2023年8月26日土曜日

「真の赦し」を考える


 

「真の赦し」についてずっと考えている。



通常の許しは、彼らがやったことに対して、心が広いから許してやるというものだ。

しかしこれは本当に許したことになるのだろうか。

なぜなら、既に罪があると断定した上で許すことは、

つまりなかったことにすることは、できないからだ。

そしてその許しの仕方は、必ず罰を要求する。

それがこの世界の罪と罰のあり方だ。



しかし「真の赦し」とは、本当は彼らが何もしていなかったからこそ、赦すことだ。

このことの意味が、最初は全くわからなかった。しかし徐々に腑に落ちてくる。



実は最初に罪を作り上げたのは私なのだ。


私の心に「罪」を隠し持っているがゆえに、それを兄弟に見る。これを投影という。

自分の中にある信念が、兄弟をそう見る。


原因はこの私の心にある。


罪があるとおもっているから、その形を作り出す。

そしてその形のせいで私は不快だと思っている。

それを外に見て、その外にあるもののせいにしていたのだ。




すべての責任は私にある。

私がそれを作り出したからだ。

でもそれは私には罪があると思っていたからこそ、作り上げたもの。


だからこそ、兄弟のことは一切責めない。

その責めないところにとどまる。


そのとどまった瞬間が、自我から聖霊への視点の転換地点。


聖霊を選ぶ時、「私に罪がある」から、「私に罪はない」へと入れ替わる。


すると罪によって「作られた」原因である形は、罪がないという原因のない状態になり、

形は維持されず消えていく。


これが「彼らが何もしていなかった」というところにたどり着く。



罪があるということが、形を作り上げ、

罪がないということが、形なきものに変えていく。


罪のないものが、どう赦されるというのだろうか。

赦すもクソもない。


こうやって兄弟は解放される。


兄弟を罪という鎖で縛っていたのは他でもないこの私。

その鎖を見ることは、ただ聖霊に渡されるためにある。


私と、兄弟を苦しめ続けていた「有罪」という鎖(闇)は、

「無罪」という光にあたり、消えていく。




絵「coopけんぽ」表紙イラスト






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