「はじめに言葉ありき」
言葉があって、この世界が出来上がった。
私たちはそれを良きこととして受け取っている。
言葉とは名前だ。
つくしという名前があり、〇〇ちゃんという名前がある。
その瞬間分離が起こる。
〇〇ちゃんと私は違う人になり、心の中も違う人。考えも違う人。収入も肩書きも過去も全く違う人になる。
コップちゃんとテーブルちゃんは同じじゃない。それは違うからだ。
コップちゃんはテーブルちゃんを「私とちがーう」と否定しないかぎり、コップちゃんでいられない。
テーブルちゃんもまた、コップちゃんを否定しないかぎり、テーブルちゃんとして独立できないのだ。
つまり互いに否定し合うことによって、それぞれが独立できる、という仕組みになっている。
分離とは、互いに否定し合うことなのだ。
(この話はハレルヤさんの講義で聞いたお話)
つくしちゃんがいるのは、〇〇ちゃんを否定するから存在する。
この世は言葉だらけだ。
ある一つの名前がつけられた瞬間、その存在が立ち上がり始める。
それまで存在しなかったものが、形を持って存在し始める。
人はそれを喜んだり、悲しんだり、恐れたりする。
言葉がこの世界を作っている。
それを楽しめもすれば、悲しめもする。
つくしちゃんは、〇〇ちゃんと違うことで、悲しみが増える。
どう違うか、言葉によってその違いを味わう。
言葉は、感情にも名前をつける。
この感情はこういう名前、この感情はこういう名前、そしてこの名前の感情は、嫌うべきもので、こっちのは好きになるべき感情、云々。。。
名前によっては嫌うべき名前もある。突き放したい名前もある。
そうかと思えば、最初は好きだった名前も、だんだん嫌いになっていったりもする。
いつの間にか頭の中は言葉だらけ。
つけられた名前、それに対する感情にも名前、それをどうにかしようとする行為にも名前、その名前たちに解釈がつけられ、判断され、解決するために、多大な言葉を使う。。。
そうやってこの世界は続いていく。
さもあるがごとく。
言葉は分離を生み、互いを否定し合いながら、折り合いをつけようと躍起になる。
分離のままでいたいなら、なぜそのまま幸せではないのだ?
分離しているだけでいいではないか。
なぜこうも苦しい?
本当は一つになりたいのではないだろうか。
その一つになりたい思いが、折り合いをつけようと躍起にさせる。
けれども分離して独立したいという思いと、一つになりたいという思いは、融合することはできない。
そこで最初に戻る。
言葉がこの世界を作ったのなら、言葉がなかった時はあったのか?
言葉によってこの世界が作られる、その元の何かはあったのか。
一つになりたいというその衝動はどこから来ている?
頭の中からあらゆる言葉が消えた時、静けさが戻る。
戻るという感覚は、それをどこかで知っていたからだ。
その静けさの中に、安堵がある。
安堵の中に、暖かさがある。
暖かさの中に、満ちているものがある。
満ちているものの中に、喜びがある。
喜びの中に、
かつて知っていた愛があった。
それが本当の名前。
神の言葉。
絵:「エストニア」/健康と生活表紙イラスト
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