私は厳しい父と母に育てられた。
いや、昔はそれがあたりまえで、それほどでもなかったのかもしれない。しかし幼い私にはただひたすら厳しく見えた。父と母の意見は絶対的で、巌のように私の前に立ちはだかる二つの巨大な存在だった。
私は一人っ子だった。これがほかに兄弟でもいたなら、「とーちゃんてさあ。。」とか「かーちゃんてさあ。。」などと、お互い親の悪口やグチを言い合えて、つらいことなどを発散できたかもしれない。その視点は、親を一人のニンゲンとして引いてみられる瞬間であったかもしれない。
しかし家に子供は私一人で、親の愚痴をいうということも、親からもらう厳しいしつけも、引いてみることはできなかった。こういう状況におかれた私には、ある一つの法則が出来上がる。
『怒られる=私が悪いことをした』
何の気なしにやったことをいきなり怒られる。
「こりゃあ~っ、なにしよらあやあ~!」
本人は何がなんだか理由が分からない。
直後、巨大なにぎりこぶしが私に降り掛かってくる。はだしで家の外に出される。
理由は、下駄をそろえなかったり、新聞踏んだり、ご飯残したりしたことのようだった。
こういうことがいつもおこると、だんだん心の中で、「私は気づかないうちに悪いことをしてしまうニンゲンなのだ」とインプットする。だからいつも「何か悪いことをしているんじゃないか?何かとんでもない失敗をしているんじゃないか?」とびくびくした。
大人になって親元を離れると、その思いは一つの親代わりを作り上げた。
「私はいつも気がつかずに悪いことをしてしまうニンゲンなのだから、怒られないように、そして世間に迷惑かけないように、とーちゃんやかーちゃんの代わりになる存在を作っておこう。」
「あんたなんか今、悪いことしてないかね」
と、その監視人はいう。
すると私は一瞬まわりを見渡して、
「うん。今のところやってない。大丈夫」
と確認して安心するのだ。
その存在を知ったのはほんの2年前だった。最初、私は二重人格者なのだろうかと心配した。しかしそのひとり言のような言葉にいちいち気がつくうちに、その言葉はやがて消えていった。しかしその下にそれを作り上げた心の習慣が、さながら大陸の下に眠っている岩盤のように横たわっていたのだ。
それが自己嫌悪という心のパターンであった。
こいつはありとあらゆるところにひそんでいた。朝起きた瞬間からそれは動き出した。「いかん。はようおきんといかん」「ちゃんとせんといかん」「怒られんようにせんといかん」「がんばらなあいかん」「仕事せんといかん」「まじめにせんといかん」「人に迷惑かけたらいかん」「人にいらんことゆうたらいかん(のわりには、よくいらんこと言うが)」
こういう言葉にならない瞬時の思いが、あらゆる場面で繰り返し行なわれていたのだ。
これは小さい時の「知らないうちにいらんことする私」という思い込みのためだ。完璧に無意識で一瞬のうちに判断する。「何か間違ったことしてないか?」
ここまで完璧に自分の行動をちくいちチェック入れているものならば、さぞかしスンバラシー人格が出来上がるはずだ。
しかし。
どこにいるのだ?そんなスンバラシー人格者は?
「はようおきんといかん!」というわりには、起きるの遅いし、「怒られんようにせんといかん」というわりには、わざわざ怒られるようなことをするし、「がんばらなあいかん」というわりには、ものすごく怠惰だ。
これはいったいなぜだ?あの24時間態勢で自分に常にチェックを入れ、完璧なまでに自分を批判する私。それがちっとも効いてないではないか!
まだつづくぜよ。
3 件のコメント:
こうしたら、怒られた。
ああしたら、誉められた。
ってパターン化ができないと辛いですよね。
学習できないから・・・。
怒られても、次はこうしないって、習得できればいいんですけどね・・。同じことやって怒られちゃうと、何だかわかんなくなっちゃう。
子ども困る・・・
なんで怒られたのか、なんで誉められたのか、という理由を理解することでしょうね。そのためには、怒られた時、感情的にならないで自分を見られるかでしょうね。
いやいや。傾向がないと難しいでっせ、
パターン読むの。
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