2010年8月6日金曜日

大野イモ食われる




一瞬、眼を疑った。ない。そこにあるはずのものが、ない。(生理じゃないぜ)
やっぱり来たかー。そーきたかー。

「ここらの畑のイモはぜーんぶやられてるぞ。だもんだから、おれんところは電流よ」と、近所の畑のおじさんが自慢してくれた。見ると畑の一角だけが電流線でウヤウヤシく囲われていた。

んで、ついにうちもやられちまったわけだ。ウチだけなぜかいつまでたってもやられないので、草にかくれて見えないかな?とどこかで鷹をククッっていた。あまかったー。見事に食われた。40本の里芋、ちっこいのんを2個だけ残して。ついでにトウモロコシも7割、スイカにいたっては100%!

フェンスの金網が無理矢理こじあけられている。ここから入ったとすれば、どこから出たのだ?あった。南東の角のフェンスがもの凄い力で押されてひん曲がっていた。入ったところはやわな金網。出たところはと相当分厚い鉄のフェンスだった。すごい力だ。イモ食ってがぜん力が湧いたのか?

里芋は大野イモといって結構高級なお芋さんだった。
「これ、高かったんだぜえ〜。さぞかしうまかっただろうなあ」
散らばったイモの葉を集めながらつぶやく。なんだろう。心は動揺していない。むしろどこかがはしゃいでいる自分がいる。これは気が狂ったのか?あきらめの境地か?それとも開き直って自分をあざ笑っているのか?

実は前の晩、一瞬このシーンを見た。夜、頭に畑に散らばっている里芋の葉を見たのだ。動揺した。まさか。いや。そんなはずはない。気のせいだ。ないない。心で動揺を静めようとしていた。そして次の日畑でそれを確認する。じっさいはもっとすごかった(笑)。
やっぱりそれだったか。どこかで覚悟していたからあまり動揺していないのかもしれない。


ピーマンの枝という枝にカメムシがビッチリと食らいついていた。どうやらピーマンの水分を吸っているらしい。あれよあれよという間にピーマンの苗がひからびていく。その虫はナスにもつき始めていた。私はしかたなく、ピーマンの苗を全部根元から切ってフェンスの向こう側に捨てた。そのときふと、こんな風に拒絶していいのだろうか?という思いが頭をよぎった。自然は不必要なものなどなにもない。すべては必然。そこに虫がいるのは、その土地や植物を浄化してくれている。そういう前提で草も虫も敵にしないのではなかったか。
そう頭では分っていても、じっさい虫がもの凄い量いると、他に移るんではないか、もっとひどくなるのではないかといらぬ心配をし始めるのだ。

ピーマンを切って捨てたのが、おとつい。その夜にイノシシはやって来てイモ、トウモロコシ、スイカを食っていった。あまりにタイムリーではないか。何もその捨てた夜に来なくてもいいではないか。これは何かを言おうとしているのだろうか。自然に不必要なものはない、と。カメムシが食うのはちゃんと意味がある。大事なお仕事をしているのだと。だとしたら、イノちゃんに食われたのは、その代償や仕返しではなく、カメムシをとった私のした事が、畑のバランスをくずしてしまって、イノちゃんが入ったと?

む。。。むずかしい。
この現象をどう解釈すればいいのだ?単なる出来事、偶然の一致ですますのは楽でいいんだけど、その背後にある大きな英知を感じずにはいられない。

それにイモを食われてどこかで「うまかったかい?」とイノちゃんが食べているシーンを思い浮かべてほくそ笑んでいる私がいる。なんでだ?これはまるで、自分でパンを作って人にあげて喜んでいるのとおんなじ感覚だ。
やまんばはついに気が狂ったか。


絵:コージーミステリー表紙(めずらしく水彩)

2010年8月4日水曜日

心配して疲れ果てる

朝起きると、私は自分の頭ん中がもろもろの心配事で溢れているのを感じる。起きたと同時にコンピューターが作動するのだ。ソフトはシンパイゴトレーターバージョン10。

このままでいいんだろうか。
いっぱい仕事しなきゃ。
老後はどうなる?
親の面倒は?
庭の木の手入れはほったらかしだ。
ああ畑。。。

などなど、あとからあとから怒濤のごとくあふれてくる心配事。人の頭の中をのぞいてみたら、きっと心配事でいっぱいにちがいない。その心配事の根っこは恐怖から来る。ほんとは今そこにはないのに、先に起こるかもしれない事を考え、ああなったらどうしようと心配するのだ。
それは、そうなる前になんとかしなきゃと思うからだ。でもそうなるかどうかは全く分らない。人はどこで死ぬのか、どこでコケるのか、一秒先はまったくわからないのだ。それなのに、その先の事ばかりを心配する。今この瞬間、心地よい風が吹いているかもしれないのにそれを感じる暇がない。

なんかさ、世の中の風潮って、どっかで
「何かをつねに考えている事がえらい人」
みたいなもんが妙にみんなにインプットされてね?
「風?そんなもん感じている暇があったら、なんか考えろ。考えんでどーする!」
みたいな。なんか策を練っていないと、とんでもない事になってしまうと思い込んでいる。だから転ばぬ先の杖、なんて言葉があるのだ。石橋を叩いて叩いて、またまた叩いて、その先に渡るかどうか考えている間に、叩くのと考えるのに疲れて、そこに座り込んでいるのだ。

「考える事」は言葉で成り立っている。言葉は常に過去のものを考える道具なのだ。どこかで知っているものしか知覚できない。
「なんかさー、言葉にならないものってあるよね~」みたいなものがあるのは知っているが、その言葉にならないものが未知の部分。言葉は既知の分野にあたる。知っている事はすべて過去に属する。自分で体験はしていないけど、本で読んだ事があったり、テレビで見たり、人に聞いたり。けれども自分でじっさいに体験する事は人ともテレビとも本とも違う。ところがそれが言葉にされると、ひとくくりになる。「山」といったら、人によって富士山を思い浮かべる人がいるし、エベレスト山を思う人もいる、はたまた山奥に住むやまんばを思い起こす人も。(そりゃ、わしか)言葉はあまりにも暴力的にじゅっぱひとからげにされてしまうのだ。ちょうど多数決の原理のように。

つまりその過去の記憶の道具によって未来を考えているのだ。よく考えたら、そんなもん考えられるわけないじゃないか。それなのに自分の未来を人の経験や自分の過去の経験に照らし合わせて考えているっちゅう、矛盾を抱えているのだ。

行き着くところ、そこには何の答えもないと言う事じゃなかろうか。不安なのだ。不安を解消するために、先に先に考えている。想像できない未来を想像して、答えの出ない答えを求めて、人々は疲れ果てているのだ。

あー、朝から疲れるのー。

2010年7月30日金曜日

クマの襲われて死んだフリ





きのう、面白い記事を読んだ。
クマにおそわれて、死んだフリして助かった58才のおばちゃんの話だ。

それによると、イエローストーン近くの公園でテントはって寝てたらいきなり腕をかまれた。骨が折れる音がして悲鳴を上げたら、それに怒ってさらに歯を食い込ませて来た。おばちゃんは死んだフリしようと思った。ぬいぐるみの人形のようにすべての筋肉をだらりとさせた。身体をリラックスすると、クマのあごから力が抜けるのが分り、間もなくおばチャンを離して去っていったそうな。

アメリカでクマといったら、グルズリーか?めちゃくちゃおっとろしー話だ。でもこの話は何かすごい大事な事を言っている気がする。おばちゃんが悲鳴をあげたら、それに反応してさらに攻撃を仕掛けて来た。しかし、力を抜いたら攻撃は終わったのだ。おばちゃんは恐怖によって身体がこわばり、それに抵抗する。しかしその抵抗をやめた途端、クマにも攻撃する意識が消えたのだ。
犬もそうだ。悲鳴を上げると総攻撃がはじまる。喧嘩もそうだ。抵抗すると殴りたくなる。ウチのトーちゃんもそうだった。ちょっとでも抵抗すると何度も殴りつけて来る。しかし抵抗しないで力を抜いて殴られるままにすると、一回で終わるのだ。生き物は相手次第で攻撃欲が変わるのではないだろうか。

これはすべての事に通じている気がする。
痛みは抵抗するとなおさら痛みが増す。しかし力を抜いて痛みを冷静に観察していると消えていくのだ。痛いと人はなんとかしなきゃとおもう。そのとききっと身体に力が入っている。からだがこわばって痛みに抵抗を始めるのだ。それは動物的な本能かもしれないが、私はそれは痛みはイケナイことと思い込んでいる教育からも来ている気がする。

先日も友だちがリュウマチにかかった話を聞いて、色々調べていたら、痛みは身体が治している最中なのだという話に出会った。だからその痛みを薬で取り除くのは、治すという方向が違うと。身体はおかしい部分を自力で治そうとしているのだ。それをニンゲンの頭がいろんな事を考えて、痛みを取る方向にだけ向かい、それによってまた身体がバランスを崩し、二重三重の苦しみを自分に与えているのだ。

肩が凝ったら、肩をまわしたり、さすったり、もんだり、いろんな事をする。けどそれも一種の抵抗だ。その痛みがイヤだからなんとかして取り除こうとするのだ。最近、私はそれをやめた。肩が凝ったら、そのままにしておく。もんでも痛さがもっと大きくなるだけなんだもん。肩こりとリュウマチは次元が違いすぎる!と怒られそうだ。でも何でも事の始まりは些細な事からはじまるではないか。それを「うわ〜っ!たいへんだあ〜っ!」って、おおさわぎするから、どんどん事が大きくなっていく。クマに襲われたおばちゃんは、悲鳴を上げたとき、さらにかまれて冷静になった。普通の人だったらもっと大騒ぎして抵抗しまくるだろう。そして今は亡き人になる。

何かが起きた瞬間、どう対処するかによってそこから先の運命が変わっていく。誰でも何か起こったら一瞬ドキッとして抵抗する。しかしそこから先は心の問題なのではないだろうか。こんな事は誰も教育してくれない。そんな教育なんて聞いた事ないが、人はあまりにも自分の心の動きに鈍感だ。この心と言う道具をどう使うかによって、絶対的だと思っているものががらっと変わるとしたら?
日頃から痛みにも不安にも抵抗しないで、心を静める習慣を身につけていると、世の中の事はきっと切り抜けられる事だらけなんではないだろうか。

災難にあったおばちゃんは「クマを恐れてはいない。敬意を持っている」と言った。その言葉に彼女の謙虚な気持ちが表れている。

何でも「死んだ気になってやる」と切り抜けられたりするではないか。たぶんこの死んだ気になってと言うのは、必死になってというのではなく、ホントは力を抜いてしまってということなのではないだろうか。
死んだフリは偉大な行為なのだ。



絵:COOPけんぽ表紙「アサガオの妖精?」

2010年7月29日木曜日

自然発酵種のパン作りに挑戦!

まいうう〜ぱぱさんのウチで、変なものを見つけていた。台所の出窓ではちきれそーに膨らんだペットボトル。。。
なんじゃこりゃ?
さわると爆発しそーなので見なかった事にしていたが、いつ爆発するかと気が気じゃなかった。ある日勇気を出して聞いてみる。
「それ。。なに。。。?」
「ああ、これ?これシソジュース。冷蔵庫に入れずにおいておいたら発酵してるんで毎日こーやって空気を抜いているんだよ。けど、夜になると、ほれ、このとおり」

「飲んでみる?」
「え〜〜〜、飲んだの?」
「いんにゃ。誰かに飲まそうと思って待ってた」
げ。つまり私は飛んで火にいる夏の虫ってやつかい。
「じゃあ一緒にせーの、で飲もう」と、ぱぱさんとおおママさんと三人で怪しい発酵液をお猪口に入れた。せーの、で一気に飲んだのは、さすが、腹の据わったおおママ。ぱぱさんはこのやろ、みんなの様子を見ているだけじゃねえか。私はちびちび飲んだ。
んで、なんとスパークリングなシソジュース!うめえじゃないの!
すげー、さすが自然の力。肥料も農薬も入っていない植物は腐る前に発酵するのだ。
発酵。。。?自然発酵?え?ひょっとしてパンのイースト菌って発酵したやつじゃなかったっけ。そーだ、レーズンを発酵させてもパン作るじゃん。

「そ、それちょっと分けてくれる?」と私。
「いーよ。なんぼでも」

というわけで、次の日にわけもわからず発酵シソジュースをいきなり小麦粉に投入。塩で発酵促すんだよな。と、うろ覚えのまま塩とちょっとの砂糖とレーズンを入れて焼いてみた。
何と、ちょこっとふくれて固めのパンのようなものが焼けちゃったじゃないの。ぱぱさん所にも持っていって「これいける!」
俄然やる気が出て来た。ある雑誌に載っていた記事を見つける。小麦粉はそれ自体が発酵能力を持っている。その力を借りてパンを作るのだ。
はるかメソポタミアの時代、小麦粉をこねて作っていただけの時代に、あるとき発酵という自然の力が働いた。そこからふっくらとしたパンがはじまった。
そう、小麦粉が発酵することからつくるパンはまさにパンそのものなのだ。

その記事は林弘子さんと言う方が書いた記事だった。さっそくアマゾンで検索。しかしすでに廃刊。古本を手に入れる。『秘伝 自然発酵種のパンづくり』と言うタイトル。
まず、発酵に必要な小麦粉は「生きている」小麦粉でなければならない。世に出回っている小麦粉は製粉する時に高温になるので死んでいるという。なので、低温で製粉したものでないと生きていないのだ。ウチには草ぼうぼう畑に出来上がった全く自然な小麦があるではないか。それを使わんでなにを使う!

おおママから借りた手動のコーヒーミルで、キコキコと製粉する。なんとまあ時間のかかる事よ。これもパン作りのためだ。忍耐忍耐。やっと挽いた全粒粉大さじ2杯と大さじ4杯の水を混ぜる。そのまま室温に放置。それを3日続ける。そこまでは生きた小麦を使う。そこから冷蔵庫の野菜室に移し、国内産の小麦粉を継ぎ足し継ぎ足ししながら発酵菌にえさをやり続けるのだ。
さて、ぷすぷすと泡が立ち初めて明らかに発酵を始めている。酸っぱい匂いから麹のような匂いに変化して来る。2、3週間たつ。そろそろ一度味見してみることにしよう。
パン種に少々小麦粉をくわえ、塩を少々加えてフライパンで焼いてみた。どきどき。心なしか膨らんでいる。ぐふふ。いけそー。。。でもまずは味見。
ぱくっ!と口に入れる。
すっぱい!我慢してそしゃくする。口の中にいろんな味が広がり始める。そのうち苦みまで出てきた。酸っぱくって苦い。その他いろんな複雑怪奇な味がする。しかも、なぜかのどを通らない。身体が拒絶している。これはけっこうヤバいかも!

と、いうことで、一回目のパン種作り失敗でした〜。なんでだろー。こりゃおもったよりてごわいかも。


しばらく更新していなかった林弘子さんのブログが更新されていた。娘さんからのものだった。今月25日にお亡くなりになっていたのだ。メールで個人的にパン種の作り方を聞いてみたが返事がなかったはずだった。。
彼女は食物に関するありとあらゆる事に研究に研究を重ねた実験精神旺盛なお人だったようだ。文章にそのアクティブさが溢れていた。この偉大な発酵種を開発してくれた林さんに感謝し、ご冥福をお祈りいたします。ありがとうございました。

さあて、またキコキコとコーヒーミルで小麦を挽き始めますか。

2010年7月25日日曜日

恐怖は人をコントロールする




朝起きて、フルーツを食べ、お茶を飲んで、マックに向かった。口の辺りが変な感覚になる。唇の後ろがしびれて来た。めくってみるとプクーッと腫れ上がっている。みるみるうちにそれは大きくなり、そこだけ麻酔をかけたように感覚がしびれて麻痺して来た。こっ、、これはいったいなんだ?ヘルペス?

あわててもしょうがないので、そのままほっておいた。あれから3時間たつ。ずいぶん小さくなった。しびれの感覚もなくなった。あれはなんだったのだろう?
たぶんここんところの暑さで寝苦しかったし、まだ夏の身体になりきっていないのだろう。どこかが疲れているのを教えてくれていたのかもしれない。

こんなときは、慌てて薬局や病院に駆け込む方がいいのか。そうテレビでは教えてくれる。もしもの時のために、万が一大変な事になったら。あとで後悔しないように、などなど、たくさんのキャッチコピーと一緒に。
人をコントロールする方法ってしってるかい?簡単だ。恐怖を植え付ければいい。なんてひどいことをいうの?つくしちゃん。え、だってそんな事みんな日常茶飯事でやっているじゃん。そうするのがあなたのためだから、とかなんとかいっちゃって。

先日も身体の事に気を使う友だちが教えてくれた。
「つくしちゃん、UVカット使わなきゃダメよ。使わないとこんなことになるのよ」
彼女は肘から先がシミでいっぱいになった腕を見せてくれた。
「え、こんなになるの?手のまわりを何かでおおわなかったの?」
「クリーム塗って、洋服でおおってもこんなになるのよ。あなた気をつけなさい。今は太陽光線がとっても危ないから、どんなにしてもこうなるのよ」
「なんにも塗らないけど、シミにもならないよ」と私。
「それはまだ1年ぐらいしか野良仕事をしてないからよ。私なんか4年だからね」
そこまで野良仕事に精を出しているのかと感心したが、彼女はダンナさんの手伝いをするぐらいだとも言っていた。
しかしUVカットしても布で覆ってもシミになるんだったら、何もしないでもおんなじじゃないだろうか。ひょっとしたら、そのクリームでシミになったのではないかと疑ってしまう。だって、肘から上にはシミは無かったのだ。もし太陽光線でシミができるなら、足にも服でおおわれている身体にもできないといけない事になる。しかし彼女のシミは肘から先だけだった。

人は「気をつけなさい」と言われると、どこかでドキッとする。心がきゅんと小さくなるのを感じた事はないだろうか。反対に「だいじょぶよ。なんとかなるさあ」といわれると、こころがほどける。
実は「悪い事はいわないわ、あなたのためだから」と忠告してくれる言葉の中に二つの意識がある。私は親切ないい人である、と言う自負と、あなたよりしっているという自負。しかしそのもっと下の方に自分のペースに持っていく力があるのだ。
しかしその友だちもまた、「こうでなければいけない。あれしちゃいけない」と、恐怖によって自由をうばわれコントロールされているのだ。

政治が悪い、国が悪い、システムが悪いから私たちは自由がない、この国にコントロールされているのだと思い、この世の不幸を嘆いてもあまりにも漠然としている。それをなんとかしようとするのは、巨大な壁に向かって「コラーっ、倒れろこのやろ」って叫んでいるようなもんだ。

恐怖によるコントロールは、まさに日常の何気ない会話から生まれているのだ。


絵:SFマガジン9月号カットイラスト『トウキョウ=マガイ』

2010年7月24日土曜日

妖怪VSやまんば





ものすごーく暑いので、畑にいくのが恐怖である。近所のおばあちゃんは、草取りに朝4時にいくそうだ。そっか、朝早いと楽なんだ。と、6時に起きる。しかしこのところの夜の蒸し暑さで睡眠もままならない。起きてもほげーっとしている。なんとかムリヤリ7時半に家を出る。
畑で草刈りを開始。もう暑い!ぜんぜんだめじゃーん。死んでまうがなー。
しょうがないので小屋の陰に隠れて乾かしておいた種取りをする。身体がなれて来たのをいい事に、も一回草刈りに挑戦。あかん。もっと温度が上がっている。これはほとんど危険信号。
それにしても草さんはえらいのー。このクソ暑いのに元気だ(いやみ)。

南のフェンス脇に勝手に生えて来た実生のこだまスイカが小さな実をつけ始めた。種取りして苗で育てたものよりも、そこで落ちて育った苗の方が全然強かった。これもサルさまのおかげ。去年そこで食い荒らしてくれたから、そこから種がこぼれたのだ。一番合うところで、ちょうどいいタイミングで植物は育っていくのだろうか。ひょっとしたら時期外れもまた、昆虫に食べてもらうために育つのかもしれない。なんにせよ、それぞれの役割のためにその場所で、そのタイミングで育つのかもしれない。


昨夜、近所の『妖怪』(とわしらが呼んでいるおじさん)が有機農法で育てた野菜をたんまりくれた。わしらの畑になんにも育っていないのを見越して差し入れてくれたのだ。ぷっくり太った加茂ナス、米ナス、白ナス、キュウリ、ゴーヤ、トマト、ジャガイモ!思わず小躍りする。
すると妖怪は、
「文明を信じなさい」といった。
妖怪は、しっかりきっちり有機の肥料を入れ、虫を自然な方法で(?)殺していく、有機農法の達人だ。やまんばの農法は、そこらの山の中の草むらと一緒だという。
「わしらは農耕民族だろ。野人のような事してどーする」
ともいわれた。ニコニコしていうので(いや、元々そういうお顔らしい)、怒られている気がしない。
「野人でいーもん!」
と、やまんばはもらった野菜をゆすりながらたてつく。

別に文明を信用していないわけではないのだ。文明を否定したら、私の仕事がなりたたん。ちゃっかり文明の中で生きているやまんば。
しかし西洋の文明の中で生活してみると、自然と常に対峙する彼ら西洋人の文明に少々(いや、おもいっきり)ギモンを持ったのだ。全的に見ない、目先の事だけを見て、その場限りの方法論を見つけてくる彼らのアイディアの根本的なところに大きなギモンを感じた。その方法論のまま進んでいけば、やがてニンゲンは行き詰まる。(ニンゲンだけが)今、日本はその西洋人が作ってきた道をひた走っている。かつて自然と一体となって自然に耳を傾け、自然とともに生きて来た民族だった日本人。こんな先端の文明社会の中に位置づけられながら、(ま、細かい事は抜きにして)国土の70%前後も自然におおわれている。この信じがたいうまい調節は日本人ならではの感性に違いないのだ。

虫の草も必要だからいる。その中で育つ野菜は自然の姿、野生そのものだ。その野生のパワーをいただく事ほど大胆で贅沢な事はない気がする。
ニンゲンの身体も自然そのもの。汚いからと石けんで洗い、皮膚がぱりぱりするからといって化粧水で補い、油が出るとシャンプーで洗い、ごわごわするといってリンスで補う。虫歯になるといって歯磨き粉を使い、その結果、抜け毛や皮膚病やアレルギーになる。これは野菜に肥料をやって、チッ素過多で虫を呼び、思いあまって農薬かけて、あげくに身体の調子を悪くするのに似ている。
なぜ自然を信じないのか。なぜありのままでいられないのか。なぜ、なんとかしなきゃと思うのか。

しかしだなあ。そうやってぶつぶつ考えたところで、やまんばは、妖怪にその一言も言えないのだ。この気の小ささよ。しかもわしらの畑のナスが長さ3センチなのに、妖怪んちのナスは直径が15センチはある!人は比べて不幸になる。思わず比べて哀しくなる。3センチのナスを持って、「この方法がいーのだ!」と言ったところで説得力まるでなし。

自然の摂理の中で生きると覚悟するには、自然が持っている時間の流れも自分の中に組み込んでいかねばならないのだ。はあ〜。



絵:SFマガジン9月号カットイラスト『トウキョウ=マガイ』

2010年7月21日水曜日

不都合の真実





ニンゲンは自分にとってナニか不都合な事が起こると「何かしなければ!」と行動に移そうとする。しかし待てよ。このナニか不都合な事、と言うのは、ホントに不都合な事、なのか?不都合な事、と思わされているだけなのではないのか?そっから疑ってしまうのがやまんば道なのだ。

女は化粧しなければいけない、髪染めなければいけない、ブラジャーしなければいけない、UVカットしなければいけない、いいにおいしなければいけない、ダイエットしなきゃいけない、云々。なんで男はそれしなくてもいいのだ?ブラジャーも化粧もしないのに、誰にも文句を言われない。

女はほんとにいろんなこまごまとした事をやらなきゃいけない。家の事とか子供の事とか。なのに最近は女性解放(古い?)なんちゃって、女の人も社会で働く。料理掃除洗濯出産子育て。ほんでもって働いて、その上、ブラジャーしなきゃなんないし、おきれいなカッコウしなきゃなんないし、化粧したり落としたり、UVカットしなきゃなんないし、デオドラントしなきゃいけないし、毎月月のものに悩まされるし、付き合いで酒の一杯も飲まなきゃなんないし(これはうれしいけど)。ものすごーく色々やらなきゃイケナイことだらけな訳だ。その点、オヤジは働く、食う、飲む、寝る。時々家庭サービス(あと、時々匂いを気にする)。なんてシンプルなの?お化粧まけで右往左往する事もなく、ブラジャーがあわなくてイライラする事もない。

この差は一体何か?と考えると、要するに私ら女衆が、勝手にこうでなければいけないと決めて来たいわば女衆伝統なのだ。ホントのところは男衆が化粧してくれとも、ブラジャーしてくれとも言ってないのだ。料理洗濯掃除は分担すると言う事で解決することができる(これもまたむずかしいんだけど)。しかし化粧やダイエットやもろもろの事は、私ら女衆が勝手にこうしたい!と思って来た事なのだ。それはなぜかというと、こうすればきれいになる!と思い込んできたこと。いわば自己満足のためなのだ。その自己満足はどっからやって来たかというと、情報から。きらびやかな世界を見せられて「ああ、私もこうなりたい!」と思う、いや思わされる。テレビで髪はこのシャンプーでさらさら〜っといわれれば、「あたしもこんなふうになりたい!」とおもう。
今の時代、女衆はあまりにも心配事が多すぎる。いろんな問題をぜーんぶテーブルの上に広げて、あれもこれも悩み続けているのだ。

女衆はすごい影響力をこの世にもたらす。家で奥さんがふさいでいると、家族全員に影響する。それが広がって社会全体に影響を及ぼす。

不都合なものは暗に外から思わされている。
もうそろそろそんな洗脳から脱出するのだ。ホントにシャンプーでさらさらになるのか?そのおかげでどこかにしわ寄せが来ていないか?子宮に影響を与えていないか?歯磨き粉で内蔵やられていないのか?免疫が落ちるのは過剰な除菌から来るんではないのか?ホントにこの世は太陽光線でシミになるのか?UVカットの商品はホントにUVカットしているのか?そもそも太陽光線は本当に身体に悪いのか?それにニンゲンの皮膚は絶えられないのか?そのUVカット商品でシミができているかもしれないではないか。

やまんばはもっとシンプルに生きたいのだ。自分の匂いも、シワも、シミも、いいではないか。自分の欠点と思わされている(ここ、強調!)ものをそのまんま受け取るのだ。がははと笑ってしまうのだ。明るい心は魅力を放つのだ。その顔にシワやシミがあっても、男衆はホントは気にしない。彼等はどうしようもなく原始時代からその女衆の英知と魅力のパワーに圧倒されつづけているのだ。


絵:つくしのクレイジーマップ:西新宿(歩けねえよ)