自分を知ることは、どこかで怖いことだと私たちはおもっている。それは、知れば知るだけ恐ろしい結果を見る事になるからだと信じているからのようだ。どうして「恐ろしい結果」と思うかと言うと、そこに評価が入り込むからだ。「いいこと」「わるいこと」「してはいけないこと」という評価だ。言葉のまわりには、それに対する感情や反応がまとわりついている。
「オレ、ひょっとして嫉妬深いかも。。」
と思った瞬間、嫉妬深い=わるいこと、という判断が即座におこなわれ、「あっ、見たくない」という拒絶の反応がやって来る。するともう、そこから先に踏み込めなくなる。
のような、反応の習慣が邪魔をするようだ。
その評価をいったん捨てるのだ。なんも評価しない。いいもわるいも考えない。自分だと思うから苦しくなる。どっかの誰かさんの思考のパターンを調べる、とでもおもってさぐる。
パターンを探るきっかけは、自分がなににつねに反応しているかだ。ダンナの言葉、奥さんの仕草、ニュースで聞く言葉、人との関係。
なんかそれをされると、イライラする、カチンと来る、ムカつく、不安になる、心配になる、動揺する、そんなようなものがあるだろうか。そしてそれは、同じことや似たような状況に同じように反応していないだろうか。たいてい夫婦間では、いっつも同じテーマでケンカになるもんだ。
と、こういうと、だいたいこうなる。
「だって、あいつがあんなこと言うんだもん。怒るに決まってるだろ」
いつのまにか、相手が言ったことや、したことの方に原因を求めて来る。それで自分の正当化をはかり始める。
これが視点が変わってしまう瞬間。
自分のことを掘り下げているのに、いつのまにか人のことを掘り下げていく、という事にすり替わっていってしまう。これやっていると、いつまでたっても自分のことを掘り下げられなくなる。
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