2011年1月10日月曜日
神はどこにでもいる
今日は町内会のご神事。私はこのご神事の時間が大好きだった。村にある小さなほこらに村人が集まる。神主さんがやって来て山の神のほこらの前で祝詞をあげる。時間が時空を超えて現代がなくなる。村人と山の神が一体になったようなしんとした時間。ピンと張りつめた静かな信仰がその中に広がる。
ニューヨークから帰って来て、いきなりこの慣習に入り込んだ時、私はショックを受けた。今の時代、まだこんな時間があったのかと。それから私にとってこのご神事は大事なひとときだった。
だが、今年はいかない。私の中で変化があったからだ。
高さ1メートルにも満たない小さな石のほこらの中にはご神体がある。それは木。山の神さまの化身である。この村は山とは切っても切れない関係。村人は遠い昔から山から恩恵を受けて来た。食材や燃料、家の木材、狩猟、そして清らかな水。そういった生活の諸々、そして山の神は人々の生活を精神的に支えてくれる大事な存在。その神に感謝とこれから一年の安泰をお願いするのだ。
神は畏怖するものである。
山の作業には危険が伴う。いつ何時何が起こるかわからない。死とは隣り合わせ。その恐怖を山の神さまに守っていただく。
私たちは安泰を望む。その望みの後ろにはつねに恐怖がある。いつ何時何が起こるかわからない恐怖。その恐怖の保険に信仰はあるのだとしたら。。。
じっさいほこらの中に神様がいて、拝んだ人を守ってくれるのかもしれないとすると、神様は
「拝んだ人は守ってやるが、拝まなかった人は守ってやらない」
ということになるのか?人もまた、
「拝まないと守ってくれない」
と思っているのかもしれない。
と、いうことはそこには取引がある。こうしないとこうしてくれないという神との取引が。神様はそんなにちっぽけなもんなのだろうか。それはお駄賃やるから、家の掃除しろというのと似てないか?
掃除はきれいになったらうれしいからやるもんで、金もらうからやることとは違う。そんな方法で子供を育てたら、すべての行動を取引でもって動く人間になってしまわないだろうか。
恐怖も神も自分の外にあるものだと思っている私たちがいる。事故は突然外からやってくるもので、それを回避するために外にいる神に祈る。その事件も神様が起こしているとおもうふしがある。だから私たちは神様のご機嫌を伺う。ご神事をちゃんとやらないと、神様が怒るとも信じている。と、いうことは、神様は怖いものである。ご機嫌を取らないと変なことが起こるかもしれない。だから年の初めにはお供物をたんと捧げ、祝詞をあげ、村人の健康を願い、神様の怒りを静める。
私はこの日本人の信仰のカタチが美しいと思う反面、その後ろに恐怖による自分自身の縛り付けを見る。ちゃんとしなきゃ病は人間にはびこっている。ちゃんとしないと何かが起こるという恐怖がべったりと張り付いているのだ。私はこの両面の極端さに翻弄されてしまう。
どっちをとればいいのだ?
私はこう考えた。
ご神事に出なくても、神はちゃんといる。それは畑の中に、空気の中に、私の中に。山で仕事をするにも、心が騒がず意識が澄んでいれば、何か起こるときとっさに気がつくはずだ。もし何かが起こった時は、それはその人にたいするメッセージなのだ。そして自分がやったことをジャッジせず、その事実を静かに受け取ることができれば、それが神なのではないか。
神はこの世のすべての中に浸透している。それはほこらの中だけにはいない。祈る神主さんにも、コウベをたれて祝詞を聴く村人にも、ほこらの上にそびえ立つイチョウの木にも、それを取り囲む空気の中にも神はいる。クラブで懇親会の準備をしている人々にも神はいる。お料理の中にも神はいる。すべてのなかにそれはあるのだ。ただそれにつねに気がついているだけでいいのだ。
そう考えると、神は外に向かって拝むものではないのかもしれない。すべてが生きていることを肌で感じていることが、信仰なのではないか。そんなふうに思ったからだ。今年初めてご神事に出ない。このことが自分に何をもたらすのか、観察してみようと思う。
絵:「働かないアリに意義がある」売れてます!
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2 件のコメント:
一神教でない事の良さですよね。
曖昧だけど、どんな奴でも必ず救われる
(可能性があり)っていういいかげんさが
いいですね。
自分の神様に執着しすぎると、戦争になり
がちですしね。
日本は八百万の神ですもんね。
ホントは懐の大きい民族なわけで、その大きさというか、いい加減さを、この時代ぞんぶんに発揮したいもんですよね。
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