2012年4月18日水曜日
巨人であることを思い出す
人間は石けんなしで生きていける。
こんな単純なことなのに、何か大事な事を教えてくれていた。私たちが「これ必要。これがないと生きていけない」と思い込んでいるものが、単に思い込まされているだけだったかもしれないということを。それが思考のいつもの手口だったという事を。
これがないと、あれがないと、こうしなきゃ、ああしなきゃ。。。。
思考はそれを加速させてくる。思考は私たちを、脅かしたり喜ばせたりしながら、アメとムチでその存在を主張して来る。そして最終的にはその宿り主を自爆させる。それが今の時代、強烈になった。こんなに精神的な病いが多いのは、彼らの頭の中が、敵、味方、自分、他人、信じる、信じない、許す、許さない。。。。そんな考えでいっぱいになって、自分自身を忘れているからではないのか。
それはすべて思考が作り上げてきた罠なのかもしれない。それに気がつかず、勝手に自分の中で思考を爆走させているのではないだろうか。私たちは今、その思考に振り回されている。わたしたちは思考の特徴を知る必要がある。思考万能主義になってはいけない。それは道具であって、けっして主人ではないのだ。
その主人は、思考の宿り主は、巨人だ。
巨人は思考によってでくのぼうと教えこまれているが、素直だからそのまま鵜呑みにしただけだ。巨人が巨人自身に気がつくと、その未来は開けて来る。およそ私たちが妄想する「こうあったらいいな」の能力は、たんに忘れられているだけなのかもしれない。ひょっとしたら大昔、その能力を破壊に使ってしまったのかもしれない。だから封じ込めた。それは「思考」を使うことによって。「恐怖」という封印を使うことによって。
だが私たちはその恐怖によるしばりつけをそろそろ卒業するときだ。それはいわば原始的な方法だ。私たちは理解によってその封印をとくことができるかもしれない。
大昔、巨大な力に、あるときふっと思考がささやいたのだ。
「それで力を誇示せよ。人の上にたて。。。」
それは魅力的な言葉だった。誰よりも強く人の上にたって自分を誇示するんだ。。。
それが自分と他人という分裂をよびおこし、やがて自分さえも破滅にむかわせることをもし本当に理解していたなら、そのふとよぎった思考には乗らなかったのかもしれない。
思考のパターンや特質を本当に理解し、それを単なる道具として扱えるようになるなら、私たちは巨人であることをおもいだすにちがいない。それはこの大自然と宇宙とこの宇宙に住むすべての生命と、すべてはひとつであるという事に気がつく巨人だということを。
絵:オリジナル「天狗の孫/たそがれときまえにまちをのぞむ」
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