私たちは自分で自分をいじめている。
ピンとこないかもしれない。
でも心の中でつぶやいている自分の言葉を意識すると見えてくるものがある。
どうせうまくいくわけがない。
世の中甘くないんだよ。
浮かれちゃいけない。
気がつくと、自分を萎えさせることばかりつぶやいている。
そのつぶやきが、いかに自分を疲れさせ、限界を与え、卑小さを教えていることか。
嬉しいことがあっても、浮かれちゃいけないと嬉しさを押し殺し、
褒められても、いやいや私なんか、、と大切なギフトを受け入れようとしない。
今ここにいる私は常にどこか欠けていて、
それを何かで埋めようと尻を叩く。
これのどこが自分をいじめていないといえるだろうか。
私はある晩思った。
私は私をいじめて何の得があるんや?
もし何かしらの得があったら、私はもっと幸せになっているはず。
でも心はいつも不安ばかり。
本当はこれのせいなのではないか。。。?
この自分をいじめる思いに乗っているからではないか?
その考えを信じて、疑ってもいないのではないか?
そしてこの思いは本当に正しいのか?
それから実験を始めた。
心に浮かぶ自分を否定する考えを却下し始めた。
浮かんできたら、「あ、来た。。」
と気がついてそれに乗らない。
浮かんでも乗らない。
浮かんでも乗らない。
浮かんでも。。。
繰り返した。
心が静かになった。
その代わり何か根拠のない喜びがふつふつと湧いてくる。
いいことがああったわけでもない、美味しいものを食べたわけでもない、
ただそこに喜びがある。
くすぐったかったり、ウキウキしたり、時々踊っちゃったりもする(笑)。
ここにいる私は、何か欠けたものがあるんだろうか。
欠けているとは、何かと比較して欠けていると思うのだ。
でもここにいる私は、唯一無二の私。
誰と、何と、比べる?
比べる対象などない!
自我の心は何かと比べて欠けていることを意識させる。
お前はダメだ、お前は欠けている、劣等生だ。
その意見に「そうだそうだ」と、もう60年以上同意してきた。
そろそろやめてもいい年頃だ(笑)。
何かを探して心がさまよおうとするとき、
それに気づく。
それになんの意味がある?
と、問うてみる。
そのとき、自我の視点にはいない。


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