きのう母に電話した。
いつもよりも声が軽いことに気づく。軽快に話す母。
「どお?調子は」
「ん、変わりないよ。そおねえ、しいていえば前は台所で立ってるのが苦しかったけど、今はいつまでも立ってられるようになった。あとねえ、足の裏がテープ張ったように麻痺してたけど、今は全然ふつうになっちゃった。あ、それから、ふくらはぎの後ろが去年からずっと痛かったのに、それもまったく痛くなくなった」
じゅうぶん変わってるじゃん。
彼女が進行性の難病指定をされてから3年以上たつ。
しかし病状が進行するどころか、回復しつつある。
色んなはなしをしながら、私が最近畑について思っていたことの変化を伝えた時だった。
「あ。。。。」と母。
「なに?」
「あたし、今気がついた。。。あれだ。あのことをやりはじめてから、こんなにカラダが変わってきたんだ。ああ、そうだ。だから声も出せるんだ。今までは声を絞り出すようにしゃべってたのに、今、ほら!ぜんぜんつらくない!すっごい、らく~にしゃべれる!すごい!たったあれだけで?」
「なにやったの?」
「ほら、自分を愛するってやつ!」
先日母に言った私の話。
「何でも愛するって言うのよ。ど~んなに嫌いな自分の部分を見つけても、「そんな自分を愛す!」って言っちゃうのよ。たとえば、歩けない自分を愛す!よたよたしてみっともないかっこうな自分を愛す!身体が痛い自分を愛す!いじわるな自分を愛す。見えはりな自分を愛す!って!」
電話の向こうで
「やるやる!やってみる!」って大笑いしてた母。
彼女はだいたい人の言うことを聞かない。やると言いながらやらない。だから今回もまったく期待していなかった。なのにあれからずっとやっていたようだ。
なんでもかんでも気がつけば、「あ、ありがと。愛す。」ってちょこちょこいっているらしい。
「たったあれだけ?たったあれだけでこんなに変わっているなんて。。。。」
言葉を発するだけでカラダが変化している事実に愕然としているようすだった。
私たちは、自分の思いで流れをせき止めてしまうようだ。
起こった出来事を、
「いいことか、悪いことか」という判断をし
「悪いことは変えなければいけないのだ」と解釈し、
「自分でなんとかしなければ」と行動を起こす。
やまんばの畑もそのように判断解釈し、自分でどうにかしなければ、とやり続けた結果、まったく分らなくなった。
そもそも自分でどうにかできる世界ではなかったのだと気がついたとき、起こった出来事へのいい悪いの判断を手放した。「植物さんのご都合におまかせします~」と手放したとたん、畑がスムーズに動きはじめたのだ。
母も同じではないか。カラダも自然も同じものだ。
母のカラダに起こっている出来事を、「足が思うように動かないことを愛す」ということによって、出来事を受け入れているのだ。それまで彼女は自分でなんとかしなきゃと足をさすったり、もんだり、動け動けと命令したり、恨んだり、なじったり、怒ったり、民間療法であの手この手を使って戦ってきた。
だけどそれは出来事を受け入れてはいなかったのだ。イヤ!絶対にこんな状態じゃイヤ!と、抵抗をし続けた。だが努力も虚しく、ますます歩けなくなっていったのだった。
しかし「愛する」とは、そのまんま受け入れることだ。出来事を文句なしに受け入れる。ウエルカムする。
私たちが勝手に「これはいけないことだ!問題だ!」と判断して、流れていくエネルギーをせき止めていただけなんじゃないか。そのせき止めをやめると、なるようになっていくんじゃないか?本当は、問題など解決しようとしなくていいんじゃないか?
たった一言、「それを愛する」というだけで。
4 件のコメント:
素敵~~!
私もやってみます~!!
やってやってえ〜。
ぜひ、おすすめ!
スゴいねぇ!以前の骨の話といい、お母さんはそういう暗示(?)に対して反応しやすいんでしょうね!
私は素直じゃないから、「愛してる!」って言われると、「あ、ハイハイ・・」ってなっちゃうからね・・・
もともとみんな「暗示」にかかっちゃってるんだから、その暗示を道具として使うって手があるよ!
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