でもさ、あれしちゃダメ、これしちゃダメ、ああしなさい、こうしなさいといわれるより「ほっておきなさい。自然になおるから」といわれるほうが、おもしろい。人間の可能性をかいま見る事ができる。ヒポクラテスは我々は身体に100人の名医がいるといったじゃないの。

人間の身体は何か起こったら、自然に治ろうと全身全霊で治そうとする。それを人間のいらない知恵で、冷やしたり、クスリ飲んだり、ステロイド塗ったりして、治るのを邪魔しているかもしれないのだ。
その先生がいうには「薬」という漢字は草に楽と書く。草を使って楽にすると書く。治るとは書いてないのだ。単に楽になるだけの事なのだという。ホントに治るんなら、草かんむりに治ると書くはずだ。気分的に楽にするだけのことかもしれない。漢字はすごいなあ。律儀にホントの事が書いてあるのかもしれない。
ちなみに「クスリ」を逆から読むと「リスク」だそうな。

私たちは痛みが来ると「やばい!どうにかしなきゃ!」とあせる。それをとりのぞかなくてはいけない!とおもう。ところが痛みは身体が治療している最中なのだとしたら、また、そのように私たちが教わって来ていたなら、「やばい!」と思わないのではないだろうか。

小さい頃、ケガをして、母にヨードチンキを塗ってもらった瞬間、痛みが来て泣いたら、
「このお薬は悪いところを治してくれているのよ。今ばい菌さんとお薬さんが戦っているところだからね」といわれた。
「そーか。今戦って、治してくれてんだなあ」
となんだかうれしくなり、痛みが遠のいた記憶がある。そういう言葉ひとつで感覚は変わるのだ。その時から「薬は治してくれる」とインプットされた。教育ひとつで考えは変わるのだ。
ところが、ここにひとつの教えがある。洗脳といっていいのかもしれない。薬信仰だ。母は、その母から病気は薬で治る、と教えられたのだ。それを信じているから、それを子にも伝える。その心の根底には、痛みはいけないこと、それを取り除かなくてはいけないもの、というアイディアがある。

もし、痛みは治ろうとする自然の摂理として教えられていたら、子供の感覚は一変する。ケガして泣いていたら、
「痛みは治ろうとする大事な身体のお仕事なのよ。さ、水で洗ってそっとしておきましょう」
といったらどうなるのか。私たちはその時から、痛みを恐怖する事がなくなるのではないか。風邪は万病の元ではなく、あらゆる病気を阻止するための予防の役目をすると教えられたらどうなるのか。大掃除のために熱を出し、バランスを保つ役割をしていると教えられたら、はたして解熱剤であがる熱を下げようとするだろうか。

先日、急におなかが痛くなった。そこでどのように痛みがくるのか観察する。左が痛くなり奥に引っ込み右に移動する。背中のあたりに何かの感覚が起こり、いきなりモヨオして来た。トイレに駆け込む。それから痛みはひいては現れひいては現れしながら、その度に排泄し、じょじょに消えていった。

人は痛みや身体がだるくなると、必ず感情が動く。
「イヤだ。この症状なんとかして外したい」とおもう。
その心はその痛みに抵抗をしている。だが観察するとは、抵抗をしない事なのだ。痛みを痛みとして淡々と見る行為。痛いと自分の感情が動くのをあえて外すのだ。抵抗するとは身体が自然に治癒しようとする事を妨げるのではないだろうか。抵抗=拒絶=身体が固くなる。だが、その抵抗を外すと、その痛みを受け取る事になるが、それを会えて真正面から見る事によって、その痛さは抽象的になってくるのだ。痛い痛いとおなかを抑えるとその痛さはがぜん強さを増す。ところが力を抜き、抵抗せず、痛みがどのようにあるのかを観察するうちに、モノの2秒もしないうちにその痛みは漠然としてくる。こうなるとシメタものだ。そのまま観察を続ける。おもしろい事にその痛みは移動するのがわかる。からだの中に何かが起こっているのがわかる。なんというか、自分の知らないところで大きなうごきが勝手に起こっているのを、そのとき感じる事ができる。その偉大さは畏敬といってもいいくらいだ。偉大なからだの摂理。健康な時はからだの中の事など忘れている。こんな時こそ、ナマでその大自然を感じる事ができる。

鍵を握っているのは、抵抗なのではないか。何かが起こったとき人は抵抗する。そしてなんとかしなきゃと思う。そのなんとかしなきゃが、事の収束を遅くしているのかもしれない。

お世話になっている編集者の人から昔聞いた話だ。
知人がとてつもない事件にあって、自分ではどうしようもなく、とことん落ち込んだとき、満員電車に乗っていたそうだ。込み合った車内で、「どうしよう、どうしよう」と心が動揺していたとき、突然大きな声が聞こえたそうだ。
「なんとかなる」
あまりに大きな声が車内にひびいてびっくりしてまわりを見渡したが、誰も気がついていないようす。ただ、目の前に座っていた人だけが、自分を見てにやっと笑ったそうだ。
それからぱたぱたとその問題は解決したのだと言う。

すべてはなんとかなるのかもしれない。いや、自然の摂理がなんとかしてくれているのかもしれないではないか。
そう思えば、何も抵抗する必要はないのかもしれない。



絵:「あがり」は味方にできる」表紙イラスト

2010年10月31日日曜日

やさしさの押し売り




いじのわるいやまんばは、さいきんおもうのだ。
このペットボトル一個買うと、どこそこの貧民国に住む人々に物資が与えられるとか、このケーキひとつ買うと、恵まれない子供たちに愛が供給されるとか、車一個買うと、もれなく砂漠化した大地に木が一本植林される、なんて言う商品のCM。
なんだかねえ。やまんばは、そーゆーコマーシャルを見るときもちがわるくなるのだ。
「まあ、このペットボトルをあたしが買えば、貧しい人々が喜ぶのね!ああ、さっそく買ってあげましょ。私って、ホントにやさしいわあ」
となるのかねえ。

ちまたではなんとな~く、やさしくしなければイケナイ傾向がただよっている。人にやさしく、弱いものにやさしく、地球にやさしく、ついでにアメリカにやさしく思いやり予算。

災害にあったどこそこの国のことが心配です。お知り合いになった農家の方の地方の天候が心配です。ああ、心配心配、そんな心を寄せる私ってやさしい。。。
その一方で、子供の先生に腹を立てて許せない。ついでにダンナも許せない。

遠くの人を心配してやさしい気持ちになり、近くの人間に牙を剥く。やさしい心は距離が必要なのか。自分の身に関係ないものには愛をたんまり捧げられる。だが自分の身に危険が及ぶと攻撃する。

コマーシャルは、人の良心に訴えて来る。これを出来るあなたは「やさしい人」。と引き込んで来る。人間の良心をくすぐるのだ。地球温暖化の話もそうだ。人間が出すCO2が原因だから、あなた、なんとかしなさいと。桁違いに排出される工場は優遇されて、一般市民にC02を出すなという。市民は「地球のためだから」と思い込まされて、電気を消す、節約する、息を止める。無茶だ〜。

「やさしく。。。やさしく。。。」と洗脳されると、無意識にやさしくしなければと思う。そうすると表にはっきりあらわれたやさしさの行為がしたくなる。冒頭のコマーシャルの商品を買いたくなる。エコキャンペーンで省エネの冷蔵庫も買いたくなる。(洗脳、成功)

「地球にやさしくすること」はエコキャンペーンに乗ることだから、冷蔵庫を買う。本音は、冷蔵庫は新しい方がいいし、今買えばお得だから。
でも頭では「いいことしている」と納得しようとしている。だから子供にも「地球にやさしくしているのよ」という。するとまにウケた子供が、「きのう、ママは冷蔵庫を買って、地球にやさしいことしたんだよ」と、学校で発表する。先生は「それはいいことをした」とみんなでほめる。その子は、そう思い込んだまま大人になる。こわくね?

本当に自然にやさしくと思うなら、そんなもん買わないがほうがいい。冷蔵庫一個作るために排出されるCO2はどれだけ莫大か。だがC02を出さないことが地球にホントにやさしいことなのか?

そういうへんちくりんな「やさしさのカタチ」が今の世の中ひろがっている。
今買えばお得だから買うという、単に欲のある行為を「地球にやさしい行為をしている」と置き換えてしまっているのだ。「私って欲深いわよね〜。ははは〜」と認めちゃばいいのに。
そしてなお悪いことに、子供にまでその行為を「いいことをしている」と教えている。
それは遠くの人には愛を与えられるが、近くの人とは憎しみあう行為とあまり変わらない精神構造ではないか?憎しみ会う心がある分、他に愛を注いでバランスをとっているのか?それはほんとのやさしさなのか?

道で手かざしをして愛をくれる人がいる。本人は本気で愛をくれているのだろう。けれどもそれを素直に受け取ることができないのは、そこに何か別の意識を感じるからではないだろうか。

やさしさは表に「どうだ!これがやさしさなのだ!」と現すものではなく、そこはかとなく、相手に気付かぬように行うものだ。それはほんわかとあったかく、意識にも登らさぬ行為なのだ。あ〜そんなやさしい人間になりたいもんだなあ。やまんばはまだやさしさの押し売りばあさんなのだ。


絵:「M−1戦国史」表紙イラスト

2010年10月27日水曜日

どっちでもいーのだ!



「原始人も焼き畑やっていたのだよ。きみのやっていることは、原始人以下だ」
妖怪はコーヒーを飲みながら言った。
原始人が焼き畑をやっていたかどうかは知らない。しかし草木灰の肥料さえも入れないで野菜を作ることは、原始人以下だと言っている。きついお言葉。だがお顔が緩やかなので、ちっとも怒られている気がしないのは、妖怪ゆえか。そんな妖怪が、やまんばは大好きなのだ。

「ぼくはね、十数年前から本を読んで勉強したんだ。畑をやるにはまず土作りだ。」
妖怪は最初うんと完熟した、非常に質のいい牛の糞を300キロ畑に投入された。それからたえず追加の牛糞や鶏糞やナントカ石灰や腐葉土やおからや、とにかくいろんなものを入れて土作りに励まれたようだ。お知り合いに農大の方がいて、彼に土の成分を調べてもらい、絶えず土チェックはおこたらない。畑にリトマス試験紙も用意してある。土の成分表もあると言う。

「すると、ナントカの成分が過剰だってわかるんだ。だからそれを減らして調節する」
すばらしい。これぞ文明を生きるお方だ。どうりでいつも大きな野菜が豊富なのだ。
「しかも無農薬だよ」
妖怪は身を乗り出した。ここまで完璧な野菜作りはないだろ?と、お顔が言っていた。


やまんばは、妖怪にいただいたジャガイモが、腐って牛糞のにおいがしていたのを思い出していた。やはり野菜は土の中のモノをすべて吸い上げるんだなあ。。。
スーパーで買った野菜がクスリの味がしたのも、土の中のものを吸い上げる性質を持っているからなのだと確信した。

ブロッコリーの苗に虫がつく話が出た。
「葉っぱはみんなレースだよ」
「え?レースって?」
「百匹は下らないね、3、4個の株に。それをとるのが大変なんだよ」
「ウチのブロッコリーには虫そんなにいないよ。見つけてもせいぜい3、4株に1匹。捕まえてフェンスの外にポイッ」
「そんなはずはない。虫もつかない野菜なんて。きみ、どんな野菜なんだ。。。」
「そう!虫もつかないいい女!」
と、ウケ狙おうとしたのだが、そこんとこは無視されて、ブロッコリーやキャベツ系の株に虫がつかないことをケーベツされた。


虫がつかないのには理由がある。山の草に虫が大量に発生して葉っぱがレース状になることはない。土の中に過剰なものが入ると、自然はそれを取り除こうと躍起になるのではないだろうか。やまんばの畑は自然の状態に近い土をしているようだ。だから虫もそこまで来ない。

ここに二つの選択がある。野菜を大きくするために牛糞や石灰を入れるかわりに、虫も大量にふえその始末に負われる。もしくは何も入れないで自然が調節してくれるにまかせ、その摂理に合わせた大きさの野菜にして、虫も食わない野菜にするか。。。


だが、ホントはどっちでもいいんだ。なんだかめんどーくさくなってきた。
農薬を使って野菜を作ろうと、有機農法で野菜を作ろうと、自然農で野菜を作ろうと!

正直いうと、だんだん自分でいやんなって来たのだ。
白状しちゃうと、自然農やっていることが正しいと思っている自分がいると、他のやり方をしている人々をどこかケーベツしたり、排除したりしてしまう心があるのだ。そんな自分がいやんなっちゃうのだ。「あたしのほうが正しい」と思った瞬間、閉じた心をもつ。勝手に自分で他人と線引きをしている。それで優越感を持つ。
これってやらしくない?
そりゃ、農薬は自然にやさしくないかもしれない。けどそれがあるからみんなスーパーで買えるのよ。
エコな人たちが「地球にやさしくしている自分」をかわいがっている姿を見ててイヤな気分になるのも、根底に同じものが流れているからではないか。どっちにしたって、悦にいっちゃっている訳さ。やまんばは、そんな気分でたゆたよっている自分に気がついた。

妖怪は妖怪がいいとおもうことをやり、やまんばはやまんばで好きだなあとおもうことをやる。それでいいんだとおもう。地球さんのことは知ったこっちゃない。どっちみち、人間が好き勝手やっても、地球さんのくしゃみひとつで、全部ぶっとんじゃうんだもん。

逆に地球さんの物質的な面のことばかりを考えて、人間どおしがいがみ合ったり批判しあったりケーベツしあったりしていることの方が、はるかに害がある。
地球さんは、ホントはそっちの方を心配しているんじゃないかなあ。


絵:「お金持ちのお金はなぜなくならないの?」表紙イラスト/メディアファクトリーから今日発売でえ〜す!

2010年10月25日月曜日

ブームってなに?




ニッポンに帰って来て、はじめて聞いた言葉が「デトックス」。
なんじゃそりゃ?
毒抜きなのだそうな。帰って来た2004年の頃は、デトックスブーム。ニッポンのセラピー取材のお仕事をさせてもらった時も、デトックス体験をさせてもらった。足を特殊な溶液につけ、何かの電流を流す。すると見る見るうちに足の入った液体がまっ茶色になる。リトマス試験紙みたいな色見本があって、私の液体の色をあわせてみる。

「これはすごい毒が出ましたねえ〜」と言われる。私にはそーとー毒がたまっていたらしい。
「でもだいぶ毒が出たから、大丈夫ですよ」
あれから5年経つ。デトックスにいっていない。これはそーとー毒が体内にたまっているにちがいない。

って、ほんとだろうか。
テレビで、つねに食べ物と健康に気を使いデトックスをいつもしている奥さんと、付き合いで酒とタバコ漬けのダンナの身体の毒素を調べていた。結果は奥さんの毒の方が多かった。毒抜きばかりをしている自分の方が、身体に悪いコトしているダンナよりも多いことに、奥さんはショックを受ける。番組はそこで何の解釈もなかった。ただ笑いを取っただけだった。

これは何か大事なことを現している。そもそも毒抜きというものは必要なものなのだろうか。からだの中に排除しなければいけないものがあれば、からだは勝手に排泄物として出すのではないのか?無理矢理汗をかいたり、マッサージで油を搾ったり、溶液に足をつけて毒素を抜く必要があるのだろうか。あれから5年たつが、毒抜きをしなければいけないという切迫感は、私にはない。

これもまた、人を恐怖に陥れる戦略のひとつではないか?健康ブームには必ず恐怖がセットになっている。「これをしないと、えらいことになりますよ」「あなたそれでいいんですかあ〜?」「ほ〜ら、今すぐ!お電話を!」

健康番組は、ひどい症状の人をまず紹介。番組のゲストたちは、
「わあ〜、ひど〜い」という、一貫したリアクションをみせる。視聴者もいっしょに「わあ〜、ひど〜い」同じようなリアクション。
番組の司会者が「もうこうなったら、たいへんです!」
ゲストは「うわ〜、私もそうなったらどーしましょー!」という心配リアクション。すると司会者はすかざすこういう。
「ところがここにとっておきの、いいものがあるんです!」
「え〜っ」とゲストたち。
視聴者も「え〜〜〜っ!何か解決法があるのね!どれどれ?」(すでに番組の一員)
「これを使えば、一気に何もかもが解決!さあ、あなたも今から!」

そー言って、翌日スーパーで売り切れた納豆、バナナ、黒豆、きのこ、ヨーグルト、餃子、チャーシュー、チャーハン数知れず(そんなのあったかいな)。
遥か昔にあった健康サンダルや健康グッズや健康食品はいまどこに?どんだけそれにお金をつぎ込んだ?さて、今、さぞかし健康になったことだろう。。。
え?昔はよかったのよ、今はほら、もうトシだから。。。(結局健康になってない?)

そこには意図的に仕組まれた何かがある。解決方法は最初からあるのだ。何かを売り出したいのだ。納豆でも化粧水でもなんでも。それを売るためにまず問題提議をする。メタボになります、シミになりますと。
テレビを見ると阿呆になるから見るなと言われたのが、私が子供の頃。それを言った本人が今は「テレビがいうことだから間違いない」と信じ切っている。完全に阿呆になっている(笑)。
あれがいいこれがいいと視聴者を振り回し、日本中を世界中をフンソウさせる。解決法で、ガッチリもうける仕組み。番組のスポンサーは、製薬会社、保険会社、化粧品会社、金融関係、食品会社。何か意図を感じない?

しかし、もっと大きく仕組まれたことは、庶民をいつも心配させておくことだ。恐怖をつねにもたせ続けることなのだ。それが一番いい問題提議。常に心配だから常に情報が欲しい。だから常にテレビに釘付けにさせることができる。するとタイミングよく、解決法が用意されているのだ。

現代人は必要以上に心を振り回されている。いらないものまで買い込まされている。いつも心はおろおろと、ああでもないこうでもないと揺れ動く。

私たちは、心がどのように反応して動いているのかを学んだことがない。学校で教わっていない、親も知らない。ただいつも目の前に現れて来る現象にだけ解決法を見出す。あらわれているからそれにだけ振り回されている。しかしその現れているものが、意図的に作られているとしたら、私たちは一体意味のあることで、振り回されているのだろうか。私たちが、これはいいもの、これはいけないもの、と判断しているものは、果たしてどこから来たのか。ただ、そう思い込まされているだけなのではないか。自分で決めたことのように思うことが、実は誰かの例であったり、アイディアであったりしないだろうか。

ばい菌がつくから、虫歯になるから、ウイルスがつくから、と恐怖をあおり、石けんやシャンプーや、歯磨きを買わせる。そして出来上がった新たな病気でもうける。そんなシステムがこの世にあるとしたら、どーする?

さてその結果は、何もしなくてもいいことが私の身体は教えてくれた。それは単に石けんだけの世界でとどまらないのではないだろうか。あらゆるプラス思考(あれもしなくてはいけない、これもしなくてはいけないという思考)が、あらゆる問題をひき起こしているのだとしたら、現代人はなんておばかな生き方をしているのだろうか。

物質面からの摂取と、心配して恐怖するという心の両面が、ふくざつに入り乱れて、今の日本人の心と身体を蝕んでいるんではないだろうか。このままいったら、きっとわたしたちは、極まってしまう。これはもう、政治家を変えるとか、システムを変えるとかで変わる問題ではない。心の中に完全に入り込んだ、作られた価値観の毒素に気がつくことしかないとおもうのだ。

それって、心のデトックス?


絵:coopけんぽ11月号表紙「キクの妖精」

2010年10月21日木曜日

ノンアルコールで酔っぱらう





「これ、いただいたから飲んでみてよ」
「やだ。ビール嫌いだもん」
「だいじょーぶ。これはノンアルコールのビールなのよ。飲んだってヘーキだってば」

ダンナは酒が飲めない。飲めないというよりは、飲みたくないらしい。若い頃はジンをよく飲んだと豪語するがウソかもしれない。だってビール一口飲んだだけで酔っぱらって、すぐ寝ちまうのだ。本人いわく、「あの、酔った状態のもわ~とした頭がクリアでない感覚が許せない」のだそう。のんべにとっちゃ、あの「もわ~」とした感覚が忘れられなくて常習しちゃうのに。

でも知り合いからあえて「ダンナに」とプレゼントされちゃったのだ。飲まさないわけにはいかない。ホント言うと、「これ、ビールだから」とダマシて飲ませて、ノンアルコールで酔っちゃうかどーか、確かめたかったのだ。しかし、ビールと分って飲むダンナではない。そんなウソはどっちみち通用しない。実験できなくておもしろくねえなあ~と思いながら、「ノンアルコールのビールだよ」と渡すことにした。食事前、何回か「飲んでみてよ~」とトライして、やっと「じゃあ、飲んでやるよ」といった。

一口飲んで、いや~な顔をする。「ビールの味がする」と。あたりまえじゃ。
それからそのあと一口も飲まなかった。なのに、食事をしながらこういう。
「おれ、顔赤くないか?なんか、目のまわりが熱い」
ダンナの顔をみてびっくり。完全に酔っぱらっている。目が充血して、顔はもちろん、耳まで赤い。

「ノンアルコールって。。入ってるじゃないかー」
缶ビールを見る。
「だって、0.00%って書いてあるよお?」
「ホントは0.009%かもしれないじゃないか!」
その下の数字は切り捨てられていると言いたいらしい。あのねえ。いくらその下が9でも、その量たるや微量すぎてハラの足しにもならんわい(意味不明)。

これはどーゆーことか。かぎりなくゼロに近いアルコールにも、こやつの身体は敏感に反応するというのか?じゃあ、今車に乗ると、飲酒運転で捕まっちゃうんだろうか。アルコールが検出されちゃったりするんだろーか。もしそーなら、恐るべし!自分でアルコールを作りだす男!と三面記事に載っちゃう。

まさにこれこそが、頭が身体を作っていくメカニズムの典型なのではないか?病いは気から、というのが「病気」という言葉を作ったように、頭で反応したものが、身体に表れて来る。。。いや、まてよ。頭は「ノンアルコールだ」と思っている。。。
そーか。舌が覚えているのだ!

ノンアルコールのビールを一口飲む。口の中にビールの味が広がる。そうすると以前、町内会で飲んべえのオヤジどもにムリヤリビールをたらふく飲まされて、べろんべろんになったことを思い出す。その時の感覚がふたたびよみがえって、かあ~っと顔が熱くなるのだ。そしてその熱さに今度は心が反応する。
「おれって、酔っぱらっちゃってる。。。。。」
そーして身体まで完全に酔っぱらいの状態に入るのだ。これはほとんどパブロフの犬じゃねえか?

「これビールだから」と、ダマして飲ますより、もっとおもしろい結果が出ちゃった〜、うほほ〜い。

ということは、逆に、私らが「わ~い、ビールだ~」と飲んでいるうちに酔っぱらうのは、飲んだら酔う、と信じているからかもしれない。

恐るべし!人の心と身体の直結度は、ジョーシキをつくがえす!


絵:オリジナル