カタチをマネる。いわれたとおりにやる。
そうすれば、人と同じように成功するとか、しあわせになれるとおもっている。
だからわたしたちは方法論を探す。さがしてあっちこっちする。
けどなかなかぴったりくるもんがない。
カモの親子のよーに、この世を生きるにはマネをすることから始まる。だけどオトナになってもひたすらまねることしかしない。
これは学校で先生の言うとおりにすると点数をもらえたり、誰かの言ったとおりにやればほめられたりしたからだ。
だからこの習慣は意識しないかぎり抜けない。
これさえやっておけば、だいじょうぶ、とか、
この薬さえ飲んでおけばだいじょうぶ、とか、
あれさえやらなきゃだいじょうぶ、とかの問題ではない。
オトナになった私たちがすることは、理解することだ。
どうして私はこれにイライラするのだろう。
どうして私はこのことを心配するのだろう。
どうしてこのことを思い出すたびに動揺するのだろう。
どうして落ち込むのだろう。
どうして悲しいのだろう。
どうしてくやしいのだろう。
どうしてきらいなのだろう。
どうして。。。
そういう自分を見ないようにして、何か外の方法論にたよるのは、みんなさんざんやってきた。あれをやめてみたり、これをつけたしてみたり。
だけどまた行き詰まってきたんじゃないだろうか。結局ちょっと変化したぐらいで、また何となくフリダシに戻ってないだろうか。
外にあるものや人を変えようとしたり、外にある方法論を見つけてきたり。。。そんなことはもう時間のムダのようだ。
どっちにしろ、私たちは自分の中にある、気に入らないものをどうしようもなく見つめ観察し、理解することでしか、自分を救えない。
自分のイヤな部分を見るのは怖いこと。ジャッジの気持ちが全面に出てくるから。だけどただ見る。不快な気分が襲ってくるのをそのままにして、その不快の中にいる。その時間をもつ。逃げない。何かで覆い隠そうとしない。気分を他に変えたりしない。ただいる。そこにいつづける。全身でその不快を味わう。
するとふと何かがやって来る。それは小さな気づき。
「あ。。。」と。
それはホントに小さなもの。
その小さな声に耳を傾けていよう。聞こうとしよう。
それはあなた自身の内側からやってくる声。
きっと固くなっていたこころが、ホニャ?っとゆるむ瞬間。
それは外の誰におそわるでもない、あなただけにむけられたことば。
あなたは自分で知っている。
誰に聞かなくても。
4 件のコメント:
誰からも嫌われないようにする!ということを止められれば、楽になるんでしょうね。
敢えて嫌われる必要はないけれど、誰だって好きな人も嫌いな人がいるのは仕方ない!って思えば、いいんではないか。と思います。それに、嫌い、ったって、頭の先から尻尾の先まで大嫌い!っていうひともあまりいないでしょうし。嫌われても気にしない!マイペンライ!
だれだって、すききらいはあるさ〜。
「誰からもきらわれないようにする」自分を止めるっていうのは、自分のおもいを否定しちゃうことになる。
そんな自分も否定せず、うけとめるってのはどお?
だれかをきらっている自分を愛す。
だれかにきらわれるかも〜って、気にしている自分をも愛す。
それでもいいね。
とにかく蟻のパパ・・じゃない・・ママで!
そういうのも蟻のパパで!(笑)
このさい、どんな自分も愛しちゃおう。
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