台所にゴキちゃんがいる。
夜電気を消したり、私が歩かなくなると、ごそごそでてくる。でかい。
「ゴキちゃん、でた~」
とさけぶと、ダンナが網を持っていそいそやって来る。ダンナはゴキちゃん捕獲の名人だ。ちょっとどんくさい所はあるが。
網で捕獲すると、ゴキちゃんを外の駐車場の向こうまで持っていってポイしてくる。自由になったゴキちゃんはサササーッとどこかの家に向かって走っていく(おい、こら)。
キホン、殺さない主義の私。
しかしこう毎晩毎晩出て来ると、もういても立ってもいられなくなる。ついにゴキブリホイホイを買ってしまった。
夜。
痛む心を抑えながらホイホイをセッティングする。ほら、またでた。あっという間に引っかかった。3つしこんで3つとも入ってもがいている。ああ。キホン殺さない主義の私。やってんじゃん。罪悪感が頭をもたげる。ぐぐぐ~っと。
じゃあ、やめればいいじゃん。ピダハンのように、ゴキちゃんが腹の上をはおうが、タランチェラが額の上をはおうがじぇんじぇん気にしなければいーじゃん。
でっ、、、できない。。。
畑で草を刈る。
バシバシ刈る。草を殺しながら考える。キホン殺さない主義とスローガンを掲げながら、蚊は殺す。バシッと躊躇なく殺す。草はバシバシ殺すのに、野菜の苗を切っちゃったら「ああ~、野菜さん、ごめんなさい~」という。
どこがキホン殺さない主義だ。(このキホンという言葉にゴマカシが入っている)
ガンジーは言う。暴力はいけない。殺してはいけない。徹底して殺さない主義だ。だから自ら差し出されたフルーツを食う。すごいりっぱな生き方だ。
ほんとに?
ガンジーは、今自分が立っているその足下の虫たちも、微生物も、草も、おしつぶして殺してはいないんだろうか。
いいことと、わるいこと。
この二つの分別のはじまりが、この世に矛盾をおこしはじめる。
殺すことはわるいこと。という教えが私たちの中にどっぷり入っている。
こんな事を言うと、
「ああそうか。じゃあ、殺すことはいいことなのか」
というヒトがいる。それがコインの裏表だ。こっちじゃなければあっち。いいことじゃなければわるいこと。得じゃなければ損なこと。その二元論の中でコインをあっちこっちとひっくり返しているだけだ。私たちはすぐそういう考え方を自動的にやっている。
私はゴキちゃんを殺すのはわるいことだと思っているが、蚊を殺すことはわるいことだと思っていない。そこに何の分け隔てがあるのか。大きさ?身をかばいきれないものと、かばいきれるものの違い?
結局、自分のことを考えているだけなのだ。
自分の身にとっていいこととわるいこと。無意識にそういう判断がおこなわれている。ゴキちゃんを殺すのはわるいことなのに、自分が安心して寝られるようになるために、わるいことをする。二つの相反するおもいが葛藤を起こし、マレーグマのツヨシ君のように頭を抱えて振り回す。
その矛盾に罪悪感を発令するのだ。
「ああ、残酷な私。。なんて罪深いの。。」
なぜ人間は罪悪感というものを作ったのか。
罪深いと言いながら、それをやってしまう。でもでもでもそれはいけないことなのよ。。。(つまり私ってやさしい人)と言ってる自分を良しとする、という善意のすり替えがおこなわれている。そんなばかばかしい事を繰り返してやっているのだ。これって偽善じゃねえのか?
ではなぜそれが「使える」と思っているのか。
罪の意識は、自分が今そこにいるという感覚を強く持たせる。そして横には罪悪感をもたせた対象物が存在する。罪悪感は「自分」というものを実感する快感をもたせると同時に、自分以外のものという分裂を生み出すのだ。
反対に、幸せな気分というものは、対象物を作らない。おいしいモノを食べてたのしい時間を過ごしているとき、横にいる人と自分の断絶を感じたりするだろうか。むしろ一体となってその場所を共有している感じがないだろうか。するとそこには、「自分」「私」「私のアイデンティティ」というものが存在しない。
分離には矛盾が生じるが、一体に矛盾は生じない。なぜならそこには断絶がないからだ。
では断絶するものは何か。
いい、わるい、という判断なのではないか。
それに気がついたとき、やまんばは自分がいい、わるい、と判断しているものを探してみた。すると、でてくるでてくる柿の種。。。
便が出ない=わるいこと。(便のでがいい=いいこと)
おかずが少ない=わるいこと。(おかずが多い=いいこと)
ネットをみている=わるいこと。(ネットをみない=いいこと)
お菓子を食べる=わるいこと。(お菓子を食べない=いいこと)
腹が出ている=わるいこと。(腹が出てない=いいこと)
庭が草ぼうぼう=わるいこと。(草のない庭=いいこと)
仕事の直しが多い=わるいこと。(一発で通る仕事=いいこと)
顔のシミ=わるいこと。。。(シミのないお顔=いいこと)
ホーラ出て来る。山のように!
私たちは瞬間的に無意識のうちに、これ、いいこと。これ、わるいこと。という判断をおこなっているようなのだ。それは一歩足を踏み出すごとに土ぼこりが舞い上がるようにわき上がって来るのだ!
目にするもの、頭をよぎるものに「○」か「×」かを瞬時に判断して(たいてい「×」に集中しているが)、罪悪感をみなぎらせているのだあ〜!
そうやって四六時中頭の中を思考が旋回しているのだ。
だから「善悪の彼岸に立て」っちゅうのんは、そーゆー、空回りしている努力が人間を疲弊させて、本来持っているぼーだいなエネルギーを無駄に消耗させているだけなんだから、やめときなさい、と言ってるだけなんかもしれん。
で、ゴキちゃんへの罪悪感はどーなったのだ?
4 件のコメント:
いい悪いではなく、好き嫌いだとニュアンス変わるんじゃないですか?
便が出ない=嫌い。(便のでがいい=好き)
あ、それ、どっちもおんなじ。
蜘蛛を飼うのはどうでしょうか。種類によっては、ゴキちゃん、食べてくれるらしい。
やっほ〜、りすさん、
くっ。。くっ。。。蜘蛛。。。ですかい。。。
あたしゃあ、この世でなにが嫌いって、蜘蛛ぐらいきらいなもんはないんで。。。
勘弁しておくれ(笑)。
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