2017年6月28日水曜日

植物の味の振り幅ったら!


夕方5時になるとビールを飲む。
「麦汁プッシューっ!」てね。
その時つまみに食べる畑の野菜が最高においしい。

畑からとって来たばかりの野菜をそのままで、ゆがいて、蒸して、時には揚げて。
シンプルにお塩かマヨネーズで頂く。
口に入れた瞬間、フワーーッと広がる触感と美味しさ。噛めば噛むほど、どんどん味わいが深くなる。それが消えるか消えないかというビミョーなタイミングで、麦汁を流し込むのだ。
プワーっ!極楽極楽っ!

そのたびに思うんだ。植物って、なんていろんな味があるんだろって。
こうして文字で書きおこすことなんかできない、ありとあらゆる味。

 スナップエンドウとソラマメ

 ノカンゾウとノビル

 梅酒

 きんぴらごぼう


キュウリの味。トマトの味。ピーマンの味。スナップエンドウの味。ソラマメの味。ジャガイモの味。
そういうだけで、口の中がその味を再現する。

同じ豆科の植物だけでも、それぞれがまったくちがう味を出している。スナップエンドウ、ソラマメ、枝豆、落花生、インゲン、絹さや、グリーンピース、えんどう、、、、
ほらね?それぞれがまったくちがう味!

ナス科の植物にいたっては、ナスの味、ジャガイモの味、ピーマンの味、トマトの味。。。ぜんぜんちがうでしょ?
なのに、なんでそれぞれがおいしいの???それがとっても不思議!

5時の麦汁タイムは、かれらの味のちがい、そして美味しさのちがいを、たっぷり堪能させてもらっている時間なのだ。

ちっちゃな蒸し器で蒸した、ちっちゃなじゃがいも。アツアツの皮をつるっとむいて、ホクホクのじゃがいもさんを、ちょこっとお塩をつけてほおばる。

ジャガイモの素揚げ

よろこびが口の中に広がり、身体と心がよろこぶ。それも一個一個食べる度にやってくる驚きとよろこび。ソラマメなんか、もう悶絶してしまう。

それに比べて(比べちゃ失礼だが)、お肉さんたちの味の種類の少なさよ。豚さん、牛さん、ニワトリさん。。。それぞれの味の振り幅のちがいはたいしてない。(角度でいうなら30度くらい?w)
お魚さんたちはまだその味の幅は広いが(魚角度60度)、野菜さんたちの振り幅の広さは、お肉さんや魚さんのレベルを越えている。まさに360度か?!(どーゆー基準やねん)

こんなにもたくさんの「味」を生み出してくれているかれらに感謝します。

今日も地球の真ん中でお礼を叫ぶ。

「ありがとう!」



絵:「うんちく居酒屋」MF新書表紙イラスト

2017年6月25日日曜日

こびりついていたものは。。。。。


えーと。
今日のお話は、お食事中の方はご遠慮ください。



きのう、昼間に玄関の階段に水たまりを見つける。
「アレ?雨でもないのに、なぜここに?」

それから、夕方畑の野菜を洗ったのち、玄関に出ると、またもや同じ所に水たまりが。。。。
「げ!なんで?」

目の前には、可憐に咲いたドクダミの花たち。よくみるとその足元にみずたまりが。。。

きれいだなードクダミちゃん。。。。といっているばあいではない!のこぎりガマを持って来て、鬼の気持ちになってわしわし切っていった。


元気いっぱい咲いてくれていたのは、あれのせい?


そして水の出場所をさぐって行くと。。。。ある一カ所が水たまりに。土の下をまさぐると、「おすい」とかかれたプラスティックのフタ。。。(あちゃー。。)

再び台所に行って水を出す。
フタについた3つの穴から噴水のよーに、水が溢れ出しているではないかーーーー。

先日、漏水で工事したばかり。築30年を越えると、あっちゃこっちゃ、不具合がでるのか?とおもいつつ、先日お世話になった業者さんにアポを取る。月曜日の午後来てくれることになった。しかしそれまで台所が一切使えない。。。

その夜も洗面所でお皿を洗う。震災時の人々の苦労をしのぶ。
「こんなもんじゃないよなー。。。」
普通に水が出て、普通に排水処理ができる便利さを思う。



翌朝、ふと思い立ち、おそるおそる3つの穴が開いた「おすい」のフタを開ける。。。。
じゃじゃーん。タップタプの汚水ーーー♥

ダンナが木の棒でぐちゃぐちゃやってみる。一瞬水が下がった。
「お?」
こりゃ、なにかがたまっているかもしれない。。。とおもったわたしは、
勇気をフリシボって、その汚水の中に手を突っ込んだ。

。。。。何やら、えたいの知れない物体が手に触れた。そこになにかわからないカタチのものが存在している。。。。
むんずとつかんで、持ち上げた。

それは白い塊だった。
なにこれ?
それから何度も手を突っ込んでは、それをすこしずつはがしていった。
だんだん意味が分かって来た。
これは小麦粉だ。。。

3、4年前、私はパン作りにこっていて、毎日のように小麦粉を使っていた。作業中に出るべちょべちょの小麦を、気前よく流していたのだ。あるときネットで記事を読む。パン作りの時、排水管がつまるから小麦粉をシンクに流さないようにと。それからできるだけ流さないようにしてきたのだが、それがたまりにたまって、こんな所でカタマリになって排水をふさいでいたのだった。。。。
どこが築30年の不具合やねん。自分でまいた種じゃねえか。

それからダンナと二人、這いつくばって約30分。排水管にこびりついた、固い固い小麦粉のかたまりと格闘。
手を突っ込める範囲でこそぎ落としたが、排水管全部は無理だ。でももう水が滞ることはなくなった。


しかし。。
排水管って、臭いのねん。
あれそっくり。
温泉のイオウ臭そっくり!

何かね。ありとあらゆるものが混ざると、温泉臭になるんかね。
じゃあ、あの温泉のにおいは、ありとあらゆるものの集合臭なのか。。。?
汚水につかったら、健康になったりして????(んなわけねーだろ)


自分でつかったもののために、ふんづまったものを、自分でトル。
何だか、何をか言わんや。
心の中にこびりついたものを、自分でとってる。。。そんな感じがしたな。

非二元流にいうと、
「起こることが起こっている」
それだけ聞くと、なんか突き放されたような冷たい感じがする。

だけどもうひとつ付け加えるなら、
起こることは、その人にとって、一番いいタイミングで『恩寵』としてやってくるんじゃないだろうか。

工事の人が月曜日だったからこそ、私は動いたんかもしれん。だから月曜日だったし、だからこそ、私の「ふと」が動いた。

すべては恩寵。。。
たとえ、そのとき「え~~~?」っておもうような、不快なことであっても。

そうおもうと、いろんなことをそのまま受け取れるようになれるかもしれん。

長くなりました。


絵:「こんなに厳しい!世界の校則」MF新書/表紙イラスト

2017年6月21日水曜日

土佐和紙で作品

家の庭に咲いたホタルブクロとドクダミ。


先日、高知に帰った時、土佐和紙を大量に購入してきた。
地元出身の人間としては、これほど豊かな和紙の種類があることがうれしい。

ずっと洋紙だけを使って来て、和紙だけはなぜかアンタッチャブルにして来た。でももうそろそろ触ってもいいだろうと思い、材料に和紙をくわえはじめたのが3年前。今は、和紙だけで制作したい!という思いが強い。
なんという変わりようだ(笑)。

色合い、手触り、その存在感。
ただ紙を置くだけで作品になりそうなかれらを、切ったり、ちぎったりして組み合わせる。
その偶然の出会いが作り上げる優美な世界。
自分の知らなかった自分の内面を見るように、紙の新たな世界を垣間みる。


玄関の脇に大量に咲くドクダミとススキ。

それ、なくてもいいんじゃね?

これ、なくてもいいんじゃないか?
あれ、なくてもいいんじゃないか?
そーやって、石けんもやめ、シャンプーリンスもやめ、歯磨き粉もやめ(ほんのチビット使ってるけど)、
農薬もやめ、肥料もやめていった。
ついでに心の中の
これ、なくてもいいんじゃないか?
あれ、なくてもいいんじゃないか?
もやっている。
そのチャレンジの途中、私たちはいろんな「やらなければいけない」ものや、事柄でがんじがらめになっているのを見る。
そのがんじがらめは、意識的に自分ではずすことができる。
必要に迫られているものは、
だんだん減って行き、
だんだん軽くなる。
必要に迫られている、と思っているだけだ。

え?麦汁?
アレは必要に迫られてるさー(笑)。
🤣

2017年6月19日月曜日

怒りという言葉に囚われる

夜、怒りが込み上げた。
ソファに座って、自分の怒りを見る。
怒りと同時に、哀しみもおそってくる。
言葉にとらわれずに、ただ身体の感覚だけにフォーカスする。
すると、胸のあたりに、ぎゅーっと、何かを絞るような感覚がある。
私はそれを見た。
すると、そこには、怒りも哀しみもなかった。
ただ、胸のあたりに、タオルを絞るようなぎゅーっと内側に回転するエネルギーだけがあった。
それを感じているとき、怒りも哀しみもなかった。ただ、エネルギーだけがあった。
感情と言葉は連結している。
言葉があるから感情が呼び起こされる。感情が呼び起こされるから、言葉がもっと大きくなる。
感情はさらにリアルになって行く。
しかしいったん、カラダにかんじる感覚だけにフォーカスすると、そこに怒りも哀しみもないことを知る。
感情など、そこにはない。
ネガティブも、ポジティブも、ない。
ただ、うねりがあるだけだった。

2017年6月17日土曜日

絶対神「母」


母に最近の私の作品を見せる。

「これはもっと重くしないと」
「ここがまだ足らん。もっと色を足して、存在感を出さんと」
「うん。これはえい」
手厳しい母の言葉を聞きながら、

『あー。これかー。私がずっと心でしゃべっていたものは。。。』
と気づく。

延々と続く辛らつな母の感想に、私は何だか可笑しくなって来た。
「ほんなら、これは?」
「うん。これは、ここがあーでこーで。。。」
思った通りに反応が返ってくる。

彼女の感想は、彼女の感性の幅の狭さをみせた。
考えてみれば、私は絵を職業にして30年たっている。彼女よりももっと広い世界を見てきた。彼女の感性を越えたもの、もっと自由な感覚をすでに身に付けていたのに。
わたしは自分の絵の基準を、必死で彼女の基準にあわせようとしていたのだ。

その時、私は彼女の絵の感性の塀を越えた。
高い高い塀だと思っていた。天にも届くほどの高い塀を私は越えねばならないとおもっていた。
56年経って、やっとそれがとても低いものだったと気がつく。ひょいって一足でまたげるほどの。わたしは這いつくばって、それを越えようとしていた。


この世に生まれて来て、一番最初に自分という存在を意識させられるのが、はじめての他者、母親という存在だ。

いわば、母は子供にとって「神」だ。絶対神だ。この世で生きるルールをその神から教わる。
人は最初に聞いたものを鵜呑みにする。「そーなんだー。あーそーなんだー」と。それを基準にこの世を生きはじめる。
この世に批判的な母のもとに育つと、同じようにこの世に批判的になる。被害者的な母の元に育つと、たいてい被害者的な気分になる。

私はいろんなことに批判的な母の元に育った。それは他者を批判するのと同時に、自分をも批判をする。美意識が高いと、美意識が高いがゆえに、自分を「まだ足らない」と批判し、お尻を叩くのだ。
母の声は、いつのまにか、私の声になり、自分を非難し、お尻を叩き続けていたのだ。
もっと!だめ!そんなんじゃ!と。

彼女もまた、自分の中にある美意識がゆえにわきあがる、自分自身への非難の声に、今もさらされている。


自分の中にわき上がる声を聴く。
たいてい同じ言葉だ。
同じカセットテープが、ただ再生され続けている。
それはいかにも自分にとってためになること、効果があることのように歌う。
だけどそれはテレビの宣伝広告の文句とたいして変わらない。何一つ本質をつかない。それに乗ると、ただ右往左往させられるだけのことだ。

わたしはずーっと、それに乗っかって来たのだなあ。

母親を越えるって、たいへんなことやな。
いわば自分があがめている絶対神を踏み越えることになる。

踏み越えたろ(笑)。


絵:「夏」/樹シリーズ/和紙、水彩、オイルパステル



2017年6月12日月曜日

母への思いと美しい風景


高知に帰って、母を仁淀川のそばにある宿泊施設に、なれない車の運転をして連れて行った。

ここは父方の墓がある所のすぐ近く。小さい頃、両親につれられて山の中腹にある墓参りによく来ていた。今でこそ「仁淀ブルー」と仁淀川の蒼い川が有名になったが、そのころはただの広い川。それでもその川の美しさは幼い私の心を引きつけていた。

フルコースのおいしいフレンチを食べ、母の車いすを押しながら、外に出る。街灯も何もない漆黒の闇にくっきりとうかびあがる稜線。
「うわあ~。きれいねえ、かーちゃん!」
いつも家で見ている、ちょろい高尾山の稜線とは比べものにならない雄大な景色にみとれていた。
「こわい。。。はよう中へ入ろう。。」


高知に帰ると、私は母を少し外に連れ出す。
その時は車いすを使う。帰るたびに歩けなくなって行く母を見る。
彼女は放っておくと、一切外に出ない人なのだ。内臓も骨も筋肉もどこも悪くない。彼女の外に出たくない、歩きたくない思いが、彼女の身体を萎縮させて行く。それが形になって現れていた。

自分が自分の思考や感情を見ることによって、いろんな気づきをえて楽になって来たこともあり、彼女にありとあらゆる方向から話しをする。
しかし、こう言う考えもあるよといえば、
「ほいたら、そうせんといかんがよね」という。
「いや、そうせんといかんがやのうて、そういう別の視点ももってみるってこと」というと、
「ほんなら、そうせんといかんがよね」という。

すべてが「ねばならない」「そうすべき」という、強制的にやらなければいけないのだという発想になってしまう。
きっと彼女は小さい時からそうやって、べきべきの中で、自分を無理矢理押し込めて、べきべきの中で生きて来たのだ。その、どこか「イヤイヤ」な気分でやって来たことの結果が、「なにもしたくない」という今の彼女につながっているのだろう。

いや。私だってそうだ。つい最近まで、その中にいたが、意識化することによって、そのべきべきは消えていきつつあるだけのはなしだ。


彼女の葛藤、私の子供としての彼女への思いの葛藤、ありとあらゆる思いが洪水のように押し寄せて来た。ふとんに入っても、一睡もできない。意識は隣で寝ている母に注がれる。寝息を立てる母。寝返りを打つ母。「暑い。。。」といって顔をしかめる母。トイレに立つ母。。。
介護をする人は、こういう風につねに意識が人に注がれているのだろうな。どれだけ心身を使うことか。

明日もなれない運転をする。早く寝ないと。。。という思いとは裏腹に、どんどん眼が冴える。
私は観念した。
全身で今の感情を味わいつくそうと思った。
そして一晩中起きていた。


早朝、ひとり仁淀川におりる。
丸くゴロゴロした石の上を歩く。川幅は広いが、河川敷も広い。やっとのことで水際に来た。湖面のように静かな水面が、山の風景を逆さまに写している。にじんだような緑の色が私の制作欲に火をつける。

所々に、水の輪がある。なんだろう?とみてみると、ふいに何かが飛び跳ねた。つづけさまに、あちこちから、何かが飛び跳ねる。よく見ると小魚が飛んでいた。あゆだ。緑色の湖面の舞台で、小さなあゆたちがダンスを披露してくれた。

夕べの思いがグッと持ち上がってくる。
深くて静かな哀しみをバックに、目の前にひろがる美しい世界。
私はドラマの一シーンの中にいた。

かなしさも美しさも、すべてひっくるめて、この世は美しいな。。。

そう、ひとごとのようにおもえた。


 絵:「田舎の家のたたみ方」/MF新書表紙イラスト