2011年3月11日金曜日

似顔絵 河村たかし





夜、窓を開けて夜の山を見る。まだぼた雪が舞っていた。スミ80パーセント以上の暗闇の世界。その中に、音もなくまい落ちる大粒の雪。
う。。美しい。。。ああ。。。たまらん。。。なんて美しい風景。。。。そのみたされたじかんのなかでしばしたゆたよっていると、ふと明日の仕事の事を考え始める。ふと確定申告の事を考え始める。いかんいかん。そんなもん明日考えりゃいいのだ。今はこのひととき。。。。確定申告。。。。仕事。。。。あ、そーいやこれもまだやっていなかった。。。げ。あれもだ。。。あーどーしよ~。。。

結局、雪の夜を味わったのは一瞬だけ。あとはあとからあとから湧いてくる雑念が目白押しして来て、味わえんかったんじゃ。
これはだなあ。つまり人と言うのは、なにかこう、ふわ~っとした暖かい感覚になると、「私」というものが膨張して希薄になっていくのではないだろうか。そうすると、まるで自分が消えていくような感覚になり、心の奥に潜むモンスターが
「お、お、お、自分が消える。いかんいかん。消えたらいかんぜよ。そーだ。自分に気がつくようにしむけなければ!」
と、ネガティブな事を思い出させる。ネガティブな事は一気に人を現実の世界に引き戻す。

「あっ、やばい。確定申告!」
と言った瞬間、シュン!と縮小する自分。そのシュン!と小さくなった自分は、はっきりと固形化してそこにいるのだ。ぶわ~と広がって希薄になっていく水蒸気が、何かの冷却で一気にぎゅっと縮まって固形化する氷のように。
するとモンスターはほくそ笑む。ふっふっふ。ほーらもどってきた。そうこなくっちゃ。あんたは心配事でいっぱいになる~。ますますオレを大きくさせる~。わっしょいわっしょいわっしょいわっしょい、ソーレソレソレお祭りだ~。と、心配事でがちんがちんになって、自分という存在をいやほど意識するのだ。がちんがちんに固まって心の中は自分という巨大なモンスターに占領される。行き着く所は悲惨。


近所に精神病院がある。道をうろうろ歩いている患者さんを見ていると、彼らが自分の事でいっぱいになっているのがわかる。きっと心の中は、心配事とか、憎しみとか、悲しみとか、いらだちとか、そんなものでいっぱいなのだろう。それがますます自分というものを意識させ、凝縮させ、固形化する。その凝縮力はは超合金のように固い。

自分というものを強く意識すると、他人という存在もはっきり見えてくる。それはまるで空気が二つに分かれるようにそれぞれに凝縮していくのだ。敵を作るという事はすなわち、自分を強く意識する事でもある。じつはそれは快感でもある。
「敵はあそこダアー!あそこに向かって打てええーーー!」っとやる、あれ。目的と大義名分が自分というのもを実感させてくれる。男の子はこの遊びが大好き。

スギ花粉も似たようなものだ。スギを敵にすると自分が立ち上がってくる。「敵は花粉だあ!打てええーーー」となる。(どーやって?)

わたしゃあ、きっとスギの木を気にしすぎるんだろうな。目の前にスギ林。たわわにほこったスギの花。ああっ、こう書いただけでも目がかゆくなる。。。
これっておかしいでしょ。パソコン打っているこの今、窓を閉め切った部屋に花粉がが目に入ってくるわけでもなし。
よく考えたら、四六時中花粉症の事を気にしている。目がいくのもスギの木。「ああ、まっちゃっちゃだあー!」と、脅威を感じながら、半ば喜んでいるふしがある。
つまり私の今のマイブームは、ズバリ花粉症なのだ。

心はどうもいつも何かにしがみついて、いつも何かを考えていたいようなのだ。それが一番自分と言うもの、私という存在を強く意識できる。だから今のマイブームは花粉症。私の心の奥に住む「自分を意識しろモンスター」はたまた「あたしは人生おもいっきり実感したいのよ~モンスター」のしわざなのだ。

ふおっ、ふおっ、ふおっ。


絵:似顔絵「モンスター列伝第ニ幕/河村たかし」
このお人の顔はどー見ても悪党面なのだ。そのお顔がこりゃまたたまらんのだ。「越後屋、おまえも悪よのお。。ふおっ、ふおっ、ふおっ。。。」と、まんじゅう小判をもってよだれを垂らす。そんなシーンが浮かびます。

似顔絵「モンスター列伝」3





似顔絵「モンスター列伝」2





似顔絵「モンスター列伝」1

ここんところ似顔絵が面白いので過去に出して来たものをまとめて出しちゃいます。
このシリーズは雑誌「起業人」の中で中田潤さん書いたエッセイに、私がイラストを入れたものです。彼が書く過去の偉大なる業界人の生い立ちやそこから醸し出されてくる性格の描写はとてもおもしろく、イメージが勝手に膨らみ、私なりに解釈して描かれたものです。
今描いているモンスター列伝第ニ幕も、今度は私なりに解釈した人々を描いています。来月に裏高尾の「ふじだな珈琲」で展示をします。また案内を出しますね。乞うご期待!





2011年3月8日火曜日

何もしないという行動




花粉ふりそそぐ今日この頃、みなさまはいかがおすごし?

先日、あまりの目のかゆさにガマンが出来ず、ものすごい目をかいてしまったら、その直後から白目の部分があれよあれよという間に膨張し始め、水ぶくれ状態になった。その凄まじい形相はお岩さんをもしのぐ!で、相変わらず何もしないで自然治癒に任せる。(良いこの皆さんはマネしないでね)かゆさをガマンし2日でなんとかニンゲンらしい顔に戻った。のもつかの間、これでもかと毎度襲ってくるかゆさにいてもたってもいられず、ふとおもいついた。

あ、ハッカ油があるではないか。
ハッカ油をちょいとティッシュに落とし、それを鼻で吸うとす~っとした感覚が鼻から喉に行き渡り、かゆさもやわらぐ。それを目にいかせるじゃないの。我ながらナイスなアイデア。しかしハッカ油は一筋縄ではいかないつわものだから、用心に用心を。

さて、100倍に水で薄めたハッカ油をちょいと指の先につけ、折り畳んだティッシュにちょんとつける。そのティッシュをおそるおそるまぶたに近づける。決してまぶたに触らない。まぶたまでの距離1センチ。なんともない。さてもう片方にもおなじことをやる。最初にやった左の方がふとジン。。。としてくる。
あ、来たな、右も来るかな?すぐに右の方もジン。。。としてくる。
。。。ジン。。。ジジジン。。。ジジジジジン。。。。。ジジジジジジジジジジ~~~~~~~ンンンンンンン!!!!!!!!
ぼおおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーーーっ!

「ギッ、ギャア~~~~~~~~ッ!!!!!!」
雄叫びが部屋中に鳴り渡る。

なんと表現すれば良いのか、目から炎が3メートル先まで吹き出し、千本の針でぶすぶすと瞳を突き刺されるような強烈な痛みが顔の二カ所にピンポイントでやって来た。ヘビ女が凄まじい形相で画面いっぱいに叫び上げるあの恐怖のシーンが浮かんだ。

「失明する!!!」
慌てて洗面所で水で洗う。全く利かない。タオルに顔を押し付ける。全く利かない。ますます痛みは巨大化する!目も開けていられないし、閉めてもいられない。手で押さえるのはもっとつらい。妖怪のようにふらふらと部屋中をさまよい歩く。全神経が目にいき、目のお化けのようになる。なすすべもなく、窓際に座り込む。相変わらず目から炎が吹き出し、千本の針で刺され続ける。ぼたぼたと涙が落ちる。ただただその痛さを感じているしかなかった。目のかゆさなんてどっかに吹っ飛んでしまった。
この状況を打破するために、いい手があった。「心頭滅却すれば火もまた涼し」というではないか。そこで感情を切り離す事をやってみる。痛みを外から観察するのだ。

離れない。クソ。全然離れないではないか。痛さが激しいと、人は死を予感するのかもしれない。動物的本能が「死にたくない!」ともがくのだ。死にたくない!は、感情そのものだ。だから痛みと感情はビッタリとくっついてはなれないのだ。

涙を落としながら、その場で5分。。。10分。。と耐える。だんだん痛みが薄らいでくるのがわかる。そしてあの激烈な痛みは消えていった。。。

痛みは感情と全くセットになっている事を知る。それは、死と即座に結びつくからだ。動物的本能が観念の世界をこえる。このままいくと死ぬ!と思うと、人はありとあらゆる事をやってそこから逃げようとする。だがどうやっても何も変わらないと知れば、ただなりゆきを見守っているしかないのだ。


人生もそんなもんかもしれない。どうやっても何も変わらないし、何も変えられないことがわかると、「そのままにしておけ」ということか。すると自然の成り行きや自然治癒で、すべては刻々と変化していく。石けんなし生活もそうだし、畑もそう。何もしないという事が、実は本当の行動だったりするのだ。

実体験を通して色々知るなあ。
私がこの世に生まれて、今日で半世紀たった。


絵:「メディアファクトリー新書/新幹線を運転する」日本人の英知と感覚の鋭さをまざまざと教えてくれる一冊です。

2011年3月4日金曜日

刺激的な花粉症




花粉症がきつくなった。なんだ。治ってないじゃないか。がーん。

そこで考えてみる。そもそも花粉症というものを発症したのはいつか。私が京都から東京に越して来て、ちらほらその言葉を聞き始めた頃だ。
「花粉症?なんだそれ?」
聞く所によると、それはスギの花粉が舞い始める頃に訪れる症状だと言う。春になる。鼻がむずむずする。「あ。これが花粉症という奴かな?」と意識する。それを意識すればするほど症状はだんだん重くなってくる。鼻水がでる。目がかゆくなる。喉がかゆくなる。そしてまっただ中に突入〜!


ここからは私のいつもの勝手な妄想。
そもそも人はいつも常に何かの刺激を求めているんじゃないだろうか。私にとって花粉症は刺激中の大刺激!なぜその刺激をもとめるのかと言うと、花粉が舞いちるこの頃は、やなことがある。それは確定申告。
「あ〜、やだやだ。領収書まとめなきゃ。計算機どこだっけ?あ〜、また計算間違えた」などなど、めんどくさい事が山積み。

おまけに子供の頃のトラウマ。小学校を3回転校した私は、ジンチョウゲににおうこのころ、新しい場所へ転校する。黒板に大きく私の名前がかかれ、その前にたたされる。みんなのあぜんとした顔。先生が読み上げる私の名前。
「みなさん、新しいお友達、つくしちゃんです!」
ぎゃ〜!わはは〜!生徒全員大受け。机を叩いて笑い転げる全員の生徒たちの、私をあざけり、バカにした顔を見るその屈辱的な瞬間をおもいだすのだ。そこから始まるいじめの日々。(今じゃ、こんな名前、フツーすぎるけどね。昔は変だったのだ)

などなど、そんなもろもろの思いが束になってやってくるのを、花粉症の刺激で紛らわせているんでないだろうか。相当な刺激である。寝るのもつらいほど。しかしこれを自分でどこかで求めているとしたら。。。?

イヤな事つらい事を何かの刺激で逃げる。遊園地いくこともショッピングする事も麻雀やる事もテレビ見る事もいわば逃避だ。それと同じ事をしているのかもしれない。花粉症はお金かからないし、これがきっかけになって大病に転じる事もない。ひと時のイベントみたいなもんである。
それに目を腫らして鼻水たらしていると、人にも「たいへんねえ〜」と、同情もしてもらえる。人はこっちを向いてくれ、自意識も刺激してもらえる。

これはひょっとしたら、「肩こり」と同じ現象なのかもしれない。夏目漱石がロンドンで聞いて来た言葉「肩こり」。そこから日本に肩こりが始まったと言う説。
言葉と言うのは面白い現象を生む。肩こりや花粉症が市民権をえると、そういう症状や病気が存在し始めるのだ。そして人はそれに「たよる」ようになる。

心はどこか刺激を求めて何かないかとさまよい歩く。それははたから見て滑稽でもいいのだ。
以前、ある病院で若いお姉さんに出会った。彼女は
「ここの医者はやぶよ。私が病気だって言うのに、病気だと言わないの。私は絶対病気なんだから。だからいつかどこかの病院で、絶対病気だって言わせてみせる」彼女は病名をほしがっているように見えた。それだって、彼女にとっての刺激を求めている姿ともいえないだろうか。


そもそもなんで自然現象のひとつにすぎないスギの花粉にこんなにも反応するのだ?
一説には花粉が車の排気ガスとくっついて反応するとも言われるが、ウチの家の前のスギからやってくる花粉が、私の鼻にたどり着くまでに、排気ガスがまざってやってくるとは信じがたい。どう考えても純粋培養された花粉でしかない。
これは私の単純な頭が、花粉症を利用しているんじゃなかろうか。日常のイヤな事めんどくさい事から目をそらしてごまかす道具にしていると言える。「あ〜、鼻がでる〜。あ〜、目がかゆい〜」と、言い続けながら、毎日を刺激で満たしておるのだ。
いや〜ん。


絵:「メディアファクトリー新書/空想法律読本」
ウルトラマンが町をこわしたら罪に問われる?
仮面ライダーのあの頭はヘルメットと言えるのか?あれは単なる頭であって、その上にヘルメットをかぶらなきゃいけないのか?

2011年3月1日火曜日

ミイラ取りがミイラ?



「メディアが戦争をあおった」という内容の番組があった。
その中で、正確には覚えていないが、こんな言葉があった。新聞記者が自分たちで記事を書きながら世論を作り、いつの間にかその世論の中に自分たち自身もまきこまれていく。そうしていったい誰が世論作ったのかも、自分たちでも分らなくなっていく。。。

その内容を聞いて思い出したことがある。私がある女性雑誌の仕事をしてるとき、似たような場面にでくわした。
これからの女性はこうでなくちゃいけない。こんな生活をしなくちゃいけないという内容の特集を組みながら、その編集者もそういう女性にならなくちゃいけないと思い始めているのだ。理想の姿を特集しつつ、自分もそうならなくては、女性とはそういうものなのだ。。。という考えの中に自分も巻き込まれていく。。。つまりはミイラ取りがミイラになる?のような感じ?
仕掛けた罠に、自分で引っかかっていく姿をみちゃった。こうして誰がその流れを作ったのか、誰も分らなくなるんだろうな。

マスメディアは、常に公平な立場でものを書かなくてはいけないというのが、大前提だ。
しかし本当に右も左も全く公平にものを見てそれをそのまま書いたら、人々はその記事を読んで、はたして面白いと思うだろうか。公平である前提は「自分で考えろ」ということなのだが、そもそも人が記事を読むのは、どこかで答えを求めているからだったりする。だからその中にひそかに「こっちの方向ですよ~」と、もっていってもらえることをどっかでほしがるんじゃないだろうか。「あ~、なるほどオ〜。そっちの方向かあ~。考えもしなかったなあ。そっち、いいかも」となる。早い話が誘導されているわけだが。

新聞などの記事を読んで、人の考えに惑わされるなというセリフをどこかで聞いたことがあるが、それも同じ事を言っている。ともかく、人は言葉に弱いのだ。なんでもかんでも最初に聞いた言葉に粘着するくせがあるんじゃなかろうか。
ま、ようするに人はとことん自分で考えるのが面倒なようだ。


絵:「メディアファクトリー新書/死体入門」とことん死体について語ります(笑)。