2011年1月31日月曜日
先生、人のマネさせるな!
私らが学生だった頃、校庭のどこかに二宮金次郎の銅像があった。今はどうなっているのかなあ?
あの人は勤勉の象徴みたいにあがめられていた。
「皆さん!金次郎のように一生懸命勉強すれば、彼のように素晴らしい人生がおくれます!」
と先生は言った(か、どうかはおぼえていない。しかしその銅像はどう見ても私たち子供たちに「あのようになれ」と強制、いや半ば脅迫しているように見えた)
考えたら、おかしな話じゃないか。二宮金次郎さんがやったことは、二宮金次郎さんにしかできなかったことだ。薪を背負って本読みながら歩いたら、危ないじゃないか。どぶに落っこちたらどーする。電柱にぶつかったらどーする!(もっと危ないこともあるような気がするが)
そう。私たちは絶えず自分ではない誰かになれ、と言われ続けているのだ。
クラスでいい成績をとったA君。みんなの前で名指しでほめられる。
「みなさん!皆さんもがんばったらA君のように一番になれます!」
んなわけないではないか。みんながA君のようにがんばっても、全員が一番になれるわけない。一番は一人だ。なりたい奴だけなりゃいい。わたしはゆずってあげよう。(ビリじゃダメですか?)
そこんところ、先生ははき違えている。A君も金次郎君も、A君と金次郎君にしかできなかったことで、ほかのB君や銀次郎君にはさっぱりできないことなのだ。なぜか。人が違うから。こんな単純なことがなんでわからないのだ?生まれた腹も家もDNAもなーんにもちがうのだ。考え方からして違う。違う考え方の人がいくら薪しょって本ひらいても、ぐらぐらして字が読めないではないか(そこかい)。
例えば、金次郎君は,B君ができる腹芸ができなかったかもしれないではないか。もしも先生が算数の成績よりも、腹芸の方を評価していたら、金次郎君は今頃学校の校庭にはいない。
この世の最大の不幸は、つねに自分でない誰かのマネをしろと言われ、そうするもんだと思い込まされてることだ。私たちがつねに夢や理想の姿を追い求めるのは、そういった、がっちがちに刷り込まれた評価基準なのだ。(前例主義といってもいい)
カタチだけマネしても、それを自分で開発して始めた人とは違う。せんせーは人をなんだとおもっちょるのか。機械ではないぞ。金太郎あめではないぞ。そんなもんできなくて当たり前なのに、できないことを悔やませられ、お手本になるものに恐れおののかされ、そして結果的に自分自身を嫌うはめになってしまう。なんつー残酷なこと刷り込むんじゃ、われ。
自分の道は自分で作り上げる完全にオリジナルな道なのだ。それをするには、まず自分自身を知らなければいけない。ところが人が何よりも恐れることは、自分自身のありのままの姿を見ることなのだ!
絵「ポピー」表紙/こたつねこ
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2 件のコメント:
Only oneになればいい。という言葉もありましたね。タケちゃんは、みんなもともとOnly oneなのだから、それはおかしい!と言ってたかと思いますが、人まね教育では、そもそもOnly oneにすらなれない。ということですね。
別な見方をすると、右にならえ!をさせておいた方が、コントロールしやすいってことでしょうね。そののりで、人まねしておけ!といっておいたら、前例どおり事が進むと信じてらっしゃるのかもしれません。しかし現実はしっちゃかめっちゃか。そろそろここら辺で、人はコントロールできないって気がつきゃあいいのにね。
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