2014年8月14日木曜日

今年の夏野菜さんざん



今年の夏野菜はさんざんだ。
キュウリ、ズッキーニ、ししとう、オクラ、ジャガイモ、ピーマン、トウモロコシ、ゴーヤ、まるでとれない。わはは~。

キュウリは、さいしょとれていたが、水不足のせいなのか、あっというまにかれはじめ、実はつかなくなった。

ズッキーニは図体はでかくなっていって、雄花が咲き始めたが、雌花がまったくさかず、やっとこのごろ少しだけ咲いたかと思うと、うまく受粉できず実は枯れていく。

八丈オクラは、いつもなら背丈が2メートル近くなってたわわに実をつけるはずが、その背丈、30センチにもみたない。実もなかなかつかない。

ジャガイモは、近所のオヤジのアイディアを採用して、土寄せをせずにすむように深植えしてみたが、実は一個の種芋に、一個しかつかなかった。

トウモロコシも背丈が低い。50センチにもならない。その根元に、かろうじて小さな実が地面すれすれについている。すごい。こんなトウモロコシみたことない。考えてみれば、それでも実をつけようと頑張ってくれている姿に感動する。

シシトウとピーマンの根元にコンパニオンプランツとしてラッカセイを植えた。豆科の植物は窒素を固定してくれるから、夏野菜にはもってこいのはずだった。しかし今ラッカセイはものすごいいきおいで葉がしげり、しかし花はほとんど咲いていない。これはいわゆるツルボケ?チッ素過多?そしてシシトウもピーマンもほとんど実がならない。わはは~。

ゴーヤも順調に育っていたが、花は咲くのに、かんじんの実がまったくつかない。かろうじて今5センチのちっこいゴーヤがいる。だけどこれが育つかどーかは知らない。

ゆいいつ、トマトが順調だ。毎日まっかなのがいっぱいとれる。乾燥地帯が原産地のトマト。やはり今年は水不足なのだろうか。

ナスは、基本まったくとれないウチの畑にしては、すこ~しづつとれている。


無肥料栽培6年目にして、ほぼ何もとれない状態にまでいたった。メヒシバとイヌコロ草が生い茂る畑でぼーぜんとするやまんばであった。

2014年8月11日月曜日

ちゃうちゃう。チャウチャウちゃう。



自分の中から「否定」がだんだん消えていくと、外からの否定も消えていくのに気がついた。

自分のいたらなさにぶちぶち言う。
テレビに向かってぶちぶち言う。
だれかさんに向かってぶちぶち言う。
ことばにしなくても、なんとな~く心の中でたえず「否定」は生まれている。

否定はいっしゅん自我を活性化する。
「あたし、否定できるぐらいイケてるぜ。」
と、高みに立つことができる。

だけどそれだけである。
そんときフフフンっていい気分になる。でもそれが消えると、またどこかに否定できるものを探す。ネット見て、他人を見て、自分の行為を見て、また否定する。

外への否定は知恵のある自分(とおもいこんでいる)をみつけられるし、自分への否定は、少しでもよくしようと努力している自分を見つけることができる、とおもいこんでいるだけであった。

これは、自我がよろこぶ趣味であった。
ちっとも前に進まないのである。延々と同じことをくりかえしているだけであった。人と自分をくらべて自分をなぐさめたり、けなしたり、悦にいったり、あわてたり。ただそれだけだった。
これって創造的なもんじゃないやんけ。

ところがこのことに気がついて、否定したりぶちぶち文句をいっている自分をみつけはじめる。でてくるわ、でてくるわ。おおっ、ここにも!あっ、あそこにも!すげー否定のオンパレード!

で、今度は自分の否定を監視しはじめる。
「あっ、また否定しちまった!ヤバい!否定をヤメよう。。。」
なんてね。
これって、また元のもくあみ。
否定を、否定しているのだ!
わははは~~~っ!おんなじやんけ!

ちゃうちゃう。チャウチャウちゃう。(古い?)

否定している自分に気がついている。ただそれだけ。
「あ、自分、今否定しているんだな」
と、やった瞬間に気がついている。ただそれだけ。
けっこうむずかしかったりするんだけど、あとでもいい。
「あ、さっきまた否定やってら」ぐらいで。

するとなぜかしらんが、だんだんと自分の中に否定が消えていく。
否定が消えていくと、なぜか知らんが、外からの否定も消えてく。
違いを違いのまんま。そのまんま受け入れてもらえたり、自分でも受け入れられたり。
なんだ。やっぱりこの世はわたしの心で出来上がってんだ。


2014年8月8日金曜日

怖がっちゃいけないというおもいがフタをする



やまんば:「おかあさん、『あたしは歩けん』っておもうちゅうがやろ?」

母:「ちがう。あたしは『あたしは歩けるようになる』っておもいゆうがよ」

やまんば:「それって、もともと歩けないっていうおもいが前提にあるから、歩けるようになるっていってんのじゃない?」

母:「ちがうってば。『あたしは歩けるようになる』って、心の中で呪文みたいにおもいゆうがよ」

やまんば:「。。。。。」

やまんば:「じゃあさ。たとえばよ。あたしが『あたしは歩けるようになる』っておもうとおもう?」

母:「?」

やまんば:「あたしが、『あたしは歩ける!絶対歩けるようになる!』ゆうて心の中で言ゆうとおもう?」

母:「。。。いわんとおもうよねえ。。。」

やまんば:「そやろ?フツーに歩いている人が、わざわざ『あたしは歩ける!歩けるようになる!』っていわんよねえ」

母:「う。。ん。。。いわん。。。」

やまんば:「ね?。。。ってことは?おかあさんは、『あたしは歩けない』って元のところで信じているから、『歩けるようになる』っていう言葉が出るんじゃない?」

母:「そ、、、そんなこと思うてない!あたしは絶対歩けんなんて思うてない!」

やまんば:「。。もうえいわ」

これ、先日の母とやまんばの電話での会話。
人は自分の心の中をどこまで見通すことができるのか。

「おかあさん、素直じゃないよ。ホントのところを言いなさい」
なんて言ったところで、肝心の本人がその心のうちに気がついていない。
彼女は歩けなくなるという恐怖を抱えている。その恐怖は何重にもフタをされていて、本人自身がその恐怖を自覚することがない。

私たちの文明は、いや教育は、「怖がってはいけない」「怒ってはいけない」「しっとしてはいけない」「悲しんではいけない」、そして「楽しんではいけない」などと、およそ自分のうちから出てくる感情的なものにフタをしなければいけないような教えを受けてきた。
つまり『感情』は出てきてあたり前なものを、押さえつけてなかったことにする、という不当な扱いを受けてきたのだ。

それが押え切れないところに来て、どんどん溢れ出しているのが、このところの事件や心の病いにあらわれているんではないかとおもう。私たちは心のメカニズムをテキトーにあしらい過ぎている。

物質は目に見えて明らかなので「えらいこっちゃ」と騒げるが、心のほうは、みえないもんだから「な、なんだかへんなよーなきがするが。。。。ま、えいか」ぐらいにほっぽっとかれている。
なので自分自身の心の中を見るという習慣がないのだ。

むかしはモノがこれほどあふれていなくて、心の中を観る作業は自然と行なわれていたんだと思う。しかし現代はモノにあふれ、ひとりひとりに行き渡った歩く情報ツールが心を自分自身には向かわせず、外の何かに釘付けにさせられることで、より自分を見るチャンスが失われている。

だけどいつでも自分の心に帰ることができる。

怖がっちゃいけないという自分で作った壁は、自分でいともかんたんにはずせる。

そしていつでもその自分の心の中を深く深く掘り下げることができる。それが私たちがもつ能力だ。
がんじがらめになっている自分の観念からの解放へとつながっている。


 
母:「あたし、歩けんっておもいよった。。。」

やまんば:「へ?」

母:「あたしあれから考えた。あたしはほんとは歩けんって思いよったがや。。。って気がついた」

のちの電話での母からの告白だった。


2014年8月6日水曜日

スーパー自分になる!



やまんばはずーーーーーーーーーっと、自分をだれかとくらべ、自分を否定してきた。

あれがいけないこれがいけない。
ああするべき、こうするべき。
いい人とはこうあるべきで、であるなら、これは悪いことだ。

だからわたしはまちがっている。いつもまちがっている。つねにじぶんをみはってないとまちがってしまう。なぜならわたしはつねにまちがいを犯すニンゲンなのだから。。と。

うまれてきたとき、すでにわたしにはいしきがあった。かんじるものやかんがえることがあった。だけどわたしの前には、この世ルールを「すでに知っている先輩」がいて、その先輩に、「この世で生きるにはこういうルールがあるのだ」と教えられる。

「いや、そうじゃないきがする。。。」
といえば、
「ちがう!これはこうなのだ!」
と、おしえられ、試され、比較されてきた。

これは、自分というものをつねに誰かと比べられ、誰かが考えたルールで試され、それによって優劣や順位というありがためいわくな栄誉をもらいうけることになる。

するとやまんばは、自分自身でいることが、まちがったことであり、劣ることであると信じ込んだ。
このインプットは約50年間有効に働いてくれていた。



だけど、これはほんとうの自分を生きることなのか?とおもいはじめる。いやほんとうは、ずっと前から「なんかちがう」とおもっていた。だけどメイドイン教育のたまもので、
「ちがうだろ、常識とはこうなのだ。そこから外れたら、あとは『死』あるのみ」
と、軌道修正(?)をしてきた。そのおかげで大した悪さもせずに生きてこれたことも事実だ。

だけど自分への否定は、しょうじき生きづらくなっている。社会に対しては別に態度を変えるわけではない。いきなりご近所をあわてさせる、わがままやまんばに突入するよーな青二才でもない。
だが日常的にこころのなかにあふれでる「ダメダメ攻撃」に、
「おい、ちょっとまてよ。この攻撃はどっからくるんだ?」
「おい、おい、おい、なんでそこまで自分をいじめる?」とおもいはじめた。

なんで自分を否定しなくちゃいけないんだろう。

「それは自己肯定感が足りないのよ」
「あ、そうか。じゃあ、自分を肯定すればいいんだ!」

しかし。自分を肯定するのは簡単なもんじゃなかった。

自分をそのまんま肯定するとは、とてつもないことだった。




最近、ある人が書いた本を読んだ。
その人はうまれたときから、まったく自分自身を否定されなかった。
カラダがまったく動かない、声も出せない、息もうまくできない。そんな人が、その存在をまったく否定されず、ストレートに自分自身を表現すると、ここまでの人物になるのかという現実を見せてもらった。

やまんばは感動した。口があんぐり開いちゃって、これはとんでもないものをおしえてもらったとおもった。ここにものすごいヒントがある。ニンゲンは自分を否定されないまま生きると、もっとも自分らしいスーパー自分になるのだ。
多分この世の天才と言われる人々は、そういう部分があったはずだ。

やまんばは、今まで自分を否定してきた世界から、自分を肯定する世界へいこうと思う。
もちろんマシーンのように自分を否定する習慣は、そうおいそれとは消えないだろう。
だからまだ肯定世界の入り口のことろにたっているだけだ。

それは自分への否定観念につねに気がついている状態に入ることになるだろう。

だけどまだ知らない自分をきっと見つけはじめるにちがいない。

2014年8月4日月曜日

宇宙と自分だけになる



夜8時頃になると、ベランダにリクライニングの椅子をごそごそ持ち出して、夜空をながめる。

まっくら闇の空間の中に、小さな星々が点々と見える。
むかし高知の室戸にいた頃見た夏の夜空には、くっきりと天の川が見えていたなあ、、、などと思い出しながら、小さな星と星のあいだの真っ暗な空間をながめる。
ちかちか光りながら飛行機が飛んでいる。点滅しないで静かに飛ぶものもある。

そんなものをながめて、1、2時間すごす。ただそれだけ。
それがじつにここちよい。
あたまんなかが色んなことを考えて暴走するのが止まってしまう時間。

いいとかわるいとか、この世のルールにしばられていない時間。

自分ってモノを意識しなくなる時間。

天を見上げてんのか、天を見下ろしてんのか、上下がわからなくなる時間。

自分とカラダとか、自分と他人とかの関係が消えて、
宇宙と自分だけになる。



2014年8月1日金曜日

自分で作ってるううう〜の2



先日のつづき。。。

やまんばはそこから脱出したい。
「これが問題だ!」と見つけたのも自分。
「それは解決しなければいけない!」と躍起になったのも自分。
と、ゆーことは、それはもともと自分から発生したものだ。
であれば、自分でそれを変えられる。

変えるっていうと、すぐ心は「それまでわたしはまちがっていたのだ!」とおもいがち。だけど本当はちがう。

ほんとうの自分とはまったくちがう自分を味わってみようと思っただけなんだ。

そのために、まわりに色んな役者を設定した。
親、ご近所、学校、テレビ、環境、、、その他いっぱい!
その設定の中で、自分ではないモノになれと言われたり、自分にはない考えをもてとうながされたんだ。
それで「うん!わかった!なってみる!」と納得して体験しにきていたんだ。
だから、決して「まちがっていた!」わけではない。すべては了解積み。設定通りに性格を作っただけ。大正解!むしろあなたは正しかった!
よーく考えると、あの親でしょ?あの環境でしょ?ほらトーゼンその性格になるわな。だから大正解~~~。


さて。
今までの自分を変えてみる気分になった人、自分がワンパターンな反応をしているものを見つけてみよう。
たとえば、いつもスーパーで買い物をするたびに
「ゲ。買い過ぎた。お金使い過ぎた。。」
と罪悪感に陥っている人がいるとしよう(そりゃ、あんたやろー)。

単に言葉を発しているだけだと思っているだろうが、じつはこの「お金使い過ぎた」というたんじゅんな言葉の後ろに、
1:自分がもっているお金が減った。
ということは、
2:将来やってくるであろう浮浪者にわしは一歩近づいたのだ。
などの観念が、そのつど襲ってきているのだ。

その観念は、買い物をするたび、わしはホームレスに一歩近づいた、と思いつづけることになる。その人は、買い物をするたびに、「わーい」という気持ちと「ヤバい」という気持ちの両方をつねに保ち続けていることがわかるだろう。

そのムードがその人に形成され続け、
「いつかホームレスになる。。ホームレスになる。。。」とか「いつか借金まみれで自己破産になる、自己破産になる。。。。」と呪文のよーに言い続け、次第にホームレスや自己破産にむかって自ら歩んでいくことになりかねない。


そのワンパターンな反応を意識的に変えるのだ。
買い物をすると、
「おお、わたしは社会貢献をしたのだ。」
とか
「わたしは今、豊かな生活を送ってるなあ~」
などと言ってみるのだ。
人それぞれに好みでいい。だって人はそれぞれちがうんだもの。あなたの嬉しくなるバージョンを作ってみよう。

今まで自動的に反応していただろうから、そう簡単にはその言葉は出て来ないだろう。
「ゲ、また金を。。。。あ、いや、えーと、なんだっけ?。。。あ、そうそう、豊かな生活をしている、だな。あ、そーいや、こんだけのものを買えるお金を持っているってことだあ!」
ってなかんじになってくる。
こんなかんじどお?

「またお金が減った。。」
というときの心の状態と、
「こんだけのものを買えるお金を持ってる」
という心の状態は、なにかがちがうとおもわない?その時にその人から放たれるトーンのようなもの。
前者は何か重たい。だけど後者は軽い。
この一見無責任な軽さは、じつは明るさを呼び込んでくる。

未来がどうなるかは、その人それぞれの運命がになっている。しかしどこかで見聞きした不幸な人の話が、いつのまにか自分にも当てはまるんじゃないかと心配しはじめる。その心配はもっと他の心配を呼び込んで、ことを大きくしていく。これが心の習性のようだ。

だが事実は、あんたの人生は、他のどの人とも似通ってないってこと!

未来は未来さんにまかせよう。
今やれることは、今までの反応をいかにあなたのオリジナルの新バージョンに切り替えていくかってことだな。



畑からの帰り道、
「ああ、ナスがこんだけしか取れない。。。」
と言った直後、
「ああ、そーだった。これは今までのパターン。どれ、変えるとしたらどういう言葉があるかな?」
去年までの状態を思い浮かべてみる。
「あ、そーいや、取れてるじゃないの!前はまったく取れてなかったのに!なあんだ。とれるよーになってきてるんじゃん!わはははは!」
と、意気揚々と畑から帰るやまんばであった。

ちゃんちゃん。

2014年7月30日水曜日

自分で作ってるうううう〜〜〜!



私たちは、自分の目の前に起こった出来事に対して、同じ反応をくりかえしているマシーンだ。

ヘビを見つける→「げっ!こええ~~~。」
政治家の声を聞く→「フン。口ばっかじゃねえか。」
目覚ましで目が覚める→「あ~、もう朝あ?起きたくねえ。」
テレビでスイーツを見る→「きゃ~、たべたあ~い!」
道で人とすれ違う→「気がつかないフリをしよう」
ズボンがきつい→「ヤバい。やせなきゃ!」
道でうんこを踏んづける→「ぎゃーーーっ!」

人によってその反応は様々だが、その人それぞれの反応を、そのまんま、気づかないまま、あたり前のように、延々と、同じ反応をくりかえしてね?

やまんばはそーゆー自分に気がついたとき、あぜんとした。
こりゃ、パブロフの犬そっくりじゃねーか!

畑の野菜を見ると、「すくなっ!じぇんじぇんだめじゃーん!」
NYのレップからメールが来ると、「げっ、英語!やだあ~」
夜中にトイレに起きると、「ああ、あたしの人生どーなるんだろ。。」
判で押したよーに、おんなじ反応をくりかえしているのだ。。。。

じゃあよ。このまんま同じ反応同じ考え同じ感情を出しっぱなしにしていたら、今まで生きてきたパターンを、そのまんま、あいもかわらず続行することになるってことじゃねえか!
があーーん!
いやだ、いやだ、いやだ。
こんなんじゃやだーっ!

わかる?これは量子力学なのだ。
あなたの観念があなたの世界を創造しています。
人は創造エネルギーそのものです。
あなたは毎瞬毎瞬あなたの空間を創造し続けています。

およ~~~っ。
自分で作ってるううう~~~っ。



ネットを見ていると、インボー論で盛り上がっているブログもある。やまんばは最初はおもしろくって、「へえ~~、やっぱこの世はいかがわしーなー」と、一人盛り上がっていた。だけどだんだんおもしろくなくなってきた。
彼らはずーっと、「外の誰かが悪い!」って言い続けているんだもの。

問題だ、問題だ、事件が起こると問題だ、それをなくそう、これをなくそう。あるから問題なのだ。なくせば問題が消えるのだと思っている。
これ、バイキンがあるといけないから消毒して消そうというのと、どう違いがあるだろうか。

ブログの人がどれだけ力をもっているのかは知らないけど、その問題を出かけていって消せるのだろうか。いや、実際消せる程の素晴らしいお方であるかもしれない。

だけど「問題」は、その人が問題は消さないと解決しないと信じていることだ。

ひょっとしたら、もっと身近なところで問題を抱えていて、その問題をナントカ解決したいという無意識の心の動きが、世界の問題を解決せねばいけないのだ!という問題定義にすり替わっているのかもしれない。(それさえ解決すれば、女房が帰ってくる、みたいな?)



これも冒頭で言った起こった出来事に同じ反応をくりかえしているマシーンとおなじことじゃないだろうか。
そうかんがえると、その人の未来にもいつまでも近くに問題があり続け、それを消さないといけないといけないのだ!と躍起になりつづけることになる。


つづく。