目の前に現れてくる現象に振り回されなくなってくると、
頭の中でひそひそとささやく声が聞こえ始めた。
寝ているあいだも、昼間に起きているあいだも、そのひそひそ声は話す。
夜寝ているときは、フラッシュバックのように、ありとあらゆるものすごい量の映像を見せ続け、馴染みのある苦痛をともなう内容を話し続ける。
お金は?老後は?病気は?老化は?仕事は?親は?旦那は?あの人は?。。。
私たちの悩みは、すべて同じもの。
お金、健康、人間関係、、、。
どんなお金持ちでも、どんな貧乏でも、形は違えど、ほぼこの問題に終止する。
そしてその中心に置かれているのがカラダだ。
私はカラダであるという信念が、このカラダをいかに快適にさせるかに注がれている。
ここで「私はカラダではない!」と宣言したところで、何の力にもならないことは、経験から言える(笑)。
しかしカラダが主体であるがゆえに、この世界の全ての悩みがあるのも事実だ。
このひそひそ声は、ずっと私の頭の中で聞こえていたのだ。
それが四六時中聞こえていると自覚しないままに、
私は立ち上がってくる不安や罪の意識に苛まれて、行動をしていたのだ。
この声をよく聞いていると、脅すだけ。
アドバイスを聞くと、どこかで聞いたことのあるものしか言わない。
そのアドバイスとは、さらに苦痛を促すような、さらに犠牲を強いてくるようなものでしかない。
決して心がぱあっと明るくなるようなことを言わないのだ。
それは当たり前だ。これが自我の声だから。
自我は自分が実在していないのを知られては困る。だから自分にまともにフォーカスされないために、この私が何か問題を抱えているような演出をしてくるのだ。
そしていつまでも、このあるように見えているこの世界で問題を抱えさせ、この世界に執着させ、いつまでも維持させ続けている。
私に罪悪感を持たせ、ずっと恐れさせ続けていたのは、この声だったのだ。。。。!
「もしあなたが、自我がいかに大声で呼びかけてくるように思えてもその声に耳を貸さず、
あなたが本当に欲しいものは何一つ与えてくれない自我のつまらぬ贈り物を受け入れず、
救済とは何かをあなたに教えてはくれなかった心を空(から)にしてよく聞こうとすれば、
あなたには力強い真理の声が聞こえてくるだろう」
奇跡のコース、ワークブック、レッスン106
私はひそひそと聞こえてくる声に、ただ黙った。
黙ると静かになった。
あの声は自我と一緒になっていた私の声だったのか。
私が黙ると黙るのだった。
静かになった心の中で思う。
私は自分の力を自我に預けていたのだ。
私の心は自我と一緒か、聖霊と一緒かのどちらかにしかいかない。
ふいに神社の鳥居をくぐるシーンを思い出した。
鳥居の真ん中は決して歩かない。
そこは神様が通る道だから。
だから私たちは、真ん中からちょっと脇によけて通る。
聖霊と私の関係はこれに似ている。
神殿/光に向かって歩む時、
ちょっと脇によって、聖霊に先に行っていただこう。
私はその後をついていこう。
今まで自我と一緒に鳥居の真ん中を歩こうとしていたのだろうな。
自分でなんとかしなければと、自我と必死で生きてきた過去を思い起こす。
そんな自分をクスッと笑って通り過ぎよう。
静けさの中で、力が湧いてくる。
喜びが溢れてくる。
幸せは何もせずとも、ここにすでにあった。
絵:「ささやく杉」
2 件のコメント:
つくしちゃんの言葉には必ずと言っていいほど「自我」が現れる。
「自我」とは何なのか、私にはまだ解らない
「自我」とはねえ。。。
およそあなたが日常的に考えているその考えすべてです!(爆)
自我って、英語にすると「エゴ」だから、
エゴイズム、つまり自分勝手っていう風に解釈されちゃうんだけど、
違います。
そうだなあ。。。
ある考えが出てきて、その考えの中に恐れが入っているなと気がついた時、
それは自我が持つ考え方です。
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