「え?今更そんなこと言われても。
もしやるなら、72ページ全部レイアウトのやり直しだよ。。。!」
心の中でそう叫んでいた。
だがじっさいの私は黙って聞いていた。
1日預けてチェックを入れてもらって翌日受け取ることになった。
帰り道、頭の中がグルグルする。
やばい。来た。とんでもない直しが。
どうやってあのクレームを拒否しようか。
素人はこれだから困る。。。。
さっきまでの喜びが一気に地獄行き。
人から言われたことはそれが絶対的な法律のように思えて、
「はい。やります」と、必死でそれに合わせるようにやってきた。
警察であった父親の影響で、人のいうことは正しく、私は間違っているので、
言われたことは絶対という法則が私の中にあったからだった。
言われたことをやり、波風を立てずに生きる。
これが私の今まで生きてきた防衛法だった。
それは恐れから自分を守っているだけだった。
でもそれももう限界が来ていた。
そして少しづつ辛かったことを人に吐露するようになってきてから、
私の中の何かが変わってきつつあった。
「明日、私がこの仕事をしてきたことが、
どれだけ辛かったかを正直に話そう。」
人にこれを話すと不機嫌になる。
そう思うことは言わないようにしてきた。
それは愛からではない。
人を恐れの対象としてみている。
人と自分は違い、分離しているという見方だ。
愛は人と自分を一つとしてみる。
しかし正直に自分の想いを伝えるということは、愛を求める叫びだ。
これは相手の考えを変えさせるためでもなければ、相手を説得するためでもない。
今まで言われた通りにやってきたけれど、本当は苦しかったんだというのは、
一見バカなもののすることのように見える。
しかしこれこそが自分を解放する。
「自分に正直になる」ということの意味だ。
奇跡のコースは、この世界を投影だとし、
それは自分の心の現れだから、心を変えることが大切だと教える。
私もそれを実践してきた。
自分の見方や考え方を変えること。
だがそこに落とし穴があった。
黙って何もせずに、心を変えさえすれば、
相手が変わってくれるかもしれないとか、
状況が変わってくれるのではないかと、
密かに期待してやっていやしないか?
自分の中で赦しをしさえしていれば、相手は変わると。
これは相手に罪を見ている状況だ。
相手という存在が私を脅かす。
という考えこそが自我のものだ。
罪、罪悪感、恐れ、自我は同じもの。
相手に脅威を持っていること自体がすでに自我のものの見方だ。
それを心を変えることで変えようとすること自体が、
この自我の世界の中でやっていることだ。
呪術で相手を変えることとなんら変わりはない。
そこに相手はいなかった。
恐る脅威は外になく、私自身が恐れている。
翌日、愛の中でいようと心を決めた。
打ち合わせ中、昨日ついたクレームなど一言もなかった。
ただ粛々と、私が納得のいく訂正だけが求められているだけであった。
コトコトとお湯が湧く石油ストーブの暖かい部屋の中には、
愛だけが満たされていた。
絵:「雨のスギ林」
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