2022年8月10日水曜日

絵に描いた餅

 

紙を切って貼った似顔絵/ジュリアロバーツ

まだイラストレーター駆け出しのころ、

ある有名なグラフィックデザイナーにあった。


その時の彼の言葉がずっと私の心に残っていて、

それが後々にまで影響を及ぼし続けた。


「僕らの仕事は、しょせん絵に描いた餅」


確かに、絵に描いた餅は食えない。

私はデザイナーに憧れて力及ばず、イラストレーターになった矢先のこと。


その言葉はこう私に告げていた。

「イラストレーターもデザイナーも架空の儚い仕事」

鼻っぱしをぽきっとおられた。


なんの意味もない架空の仕事を私はやり続けるのか?


心はなんとしてでも地に足がついたことをやりたいと願っていた。


そしてニューヨークのブックオフで見つけた、

福岡正信さんの『自然に還る』の本と出会い。

「これだ!」と思った。


フィラデルフィアにあるオーガニックの農園を訪ねたこともあった。

アメリカではついに土に触れることはなかったが、

そのせめてもの願いは、陶芸作りで少し癒された。


そして日本に帰って約200坪の畑を手にした。

「これで私は架空の仕事から脱出できる。。!」

そう真剣に考えていた。



デザイナーとしての仕事を離れ、

自然を相手にする、もっと地に足をつけた生き方をする何人かの人たちを知っている。

彼らもまたどこか私と同じような空虚感を感じたのかもしれない。



私は架空ではない、絶対的な答えがあるはずだと信じて、大地に触れていった。


しかしその思いはことごとく崩れていく。

人間が自然に関与するということは、その自然自体を破壊していく。

その間の折り合いというものは存在しないようにみえた。


これだけ欲しいと計画立てることを、自然は軽々と裏切っていく。

そしてまた生き物たちとの間でも縄張り争いをすることになった。

網を張り、罠を仕掛け、痛い思いをさせてまでも。


その間の、私の罪悪感という心のせめぎあいの葛藤はますます激しくなった。


ここが最後じゃないのか?

これこそ足が地に着いた仕事なのに、どこが美しいのだ?

単に私は野菜の奪い合いを猿たちとやっているだけではないか。


先日うちに来た、デザイナーをやめて養蜂家になった彼が見せた落ち込みが、

あの時の私の悲しみと重なった。




架空の仕事から脱出できる、最後に見出せる答えだと信じてきたのに、

結局、私はそこにあの言葉の答えは見出せなかった。


この世界にいくら取り組んでも、

それはコロコロと常に変化し、

昨日答えだったものは、今日はもうすでにそれが答えではなくなっている。


結果が全てだと追いかけ、結果が一瞬良くても、

またもっと先にある次の目標に向かって走り続けさせられる。




そして私は気づいた。

この世界自体が「絵に描いた餅」なのだ。


それが色即是空の意味。


それが奇跡のコースのワークブックレッスン1の言葉、

「この部屋の中に(この路上に、この窓の外に、この場所に)

見えているものには、なんの意味もない」のこと。


そのことに気づくために、私はここにいる。



その「絵に描いた餅」の向こうの、

忘れてきた不変のものを思い出すために、

この世界にいる。






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