2014年10月13日月曜日

「足りない族」がみつけだす「足りない問題」



私たちは足りない族だ。
「お金が足りない」
「エネルギーが足りない」
「コラーゲンが足りない」
「ハリが足りない」
「収納場所が足りない」
「ギガが足りない」
「肥料が足りない」
「アイディアが足りない」
「愛情が足りない」
「ダンナのやさしさが足りない」
足りないもの祭りじゃあ~っ!


私たちは問題意識を持てと教わってきたので、問題がどこかにころがってないかとむやみに探したがる。(ぼーっとしてるとおこられるしね)
問題が見つかると、解決に向かわねばならないという、これまた次の教えがあるので、その解決方法をさぐる。

でもその解決方法とは、外の何かを探してみてハマりそーなものをはめ込むという、その人オリジナルではなく、どっかのあつらえの既製品をもってくるので、根本的な解決にはならない。

こーして、穴が空いている(とおもわれる)パズルに、他のパズルのピースをムリヤリ当てはめて、
「ぴったしだあー」
と、ほっとする。
しかし間もなく、「なんかへんだ。。。。」
と、居心地の悪さを感じてまた他のピースを探しはじめるのだ。

いやいや。他のパズルじゃ入らんだろう。
自分のを探さんかいっ。

でも、ホントにそのパズルは欠けていたんかい?
ホントにそこ、足りなかったんかい?

何かを探したがっていただけじゃないかい?
自分の中の足りないなにかを。。。



人生のパズルは、ほんとうはその人にピッタリとすべて揃っているんではないだろうか。ないない、足りない足りないとおもったのは、外からのアイディアを拝借したのではないか。誰かがそういうふうに言ってるのをみて、テレビやニュースやネットでみて、自分もそうしなきゃとおもったのではないか。

お金もカラダも家も状況も、その人のままにぴったしある。
その人が本当に必要なものだけが、その必要に応じてやってきている。。。
やまんばは最近そう思うようになってきた。

問題を探そうとするのは、自我のクセだ。自我が自分を実感するために足りないものを探そうと躍起になっているのだ。そのクセに付き合っていると永遠に問題探しに翻弄される。だがその自我に解決する方法は見つけられない。そこからはなれることでしか解決はない。





やまんばが畑の「足りない問題」を解決するために、あらゆる農法を駆使してみたが、いっこうに解決しなかったのはそのためだ。
畑は、場所によって土がちがう。環境もちがう。既製品が入るわけがない。

だから自分のやり方を模索しはじめる。あーでもない、こーでもない。しかし悪くなる一方だった。
へとへとになって、もうお手上げだ。。。もう、ムリ。あたしにゃできない。。。となったとき、なんかのスイッチがおまかせモードに入った。
「植物さんのご都合におまかせしますう~」
野菜が変わりはじめた。


やまんばはずっと、あの土には肥料が足りないとおもっていたのだ。
肥料という概念にとらわれていた。
土そのものに植物を育てる力は足りなくて、肥料を入れないとできないと考えていたのだ。だから草マルチしたり、草をハヤカして草さんの根から、栄養を野菜さんに上げてもらおうとしていたのだ。

これは、化学肥料や有機肥料の「土そのものには野菜を育てる力はなく、栄養が必要だ」という発想とまるで同じではないか。有機肥料や化学肥料をきらっていたくせに、しっかり同じ穴のムジナではないか。それが単に炭素を入れる方法や、草マルチに変わっただけではないか!
「足りない問題」にどっぷりハマっていたのだ。

「ここにはすべてそろっているんだ。。。そうか。そうだったんだ。あたしが勝手に足りないと思っていただけだったんだ。。。!」

庭の木は毎年どんどんでかくなる。山の木は毎年どんどんでかくなる。なにが必要?なにを入れなきゃいけない?なにも。そのままで充足している。

ニンゲンのカラダだって、本当はアレコレ考える必要はないのではないか。アレコレするのが問題の原因だったんではないか。

石けんなし生活がそれを見事に証明してくれている。
すべてが充足している。
その言葉は、今ここにいる自分をまるっと肯定している瞬間なのだろう。



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