先日、心の中の声が随分静かになったことを話したが、
この頃小さな小言が聞こえるようになった。
ふと老後のことを考える(もう老後だけど笑)
ふとお金の心配をする
ふと太ってると思う
痛みに心配する
あの人にあんなこと言っちゃってよかったんだろうか
という風に、かすかな心配事がふっと湧く。
心の声を聴き始めた頃、心の声は爆音だった。
ダメだ!
この能無し!
それ違うだろ!
またやりおった!
なんてひどいやつだ!
全部自分に向けての罵詈雑言だった。
私の中に猛烈な裁判官がいた。
一旦聞こえ始めたら、そいつは四六時中騒いでいた。
徹底的な自己否定。死んでしまえの連呼。
凄まじい罪悪感。地獄のような日々。
コースによって、その声がなぜ存在するのかを教えてもらう。
罪悪感とその声はセットだった。
そしてその先に出口があるのを知る。
自分を責めるには理由があった。
自分の中に信念、考え、概念がたくさんあった。
その概念をもとに自分を責めていたのだ。
それを聖霊に手渡し、一緒に赦し、
少しづつ少しづつ楽になっていく。
爆音がだんだん静かになり、
やがてふっと安息の日が訪れる。
一時的な休息の期間が与えられた後、
また声に気づくようになり、
心の訓練は続く。
責めることによって出てくる感情は、
消えるために出てきたのだと知り、
その都度、出てきてくれたことに感謝する。
また休息の時が訪れ、、、を繰り返す。
けれども確実に軽くなっていく。
そして今小さいけれど、囁く小言を聞いている。
心の声を聞けば聞くほど、感度が良くなっていく。
気がつかないほどの小さな声も聞こえるようになる。
そして思う。
この声はこの世界をリアルにさせている要因なのだと。
体のことを考える。
あ、痛い。。
するとそこから芋づる式に、あらゆる考えが浮かぶ。
ここがこのように痛いということは、
どこそこの骨がこのようになって、
神経にさわるから痛いのだ。
その病名はおそらく〇〇か、〇〇だろう。
いやひょっとするとさらにひどいやつかもしれない。
早く病院に行って調べてもらおう。
いやその前にいい病院かどうか調べないといけない。
下手な病院に行ったら、どんな診断されて、
とんでもないことになるかもしれない。。。
だいたい小言はネガティブなものだ。
何も起こっていないのに、もしこうなったら、
ということを考えて、ゾクゾクする。
その時自分の体というものをはっきりとらえる。
この厄介な代物。。。
このネガティブな感覚によって、この体をリアルに感じるのだ。
だがどこも痛いところがない時、体をあまりリアルに感じていない。
例えば、ぱっと見渡して何も問題が見当たらない時、安堵している。
その時、この世界はぼんやりしている。
しかし心の声が何かを見つけ出してささやく。
「ほら、この問題がまだあるだろう?」
ハッとして、
「あ、やばい!そうだった!あの問題がある。どうにかしなきゃ」
といって、心の芋づる時間が始まり、
この世界とこの体を超リアルにしていくのだ。
もしこの声がなかったらどうなるだろう。
おそらくこの世界は存在していない。
そこまで飛躍しないにしても、
この世界が私を攻撃するものではなくなるだろう。
誰が攻撃しているのか。
自分の中の声である。
誰かを責めろ、
自分を責めろ、
攻撃される前に攻撃だ、
攻撃できなかったら防衛だ。
自分の中から聞こえるので、自分の味方だと信じていた。
だけど聞けば聞くほど、
自分にとって不幸な気分にさせることしか言ってないことに気がつくはずだ。
その声の内容を採用するのをやめてみると、
その声はそれ以降沈黙する。
それに乗ると続くが、それに乗らないと消えていく。
そうやって静かになっていく心に、
もともとあったものが現れてくる。



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