私より1年遅れてコースを学び始めたうちのダンナ。
今まで気がつかなかった自分の罪悪感に触れ始め、かなり苦悩している。
私も「こんな本、見せるんじゃなかった、、、」と思ってしまうほどの凄まじいものだ。
あまりコースの地獄めぐりを書く人はいないのかも知れない。
どちらかというと優しく癒してくれるという印象を与える。
でも実際自分の心の中を見るほどに、自我がいかに私たちを振り回し、問題と苦悩を作り続けてきたことかと思い知らされる。それを完全に信じ切って、その中で必死で戦い続けている。
心の中にある自我の力動を知ることは、人によってそれはゆっくりと、恐れない程度にやってくることもあれば、かなりまとめて一気に押し寄せてくる場合もある。
でもそれはその人が心のどこかでそう願っているからでもあるのだ。
地獄の思いの中で過ごす人を間近で見るのは苦しい。
しかしその姿に対する私の反応は、私自身が持っている信念を否が応でも見せられる。
『彼を病気にさせた分離の感覚を癒すことが、あなたの任務である。
彼が彼自身について信じていることは真実ではないと、
彼に代わって認識することが、あなたが果たすべき機能である』(M、22、6ー7)
目の前に広がっている光景を、どうとらえるか。それが私にかかっている。
苦しみ、怒り、嘆く兄弟を見ている時、これを聖霊はどう見えるのだろう。どう見えますか?
心の中で聞きながらただじっとしていると、あることが起こった。
目の前で大騒ぎをしている兄弟は、本当の兄弟ではないという認識が来た。
それは両手を振り回すただの人影だった。
あぜんとした。なんだこれはと。
私が見ているものは一体何?
私たちの知覚は、なんとはかないニセモノをとらえているのか。
これは彼ではない。
真実の彼はその背後にいる!
その知覚の一瞬の変化を通して、少しづつ、今見えているものを疑いだした。
相変わらず目の前には苦悩する兄弟がいる。
でも私の心に真実はこれではないという確信が徐々に現れてきた。
そして問題が起こるたびに、自分自身が持っている信念に気がつき、
それを聖霊に渡し、訂正をお願いする日々。
兄弟の苦悩が、私を解放へと向かさせてくれるというこの驚くべき導きは一体なんだ。
兄弟を救世主と考える意味をここで身を以て知る。
そうしてだんだんと兄弟の話は真剣に聞くけれど、それを深刻にはとらえない私になっていく。
そして意図せずして私の口から出てくる言葉。
その言葉を通して、彼が何かに気づいていく瞬間に立ち会うダイナミズム。
これはもう、私にはできない機能だ。
動かされるままに、連れていかれるままに、
私はその聖霊の手に乗って行こう。
絵:「山越」
0 件のコメント:
コメントを投稿