ある時考えた。
毎日同じことの繰り返しじゃないか。
朝起きて、ご飯食べて、仕事して、お昼食べて、仕事して、
晩御飯食べて、お風呂入って、寝る。
朝起きて、ご飯食べて、、、、。
すると心は変化を求める。
変化とは、突然の病かもしれない、事故かもしれない、、。
変化を求めつつ、そこに恐れがあった。
いやいや。恐ろしい変化だけじゃないぞ、いいことの変化もあるじゃないか。
宝くじ当たるかもしれないし、めっちゃいい話が来るかもしれない。
しかしそれも一時的なものだ。
毎日同じことの繰り返しだとしても、変化には変わりない。
徐々に体は衰えていくという変化。
大きな変化か、小さな変化の違いだけで、変化していくことには変わりない。
変化するものは真実ではない。真実は変化しない。
では私はどこを見ればいいのか。
夜空を見ながら、正しい心(聖霊)に聞く。
「あなたはこの世界をどう見ているのですか?私にあなたの見方を教えてください」
目の前の真っ暗な森を見て思う。
これではないのだ。これは常に変化する。
体は変化を捉える道具。
見て、聞いて、匂って、味わって、体の感覚を味わって、そして今考えている。。。
この五感と思考ではないものに心を凝らした。
変化しないもの。。。それを捉える。
不変なるもの。それが真実だ。
それを掴もうとした。
すでにここにある、もうずっとそこにあるものに。
朝目を覚ますと、し。。。ん。。。としてた。
周りの音ではなく、心の中に静けさがあった。
いつもは目を覚ますと心が騒ぎ始めた。
あれをどうやってこうやって。。。
あれはどうする?これからどうなる?
だが代わりに静けさがそこにあった。
体を動かすと腰が痛い。でも恐れがなかった。ただ痛みがあるだけだった。
痛みの恐れは、私が痛いと信じているからだった。
事実はただ痛みがあるだけだった。
正しい心は感覚を通して教えてくれる。
こういうことだと。
私はヒリヒリとしたこの世界にピントを合わせ続けてた。
その世界の中でどうにかして幸せを手に入れようとしてきた。
60を過ぎて体の衰えを知る。
ここから先は右肩上がりにはいけないのだ。ただ下降するだけなのだ。
ゆっくりか急速にか、そのどちらであっても死に向かっていることには変わりはない。
肉体を持って見るこの世界の限界を体感した。
だからこそ、そこではないものに今目を向けられる。
これが若かったらそこまで切羽詰まって向けられなかっただろう、
まだこの世界に未練タラタラだったから。
今、見えてもいないものの大きさを感じている。そこに心を向ける。
その時、この世界にヒリヒリとしたものを感じない。
ピントがそこに合わされていないからだろう。
ただ大きなものにゆだねている。
大きな静けさの中で、何かが躍動している。
見えている世界は、私に何も影響しない。
そこに安堵がある。
絵:「香り」
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