「真の赦し」についてずっと考えている。
通常の許しは、彼らがやったことに対して、心が広いから許してやるというものだ。
しかしこれは本当に許したことになるのだろうか。
なぜなら、既に罪があると断定した上で許すことは、
つまりなかったことにすることは、できないからだ。
そしてその許しの仕方は、必ず罰を要求する。
それがこの世界の罪と罰のあり方だ。
しかし「真の赦し」とは、本当は彼らが何もしていなかったからこそ、赦すことだ。
このことの意味が、最初は全くわからなかった。しかし徐々に腑に落ちてくる。
実は最初に罪を作り上げたのは私なのだ。
私の心に「罪」を隠し持っているがゆえに、それを兄弟に見る。これを投影という。
自分の中にある信念が、兄弟をそう見る。
原因はこの私の心にある。
罪があるとおもっているから、その形を作り出す。
そしてその形のせいで私は不快だと思っている。
それを外に見て、その外にあるもののせいにしていたのだ。
すべての責任は私にある。
私がそれを作り出したからだ。
でもそれは私には罪があると思っていたからこそ、作り上げたもの。
だからこそ、兄弟のことは一切責めない。
その責めないところにとどまる。
そのとどまった瞬間が、自我から聖霊への視点の転換地点。
聖霊を選ぶ時、「私に罪がある」から、「私に罪はない」へと入れ替わる。
すると罪によって「作られた」原因である形は、罪がないという原因のない状態になり、
形は維持されず消えていく。
これが「彼らが何もしていなかった」というところにたどり着く。
罪があるということが、形を作り上げ、
罪がないということが、形なきものに変えていく。
罪のないものが、どう赦されるというのだろうか。
赦すもクソもない。
こうやって兄弟は解放される。
兄弟を罪という鎖で縛っていたのは他でもないこの私。
その鎖を見ることは、ただ聖霊に渡されるためにある。
私と、兄弟を苦しめ続けていた「有罪」という鎖(闇)は、
「無罪」という光にあたり、消えていく。
絵「coopけんぽ」表紙イラスト
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