2025年11月17日月曜日

回り燈籠

 

「山越え」より

朝起きる。

心は静かだ。


心がこんなに静かになるなんて、思いもしなかった。


それまでは、朝目が覚めた瞬間から、

その日のやらなければいけないことや漠然とした不安などが津波のように襲ってきて、

爆音の中で、背中を誰かにつっつかれて

闇雲に前のめりに走るような焦燥感に駆られて生きてきた。


3年ぐらい前だったか、目が覚めた時、

3分ぐらい心の声が何もしない時があった。

その沈黙に圧倒された。


その静けさの安堵感に、心が静かになるって

こんなことなのかと驚かされたことがあったが、

その後ゆっくりと、本当にゆっくりと、

気づかれないようにしているかのごとく、心は静かになっていった。


今は思う。

心の声だけが人を不安にさせていたんだと。

心はずっと時間に縛られていた。

今ではなく、未来と過去を行ったり来たりさせていた。


その声を信じて「そうだ。今やらないでどうする。今でしょ!」とか

「何をぼーっとしている!今のうちにやっておかなければ後でどうなるかわからない!」


その声と一緒になって生きてきたことが、

どれほど自分を傷つけて痛めつけてきたことか、今ははっきりとわかる。



業況は何も変わっていない。

相変わらず何の保証もない、その日暮らしの生活。

だけどそれについての将来への不安が消えている。


それよりも未来のことを考えなくなった。

未来、それ自体が妄想だった。


一週間後の未来は、今である。

10年後の未来も、今である。


いつも今でしかない。

しかし明日のために備えることは、今を消している。

今というとてつもない存在をなきものにしている。


それは宝石が目の前にあるのにそれを見ないで、

その先の何もないところばかりを見ているような感じ。






昔、回り燈籠みたいなものあったよね。

蝋燭の光で、くるくる回転する影絵。

その絵の中で時間を追いかけている人影。


それを眺めているうちに自分もその人影になってしまい、時間を追いかける。

でもずっと同じところを回り続けているんだ。

キリのない時間競争。やがて蝋燭は消え、その影絵も止まる。


それが「人生」というものなのかもしれない。


でもそれを見ている存在がいる。

それが本当の私。


回り燈籠の人影は「夢の主人公」。

でもそれを見ているのは、「夢を見ているもの」。


「時間」は、回り燈籠の中にだけある。

回り燈籠を見ている側に、時間は存在しない。


今にいるとは、そういうことなのかもしれない。

一緒に回るのではなく、その回っているものを見ている側。

けしてそれに巻き込まれない。


そこから見る夢の世界はどんなだろう。

きっと美しいに違いない。







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