2013年11月3日日曜日

頭ん中まるみえ



心の中が外に現れている。

そーゆー言葉は時々耳にはするが、たしかにそうなんだろうなとは頭ではおもうんだけど、でも道で頭のおかしな人とすれちがったり、いけずな人がいたり、頑固な人がいたり、暗ーい人がいたりして、そーゆーのをみるたび、
「あたしはこんなやなやつじゃないだろう!」
って、カチンときて、冒頭の言葉を否定する。

だけどねえ。
よーく見てたら、この今私の目に見えている人々は割合として、いいひと○%、やな感じの人○%、へんな人○%、てなぐあいなもんで、ひょっとして頭の中にいる多重人格な自分も似たよーな割合であるんじゃないかなあ~?って、おもったのだ。

いい人って、あんまりにもナチュラルでする~っと過ぎ去ってしまうから気がつかないけど、人数的にはけっこういる。けど、へんな人や、やな感じの人は、する~っとは過ぎ去らないで、ドッドーーーン!と存在するから、へんな人100%!!な気分になるけど、実際の割合は1割ぐらいだったりするじゃん。

そーゆー目で見ていくと、そーいや、自分の頑固さはあのぐらいの割合でいるし、暗ーい部分は、そうそう、あの程度。それからへんな人の割合は、、、、もちょっといるかな?なんて、レイセーにブンセキしちゃったりする。

すると人だけじゃなくて風景にまでおよんで、山7割、家2割、畑1割!あたしの頭ん中は、「そうそうこんなかんじ!」ってなってくる。

頭ん中がそっくりそのまま現れているとするなら、それを見る事が、自分の中をしらべる事になるんじゃないか?
あのオヤジの頑固さは、あたしの頑固さがどの程度かを教えてくれていて、あの子の暗さは、あたしの暗い部分の深さを教えてくれている。割合も、頭の中を占めているネガティブな部分もポジティブな部分の量も教えてくれている。
あのおばさんのやなかんじは、同じよーな事をやっているから気がつくのかもしれん。
「やあねえ、あんなことやってる。はた迷惑だよねえ。。。。」
「えっ!?これって、あたしもやってるの!?」
となるわけだ。

自分の頭ん中、まるみえ。ま~るみえ。
あほがみ~る~ぶたのけ~つ~。

でもよーかんがえたら、自分にしか見えてないわけだ。でしょ?はずかしーのは、自分だけなんだ。自分で自分に恥ずかしがってどーする!

だからこーゆー調査は「ひそかに」やるのだ。
ひそかにブンセキするのだ。だって誰にもバレてないわけさ。自分の頭ん中。自分にしか見えない世界(あなたの知らない世界~)。

その分析は、自分の内面を客観視することになる。内面ってみえない。それとおなじように自分の姿って直接見えない。鏡がいる。それとおなじようにこの世は映っているわけだ。
神様は、こーゆー方法で、自分の内面を確認させてくれてんだあ。
粋なことするねえ~。


絵:MF新書『うんちく書店』表紙イラスト

また出た!雲竹雄三が今度は本屋さんに出現!ありとあらゆるうんちくを爆裂させます。書店オタクのみなさま、お見逃しなく!

雲竹さんの頭ん中は、さぞかしすげーんだろーなあ。



2013年10月30日水曜日

石けんなし生活はダンシャリであった



心のダンシャリってあるよーなきがするんだな。

物質的なダンシャリによって、心がすっきりする。部屋の中に空間を新たに作る事によって、新たなものを取り入れる事が出来るし、そして部屋の中がすっきりして眼にも新鮮なので、新たなアイディアも浮かぶ。いいことだー。

とすると、心のダンシャリってありじゃん。

やまんばはまず、物質的習慣のダンシャリをやったんだろうな。石けんやシャンプーや歯磨き粉を使って身体を洗うという物質的習慣のダンシャリ。
ついで、畑の野菜の栽培を農薬も肥料も入れないという物質的習慣のダンシャリ。
石けんなし生活は、身体の神秘をおしえてくれる。
肥料なし農薬なし栽培は、日々自然の神秘をおしえてくれている。
たぶんこの神秘は上限を知らないんだろうな。宇宙の神秘までいっちゃって、どこまで自分を運んでくれるのかわからないだろうな。

そーして、精神的習慣のダンシャリ。
物質って眼に見えるじゃん。だからそれをやめるってわかりやすい。といっても
「こっ、、、この本を捨てるべきか捨てないべきか。。。。」
という重大な決断を下さないといけない真剣勝負があるが。
だけど一時の勇気が必要である意外は、あとは何も仕事がない。だけど習慣となると、そうはいかない。
 
心ってとりとめもないし、目に見えないし、こっちの事考えてるかと思えば、いつのまにかあっちの事考えている。
「どこに着目すりゃーいーのよー!」
ってなかんじなのだが、じつは同じパターンの考えがぐるぐるぐるぐるまわっているんだな。

あれやって、これやって、、と言う実務的な思考のあいだに、ネガティブなこともはさまってしゃべってる。あいつやこいつの悪口、自分の将来の不安、自分の才能のなさ、身体の欠点、やっちゃった事への後悔、それのいいわけ。。。
るんるる~んってのは、ほんのいっときだけ。あとはぶつぶつぶつぶつ文句を言ってる。。。はためにはぼーっとしてるようで、心の中は忙しく働いている。
これが頭の中のほとんどを占めていて、ほとんどグッチャグチャな部屋の中と同じ。

おおっ、ぐっちゃぐちゃだ。

着古した服、もう卒業した本、押し入れに詰め込んであるいつか使うだろうと思ってしまってあるはずなのに、忘れ去られているものたち。
それとまったくおなじように、着古した考え、もう卒業した定義、押し入れに突っ込んで忘れ去られている常識たち。。。

それの一掃大処分市を開催するのだーーーー。
(おい、誰がそれを買うねん)


2013年10月28日月曜日

ちっこい街出現現象



高尾のあちこちに小さな街が出現しはじめた。
10~15件ほどの真新しい建て売り住宅が、似たような作りで並んで建っている。
そこはもとは工場跡地だったり、元ラブホだったり。
「分譲住宅!見学できます!」と、ど派手な旗がびらびらはためく。
しかしなかなか埋まる気配がない。

そーだろーなー。
一見真新しくって素敵な町並みってな感じなんだけど、まわりを見渡せば、即田舎。そこだけ不自然にピカピカしている。ここが阿佐ヶ谷や高円寺だったら、キャ~、都会に一軒家!って魅力的なんだろうけど。何もわざわざ高尾くんだりまで来て、このちっこい家は何?おとなりさんとはぎゅうぎゅう詰め。家の中丸みえ。音まるぎこえ。これじゃ都会と何ら変わんない!
しかも庭が、、、、庭がない。高尾くんだりまで来て、庭がないって、どおよ。
それはまるで、
「庭だとお?庭がほしいんなら山でも見てろ!」
っていってるぐらいの強気な構え。

高尾っていえばさあ、若者が住みたい街ナンバーワンじゃん(ほんとか?)。その憧れの高尾のイメージと言えば、広ーいお家に、広ーいお庭。そこでテーブル置きいの、バーベキューやりいの、ハーブなんか植えちゃって!おっしゃれ~なスローライフ!ってのが定番じゃん。(そーだっけ?)

あの奇妙なちっこい街出現現象は、どーかんがえても、心おどるしろもんじゃない。
不動産のおじさんよー。ちとあれは時代おくれ過ぎないかえ?

実際、高尾に住む若者は、ぼろながらもそれを自分たちでリフォームした一軒家で独自の世界観を作っている。これから住宅を買う若者たちが、あんなふうに都会にあるような人工的な素材の、人工的なつくりの、プラスティックみたいな家に住もうと思うんかねえ。
それに何十年もローンを組んで住みつづけるほどの価値をもってるんかねえ。たとえそれを投資がわりにってったって、あれじゃあねえ。。。狭いし、山にへばりついてるし、目の前川だし、いつ自然災害に持ってかれるかワカランし、ただの更地になっても、ねこのひたいぐらいだし。せいぜいイノシシのお食事処になるだけのよーな気が。。。。
その土地を一体誰がお買い上げしてくれるねん。

老婆心なやまんばであった。

2013年10月27日日曜日

いじめは自分の中にひそむ



いじめは自分の中にある。

自分の欠点は誰でも知っている。その欠点をしょっちゅう責めるのだ。
「あ、またさぼってる。い~けないんだ~、いけないんだ~」
「だって、だって、疲れてるんだもん!」といいわけをする。
「それを今やっちゃあおしまいよ。あんたの人生、もう、お、わ、り!」
「え~~~~~っ、やめてよ。やめて!それだけは言わないで!」
「お前の人生、お、わ、り!」
「きゃ~~~~~~っ!」
と、耳をふさぐ。
これがいじめでなくてなんという。

先日言った7%の欠点を、人は心の中でひたすら言い続ける。
「そんなこと、言ったことないよ」
中にはそーゆー人もいる。そーゆーひとは、やまんばの話はする~しておくれ。
でも自覚がないだけなのかもしれない。

むかし、自分の事をしょっちゅうラッキーラッキーって言ってる友だちがいた。
「あたしって、ラッキーなのよ~」といつもいう。
はたから見たらそこまでラッキーでもなく、むしろそう思い込もうとしているように見えた。美人の彼女はいつも哀しい顔をしていた。

自分の心の深いところにある哀しみを「ラッキー」という言葉によってごまかしているよーにみえる。これはポジティブ思考と似ているところがある。いい部分ばかりを見て、影の部分をみない。
どっちにしても心の中に、自分には影の部分がある、欠点がある、とガッチリ信じている。

欠点を見つけて自分で自分をいじめる人と、見ないフリしている人のちがいでしかない。
どっちにしても欠点を怖れている。

欠点は取り除かなければいけない。
そうすれば怖れはなくなるのだ。
だから自分をいじめる。だめだめといいつづければ、やがて消えるだろうと。。。。

そうやって克服する事が、勝ち組なのだと教えられて来た。
ここにもうひとつの恐怖がひそむ。
欠点を乗り越えて、克服する事が勝ち組。
ということは、それを乗り越えられなかったものは負け組である!!
という条件づけ。

これがわしらの根底にものすご~~~~~~~~~~~~~~く、息づいている。

よれよれになったジジババにまで浸透している。
努力、努力、努力!
優れたものは上で、劣ったものは下!

人は自分専用の物差をもっている。
小さい時から親や、近所のおじさんや、友人や、八百屋のおばちゃんからもらった大切な物差し。その物差しはアップデートすることはない。ひたすらその物差しで、場面場面で測って優劣を決める。

タンスの引き出しの隅っこにたまったホコリまで、物差しを持って来て測る。このホコリは大きいか、小さいか。あるいは、ここにあるべきものか、そうでないものか。
となりのオヤジはいいヤツか、悪いヤツか。自分は間違っているか、正しいか。あの牛丼屋はお得か、損か。

ひたすら測る。測る。測る。
測れば必ず高い低いがあり、大きい小さいがあり、正しい間違ってるがあり、勝ち組と負け組が登場する。

いじめっ子も測る。
親に怒られると、自分が劣っているかのように思う。その劣等感を紛らわそうと、もっと劣っていると思われる存在を求める。
これがいじめっ子登場の瞬間。彼は優位に立つ事によって勝ち組に入れるのだ。
いじめられっこは、そのまた下を探す。
犬にあたる。
「お前はダメなヤツだ!」と大いに威張る。
勝ち組に入る。

自我は自分より下をみつけだそうとする。
それは気がつかない限り、ずっとくりかえす。

2013年10月25日金曜日

悪いとこ探しっこ



どこそこの食品会社でバイトの子が悪ふざけをした。どこそこのレストランが産地名を偽装した。どこそこの運送会社が冷蔵ものを常温で仕分けした。どこそこの出版社が読者プレゼントを偽った。

なんということだ!ひどいことをするじゃないか!もってのほかだ!人間としてあるまじき事だ!こんなヤツや会社は許せない!
まっ、そりゃそーなんだけど。

そこの会社の人だけしかわからない内部事情を、「これは間違っている」と正義感を持って告発する。実に素晴らしい行為だ。勇気ある行動だ!!!
まっ、そりゃそーなんだけど。


その悪ふざけのバイトくんのおかげで、その会社は倒産する。
そのバイトくんは今頃どんなおもいなんだろうか。ものすごい自責の念で押しつぶされているんじゃなかろうか。精神に異常を来すんじゃないだろうか。

いーや。それほどまでのひどいことをしたのだ。当然の報いだろうと世間はいう。
だけど報いが大きすぎる。一つの行為で、その人の人生が終わってしまうほどの報いをうける必要があるのか。

一つの悪いところを見つけると、みんなでよってたかって石を投げつける。どんな事であろうと、悪いと判断されたものに、死刑の判決を下すがごとく。

最近の問題定義はあまりにも小さい。。。っていっちゃいけないのか。。。
産地偽装されて死ぬ人がいるかもしれないといわれれば、すべてがいけないことになる。。。

だけどホントにそんなところをつつけば、この世は良くなるのか?


まるでみんなが「悪いこと探し」をしているようにみえる。
悪いことを見つけて改造させれば、いいことしか残らないのでハッピーになれる。とおもいこんでいるかのよう。

だけど実際は、もっと悪いことが見つかり始める。
悪いことなんて、外だけじゃない、自分の中にも山ほどある。それをいちいち引っ張りだして来て、「おれのここが悪い!」といったって、自分ひとりでさえその「悪いとこ」を治せないのに。
それを赤の他人の悪いとこをなおさせられるもんなのか?
せいぜい土下座させて、いい気分になれるぐらいじゃないか。

これじゃいじめと同じだ。
学校でのいじめは、社会全体のいじめと、家庭内のいじめと、すべてリンクしているようにみえる。



2013年10月24日木曜日

いいねえ〜



夕方、近所のコンビニにいった。
お好み焼きの粉と大福二個もってレジにいく。
レジの中では顔見知りのおばちゃんとお兄ちゃん。

「あら、今日のお夕食のメニューはこれね」
と、おばちゃん。
「あ、ばれちゃった?そうそう。今日はお好み焼き~」
というと、横にいたお兄ちゃん(といっても同い年ぐらいなのだが)が、
「えっ、大福じゃないの!?」
と指を指す。
「えっ、、、、えええ~~~~っ。そこお!?」
と、思わぬボケに度肝を抜く。

そこでひるんではいけない。
「そうそう。これこれ。晩ご飯はやっぱり大福よね~。これにワインが合うのよ~」
「ワイン!あうねえ。白いお皿に真ん中に大福をポンっとおいてえ。それをフォークとナイフでたべる。。。」
「そうそう、そこら辺の草ちぎって来てそのまわりにあしらって。。。」
「あら、おしゃれ!」
「いいねえ~」
「いいわねえ~」
「クリエイティブだねえ~」

近所ならではの会話であった。

2013年10月21日月曜日

イヤなとこばかりみてて幸せになるのか



ひとってさあ、悪いとこばーっかリ見るとおもわない?

例えば自分のここがキライっ!とかおもうじゃん。すると、そこをなおす事ばっかり考える。
自分のこの状況がイヤっ!とかおもうじゃん。するとその状況を必死で変えようとする。
その定義は、「悪いとこ取り除いたら、幸せになる」というアイディア。

それって、他のことにも当てはまる。
ダンナのここがイヤっ!っておもうじゃん。すると、ダンナのそこばっかりが気になって、
「あいつ、あれさえなかったらなあ~」
って、そこをなんとか変えさせようと思う。
上司のここがイヤっ!っておもうじゃん。するとそこの部分ばっかり気になって、そこを嫌悪したり、悪口言ったり、その状況に入らないように努力したりするじゃん。

その定義もやっぱり、「悪いとこ取り除いたら、幸せになる」ってことじゃん。

ところがはたから見てたら、その人の自分がここキライって部分は、その人のほんのちょっとのパート、全体の7%ぐらいしかなかったりする。あとの93%は、オッケーじゃん!なのよ。
あの子はそこはちとへんやけど、他の部分はもう、すっごいすてき!だったりするわけ。

だけどみんな自分のことも他人のことも、イヤな部分ばっかり気にして、そこを取り除くことに必死になっている。

その部分を取り除いたら、果たして幸せになるのか。
現実はそーはトンニャがおろさない。

ビンボー脱出して大金持ちになっても、家族の問題や自分の身体の問題が持ち上がってくる。ビンボーな頃は、「金さえ手に入りゃ俺は幸せなのに!」と金持ちを恨んでたヤツが、「この病いさえなくなれば俺は幸せなのに!」と、いつのまにか別の問題を見つけてくる。

そう。みつけてくるのだ。問題意識。危機意識。戦うための材料。

そーやってジンルイはフンソウしてきたのだ。

ぼけーっとするな。いつもなにかしていろ。さもないとろくでもない人生になるぞ。
小さいときから脅されて来たこの言葉。

お日さんにあたって、「ほんにゃ~、ええきもちい~」となってると、
「こら。ぼけてんのもそのへんにしときいや。今日のお仕事がまっちゅーやろ。はいはい、仕事仕事!」後ろからパンパンと手を叩かれて重たい身体を持ち上げて渋々イヤイヤ仕事にいく。
仕事がないと、
「おいおい。ボケてたらおまんま食い上げやぞ。はよ仕事探しにいかんか!」
とあせらす。

つねになにかしてないといけないと思い続けている。止まったら死んでしまう。(サメか)

そのための格好の材料が「マイナス要因を見つけてくる」ことだ。

「う~む。私のどこが問題なのだ。そーだ。この部分が足りないから今の状況になるのだ。それを足していこう」
「う~む。私のどこが問題なのだ。そーだ。この部分が問題だから、それをとりのぞこう」

こーやって、つねに自分と外の問題点を「解決する」ためにフンソウしつづけるのだ。


やまんばはね。そーゆーの、あきちゃった。
ずーーーーーーーーっと、そのパターンで来たんだ。
ほんとに、ずーーーーーーっとそれでやりとおして、それでも納得いかないんだ!やなことはちっともへらない!
じゃ、これからもそれをやりつづけるのか?
それは It works. とおもっているのか?
ひょっとしたらそれは、It doesn't work. ではないのか?

ひょっとしたら93%のオッケーで、そのまんまでいいんじゃないか?残りの7%のダメだしにずーーーっとひっかかっているよりも、あとの93%のオッケーを生きていたら、もっと人生生き生きするんじゃないか?

7%の欠点は、その人にとってクローズアップされて100%ぐらいの悲劇になっている。だけどほんとは、ほんのちょっぴりなんだ。勇気を持って自分のあとのいい部分を真正面から見よう。

きゃ~、あたしってすっご~い!とかいって、ごまかしたくなる。いわゆる「ポジティブ思考」におどって、ネガティブな部分を打ち消すのではなく、静かな時間にほんとうに個人的に自分のいい部分を静かに観察する。
そしたら、そよかぜのようにふんわりといいところが見えてくる。7%の欠点は、93対7としての割合の、ほんの小さな部分におもえてくる。

試しに他人を見てみよう。いい部分はすぐ見つかる。そしたらそこをすかさずほめてみよう。すると相手は、くすぐったがったり、「ふん。そんなもん」とかいって知らん顔してみたりするけど、喜ぶ。その姿を見て自分もうれしいはず。そのよろこびは、その人がもつ長所の一つ。ほら、みつけた。

長所はいっぱいある。あふれんばかりにある。それを見つけるよろこびは、あなたにパワーをくれる。そのパワーがいろんなことを It works. にする。