ああ、私は人を全然信用してない!
そう思った時、私が隠し持っている信念を教えられた。
「私は人を信用していない」
という信念を聖霊に渡して、訂正をお願いした。
しかしその後、これって相当根深い信念だよな。
簡単に聖霊に渡して消えていくものなんだろうか?
そもそもこの信用していないというのは全てに通じていて、
元々は一番自分自身を信用していないことなんじゃないか。
これは他の信念と同じレベルじゃないぞ。
聖霊さん、これをどう見ればいいの?
その時、先日一瞬見た光景を思い出した。
目の前に現れている光景は、本当のものじゃないと感じたあの瞬間のことを。
そこで気がついたのだった。
この目の前にあること、
もしくは今頭に描いている人のことを信用していないと思うこと自体が、
私が自我の視点で見ているということだ。
自我は常に裁きの目で見る。
ということは、私は今その自我の知覚の目で見ているわけで、
その目で見ている限り、絶対に人を信頼することなどできない!
であるならば、その視点は使わない。
その見えているものを通り過ぎて、聖霊の視点で見ようと試みる。
聖霊のビジョンは赦しの目。全てを暖かく包み込む心眼。
私は知覚で捉えられる兄弟の姿を通り越して、
その先にある本当のものを捉えようとする。
見るなのか、観るなのか、捉えようとするのか、よくわからない。
しかしその向こう側を見ようとする試みが大事なのだ。
その時、たしかに自我の場所にはまったく立っていないのだから。
そうトライすることによって、
徐々に兄弟が何をやっているのか、どう言ったのか、
などが、だんだん霞み始め、その本質だけに到達する。
それまでの解釈は跡形もなく消え、
そこに喜びと、拡張されて行く愛だけが残った。
絵:「hair」
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